Wikiwand AI

アングロ・アイリッシュ

アイルランドにおける民族、社会的階級の集団 From Wikipedia, the free encyclopedia

アングロ・アイリッシュ(英語: Anglo-Irish, アイルランド語: Angla-Éireannach)は、アイルランドにおいて、大半はイングランド人のプロテスタント支配層(英語版)の末裔や継承者によって構成される民族・社会、そして宗教的集団を意味する[4]。大半のアングロ・アイリッシュは、1871年までアイルランドの国教だったアイルランド聖公会に所属していたが、より少数の者の中には、バプテスト教会、長老派教会、メソジストのようなイングランドの非国教会の宗派に属する者もいた。しかしながら、若干のカトリック教徒も存在した。彼らはしばしば彼ら自身を簡潔に「ブリティッシュ」、もしくはより頻度が下がるが、「アングロ・アイリッシュ」「アイリッシュ」または「イングリッシュ」と定義づけた[5]。多くの者がイギリス帝国の行政官や陸軍および海軍の上級士官(英語版)として注目されるようになった。1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立する事で、政治的に統合されるまでの1世紀以上にわたる歳月の間、イングランド王国およびグレートブリテン王国は、アイルランド王国と物上連合(英語版)の関係にあった。

概要 総人口, アイルランド共和国 ...
アングロ・アイリッシュ
Anglo-Irish
Angla-Éireannach
聖パトリック旗は、しばしばにわたりアングロ・アイリッシュの表徴と見られている。
総人口
北アイルランド 407,454[1][2]
アイルランド共和国177,200[3]

閉じる

通常の場合、この言葉はイングランドやアイルランドの家系ではない、ローランド地方のスコットランド人の末裔が多くを占めるアルスターの長老派教徒には用いられず、アルスター・スコッツ(英語版)と見なされている。アングロ・アイリッシュの人々は幅広い政治的な見解を抱いており、歯に衣着せぬアイルランド民族主義者が含まれているものの、全体的にはユニオニスト(英語版)が最大の勢力を占めている。そして、アングロ・アイリッシュの最大人口はアイルランドにおけるイングランド系人(英語版)であるが、その他には古くからのアイルランドにおけるゲール人貴族(英語版)の家系の末裔である者も存在した[6]。

社会的階級

「アングロ・アイリッシュ」という言葉は、17世紀から20世紀初頭にアイルランドが独立するまで、アイルランドで専門職や地主を構成していたアイルランド聖公会の所属者に頻繁に用いられている。17世紀の間(英語版)にこのアングロ・アイリッシュの地主階級は、 ゲール系のアイルランド人(英語版)やノルマン・アイリッシュ(英語版)の貴族階級とその地位が入れ替わった。また、彼らは、中世のハイバーノ=ノルマンの入植者の末裔である「オールド・イングリッシュ」との区別のために「ニュー・イングリッシュ」と呼ばれた[7]。

時代により運用の硬軟は変わったものの、17世紀から19世紀の間に施行されていたカトリック刑罰法(英語版)の下では、グレート・ブリテンおよびアイルランドにおいてカトリック教会の国教忌避者は公職にあることが禁じられ、さらにアイルランドにおいては、ダブリン大学のトリニティ・カレッジへの入学、および法曹、医師、軍人(英語版)のような専門的な職につく事も拒まれていた。規定された宣誓を拒んだローマ・カトリックのジェントリの地所は、アイルランドの植民地化(英語版)の間に大半が没収された。カトリック教徒が土地や財産を相続する権利は厳しく制限されていた。この問題は主として忠誠心の問題と見なされていた事から、アイルランド聖公会に改宗した者には失われた財産の維持や回復が認められる事が通常であった。18世紀の後半、自立した立法権をつかんだダブリンのアイルランド議会において、審査法の廃止に向けた運動がはじまった[要出典]。

ダブリンの聖パトリック大聖堂の内部にある聖職者のジョナサン・スウィフトの大理石製の胸像、スウィフトは1713年から1745年まで聖パトリック大聖堂の首席司祭を務めた

