カンビュセス2世

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カンビュセス2世
𐎣𐎲𐎢𐎪𐎡𐎹
ペルシア
古代エジプト王として聖牛アピスを崇拝するカンビュセス2世(左)
在位 紀元前530年8月 - 紀元前522年7月1日
別号 諸邦の王英語版
バビロン
古代エジプト

死去 紀元前522年7月
シリア、アグバタナ
埋葬 ペルシアパサルガダエ
配偶者 パイデュメ英語版
  アトッサ
  ロクサーナ
家名 アケメネス家
王朝 アケメネス朝
父親 キュロス2世
母親 カッサンダネ英語版
宗教 古代イランの宗教(ゾロアスター教?)
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カンビュセス
古代エジプト ファラオ
統治期間 紀元前525年 - 紀元前522年アケメネス朝第27王朝
前王 プサムテク3世
次王 スメルディス?またはダレイオス(1世)
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カンビュセス2世古代ペルシア語: 𐎣𐎲𐎢𐎪𐎡𐎹 k-b-u-ji-i-y(Kaᵐbūjiya) カンブージヤ[2][3]、? - 紀元前522年7月)は、アケメネス朝ペルシア帝国の第2代(在位: 紀元前530年8月 - 紀元前522年7月1日)。

エジプトを征服し、古代オリエントを統一した。

即位まで

カンビュセスはペルシアキュロス2世と王妃カッサンダネ英語版の間に長男として生まれた。

紀元前539年新バビロニアを滅ぼした父王はキュロスの円筒印章において、バビロンの神マルドゥクを畏れる自身とその息子カンビュセスがマルドゥクから祝福を受けたと述べている。紀元前538年3月27日、カンビュセスはバビロニアの新年祭に参加した[4]。この年、カンビュセスはバビロン王となったが、この地位は1年と持たなかった。

紀元前530年、父王はマッサゲタイに対する遠征に先立ち、カンビュセスを共同統治者に任命した。これを示すバビロニアの粘土板文書は8月31日に初めて作られた。父王は遠征中にカンビュセスをペルシアに送り返し、その後戦死した。こうして数ヶ月の父王との共同統治の後、カンビュセスは単独の王となった。

エジプト征服

プサムテク3世を捕らえるカンビュセス(紀元前6世紀のペルシアの印章より)

古代オリエントの大部分を征服した父王の後を継いだカンビュセスはこの地域に唯一残っていた独立国であるエジプト(当時は第26王朝)の征服に取り掛かった。エジプト遠征に先立ち、カンビュセスは東部諸州の総督であった同じ父母を持つ弟スメルディスを密かに殺害したという(ヘロドトスはこれをエジプト征服後のこととしている)。一方、エジプト王(ファラオ)であるアマシス2世(イアフメス2世)はギリシア人と同盟を結ぶことによってペルシアの攻撃に対抗できると期待していたが、キプロスの都市と大艦隊を有していたサモスの僭主ポリュクラテスがペルシア側につき、ギリシア軍の司令官であったハリカルナッソスのパネス英語版がアマシスを裏切ったため、その期待は外れることになった。

エジプトでアマシスの息子プサムテク3世が王位を継いだすぐ後の紀元前525年、カンビュセスによるエジプト遠征は始まった。カンビュセスは砂漠を経由する進軍に備えてアラブ人の族長と同盟を結び、軍に十分な水を供給して遠征を行った。エジプト軍はエジプトの東端のペルシウムで行われたペルシウムの戦い英語版で大敗してメンフィスに撤退したが、メンフィスもその後間もなく陥落した[5]。プサムテク3世はペルシア軍によって捕らえられ、第26王朝は滅亡した。

その後、カンビュセスはエジプト王となった(エジプト第27王朝)。カンビュセスはサイスにある女神ネイトの神殿で即位式を行った。また、エジプトの記録によれば、聖牛アピスが世を去ったとき、カンビュセスは花崗岩で作られた棺でアピスを埋葬した(ヘロドトスはカンビュセスがアピスを殺し、アピスは秘密裏に埋葬されたとしている)。また、カンビュセスはエジプトの神殿が王から受け取っていた多額の収入を3つの神殿を除いて削減した。