彼らアングロ・アイリッシュのすべての家系が、クロムウェル時代のイングランド人プロテスタント入植者までさかのぼる事ができた訳ではなかった。ある者はウェールズの血筋であり、また他の者はオールド・イングリッシュ、地付きのゲール人で聖公会に改宗した者の末裔も存在した[6]。この統治階級の構成者たちは、イングランドの政治、商業、文化的な慣習を維持し続ける一方で、一般的には自分をアイルランド人と認識していた[5]。彼らは、特に当時のイングランドで人気だったスポーツである競馬やキツネ狩りに加わり、グレートブリテンの統治階級と婚姻関係を結んだ。彼らの中で、より大きな成功をおさめた者の多数は、彼らの経歴をグレートブリテンもしくはイギリス帝国のいずれかの地域で過ごした。多くの者が巨大なカントリー・ハウスを建設し、それらはアイルランドにおいてビッグ・ハウス(英語版)の呼び名で知られるようになり、これらはアイルランド社会におけるこの階級の優位性の象徴になった。

ダブリンの労働者階級の劇作家にして断固たるアイルランド共和主義者(英語版)だったブレンダン・ビーハン(英語版)は、アングロ・アイリッシュをアイルランドにおける有閑階級(英語版)と見なした上で、アングロ・アイリッシュの男を「馬とともにあるプロテスタント」と定義した事で知られた[8]。

アングロ・アイリッシュの小説家にして短編作家のエリザベス・ボウエンは、彼女の経験から「アイルランドにおいてはイングランド人、イングランドにおいてはアイルランド人」であり、いずれからも完全な所属者として受容されていない感覚を印象的に描いた[9]。

彼らの軍における傑出と、彼らの保守的な政治信条により、コレッリ・バーネット(英語版)とその他の者の間で、アングロ・アイリッシュはプロイセンのユンカーと比較された[10]。

実業への関心

20世紀のはじめ、ジェイコブズ・ビスケット(英語版)、ビューリーズ、ビーミッシュ・アンド・クロフォード(英語版)、ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー、W・P&R・オドラム(英語版)、クリーヴス(英語版)、R&H・ホール(英語版)、マグワイア&パターソン(英語版)、ドックレルズ(英語版)、アーノッツ(英語版)、グールディング・ケミカルズ(英語版)、アイリッシュ・タイムズ、アイルランド鉄道、そしてアイルランドにおいてもっとも大きな雇用者だったギネスなどのような、多くのアイルランドの重要な企業をアングロ・アイリッシュが保持していた [要出典]。また、アイルランド銀行やグッドボディ・ストックブローカーズ(英語版)のような金融会社も彼らが管理していた。

アングロ・アイリッシュ階級の伝統的な母校であるダブリン大学のトリニティ・カレッジの鐘楼(英語版)の前にあるアングロ・アイリッシュの数学者にして神学者のジョージ・サーモン(1819-1904)の像、サーモンはトリニティ・カレッジのプロヴォストを1888年から彼が没するまで務めた。

著名な成員

著名なアングロ・アイリッシュの詩人、作家そして劇作家にはオスカー・ワイルド、マライア・エッジワース(英語版)、ジョナサン・スウィフト、ジョージ・バークリー、シェリダン・レ・ファニュ、オリヴァー・ゴールドスミス、ローレンス・スターン、ジョージ・ダーレー(英語版)、ルーシー・ノックス(英語版)、ブラム・ストーカー、ジョン・ミリントン・シング、ウィリアム・バトラー・イェイツ、セシル・デイ=ルイス、ジョージ・バーナード・ショー、オーガスタ・グレゴリー、サミュエル・ベケット、ジャイルズ・クーパー(英語版)、C・S・ルイス、ロングフォード伯爵(英語版)、エリザベス・ボウエン、ウィリアム・トレヴァーそしてウィリアム・アリンガム(英語版)が含まれる。ラフカディオ・ハーン (小泉八雲)は、彼の父親がアングロ・アイリッシュの血筋だったが、彼の大おばによりカトリックとして育てられた[要出典]。