さらなる征服の試み

エジプト征服の後、エジプト近くのリビア人、そしてキュレネバルカ英語版という2つのギリシア人都市がペルシアの権威を受け入れた。その後、カンビュセスはカルタゴシワ・オアシスアメン神の神託所があった場所)、クシュの征服を試みた。カルタゴへの遠征はフェニキア人が同族への攻撃を拒否したため行われず、シワ・オアシスへの遠征は失敗したという。クシュへの遠征ではその北部を征服することに成功したものの、食糧不足で砂漠を越えることができずに撤退したという。

崩御

カンビュセスがエジプトにいた紀元前522年3月11日、ペルシア本土でカンビュセスの弟スメルディスを名乗る者が反乱を起こした。古代の記録ではこの人物をスメルディスになりすましたマゴス神官ガウマータであったとしている。カンビュセスの治世を記録したバビロニアの粘土板文書は治世8年目の紀元前522年4月に終了している[6]。自称スメルディスは7月1日までには帝国を掌握した。その後カンビュセスは「自らの死によって死んだ(古代ペルシア語: uvamaršiyuš amariyatā)」という。当時カンビュセスの槍持ちであったダレイオス1世ベヒストゥン碑文の中で述べたこの表現は、自然死とも、自殺とも、ヘロドトスやクテシアスのいうように事故死とも解釈される。ヘロドトスによれば、カンビュセスはこの反乱を鎮圧するために馬に跨ろうとしたときに剣が自身の太ももに刺さり、その20日後にシリアのアグバタナ(おそらく現在のハマー)で崩御したという[7]フラウィウス・ヨセフスダマスカス、クテシアスはバビロンの自邸でカンビュセスが崩御したと述べているが、どちらも信憑性は低いとされている[8]。また、ダレイオス1世が王となるための前段階としてカンビュセスを暗殺したという説も挙げられている[9]。カンビュセスの王墓は2006年パサルガダエで発見されたという[10]。カンビュセスの死後、自称スメルディスは単独の王となったが、その後間もなくダレイオス1世たちによって殺害され、ダレイオス1世が王となることになった。

結婚

カンビュセスはペルシアの貴族オタネス英語版の娘パイデュメ英語版と結婚し、さらに自身の2人の妹、アトッサロクサーナとも結婚した。この結婚は歴史上確認できる最古の王家によるフヴァエトヴァダタであったと考えられている[11]。カンビュセスに子はいなかった。

伝承

エジプト遠征のきっかけ

ヘロドトスなどによれば、カンビュセスは父キュロスの時代にペルシアに送られ、アマシスを恨んでいたエジプト人の医師の勧めによってアマシスに彼の娘を要求した。アマシスは娘が側室となることをおそれ、自身が殺害した先代の王アプリエス英語版の娘ニテティス(ギリシア語: Νιτῆτις Nitêtis ニテーティス/(ニティティス))を自身の娘であると偽ってカンビュセスに送ったのだという[12][13]。また、エジプト人による伝承では、アマシスの娘を要求したのはカンビュセスの父キュロスであり、カンビュセスはキュロスとニテティスの間に生まれたとされている[14][13]。いずれにせよ、ニテティスはペルシアで正体を明かし、カンビュセスは亡きアマシスの息子へ報復するためにエジプト遠征を決めたのだという。

カンビュセスの失われた軍隊

ヘロドトスによれば、カンビュセスはシワ・オアシスの征服のために5万人の軍隊をテーベから派遣したが、着くことも戻ることもなかった。シワ・オアシスの住人は兵士たちが砂漠で昼食を取っているときに巨大な砂嵐が兵士たちを襲い、全員が砂に埋もれてしまったと語ったという[15]。多くのエジプト学者はこの話を伝説に過ぎないと考えているが、ラズロ・アルマシー伯爵(小説『イギリス人の患者』のモデルとなった人物)や地質学者トム・ブラウンなどに代表される多くの人々が長年にわたって兵士たちの遺骨を探し求めてきた。近年の石油採掘によってその遺物が発見されたと考える者もいるという。

カンビュセスの暴虐

ヘロドトスによれば、カンビュセスは酒に溺れて狂気に陥った暴君であり、サイスでアマシスの遺体を辱めて燃やし、クシュへの遠征から戻ったときにアピスの出現を祝う祭りに参加した人々とアピスを殺し、弟スメルディス、妹でもあった妊娠中の妻、その他多くのペルシア人を殺し、その他様々な暴虐を行ったという。ただし、この伝承にはペルシアやエジプトで広まった捏造や誇張が含まれていると考えられている。

創作物におけるカンビュセス

脚注

参考文献

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