19世紀当時、ブリテン諸島でもっとも知られた幾ばくかの数学者や物理学者は、アングロ・アイリッシュであり、ウィリアム・ローワン・ハミルトン、ジョージ・ガブリエル・ストークス、ジョン・ティンダル、ジョージ・ジョンストン・ストーニー、トーマス・ロムニー・ロビンソン(英語版)、エドワード・サビーン、トーマス・アンドリューズ、ウィリアム・パーソンズ、ジョージ・サーモンそしてジョージ・フィッツジェラルドが含まれる。20世紀に入った後には、ジョン・ジョリー(英語版)およびアーネスト・ウォルトンも、アングロ・アイリッシュだった。極地探検家のアーネスト・シャクルトンや、医学の分野においては、ウィリアム・ワイルド(英語版)、ロバート・ジェームズ・グレーヴス(英語版)、トーマス・リグレー・グリムショー(英語版)、ウィリアム・ストークス(英語版)、ロバート・コーリス(英語版)、そしてウィリアム・バビントン(英語版)も含まれている。地理学者のウィリアム・デスボロー・クーリー(英語版)は、グローバリゼーションの経過を描写したはじめての人物のひとりだった[要出典]。

リチャード・ブリンズリー・シェリダン、ヘンリー・グラタン(英語版)、カールスレー子爵、ジョージ・カニング、マカートニー伯爵、トーマス・スプリング・ライス(英語版)、チャールズ・スチュワート・パーネル、そしてエドワード・カーソン(英語版)らのアングロ・アイリッシュの男たちがイギリス政治において主要な役割を演じた。ダウニング街の名称そのものが、ジョージ・ダウニング(英語版)にちなんで名づけられた物である。教会においてはリチャード・ポコック(英語版)主教が、18世紀の旅行記において大きな貢献を果たした[要出典]。

また、彼のもっとも長い経歴をイギリス領インド帝国で送り、アイリッシュガーズにおいて、はじめての名誉連隊長になったフレデリック・ロバーツ(英語版)元帥、ウェリントン(ウェルズリー)の部下だった元帥のゴフ子爵らのアングロ・アイリッシュは、イギリス陸軍において高級将校として活躍した。ウェルズリーも、ダブリンにおいて知られたアングロ・アイリッシュの家のあるじだったモーニントン伯爵の子供だった。そして20世紀に入ってからは、アラン・ブルック元帥、アレグザンダー元帥、ジョン・ハケット将軍、ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン元帥、ガーネット・ウーズレー(英語版)が存在した。(アイルランド軍人のディアスポラ(英語版)を参照)

それ以外は、ニューサウスウェールズ州最高裁長官(英語版)だったフレデリック・マシュー・ダーリー(英語版)、ヘンリー・アーサー・ブレイク(英語版)、アントニー・マクドネル(英語版)、そしてチャールズ・ギャバン・ダフィー(英語版)などのようなイギリス帝国における主要な役人や行政官だった。それ以外にも、それのより良い統治の方法を模索したり、ドノモア委員会(英語版)やモイン委員会(英語版)を主導した者もいた。

ジョン・ウィンスロップ・ハケット(英語版)は、彼が移り住んだオーストラリアにおいて、複数の新聞の経営や編集にたずさわった。また、彼は、西オーストラリア大学の創立への影響力を及ぼし、そして初代の総長を務めた。

多くの楽曲を作ったクラシック音楽の作曲家としては、マイケル・ウィリアム・バルフ、ジョン・フィールド、ジョージ・アレクサンダー・オズボーン(英語版)、トーマス・ロージングレイヴ(英語版)、チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード、ジョン・アンドルー・スティーブンソン(英語版)、ロバート・プレスコット・スチュアート(英語版)、ウィリアム・ヴィンセント・ウォレス(英語版)、そしてチャールズ・ウッド(英語版)が含まれる。

視覚芸術の分野においては、彫刻家のジョン・ヘンリー・フォーリー、美術商のヒュー・レーン(英語版)、画家のダニエル・マクリース、ウィリアム・オーペン、そしてジャック・バトラー・イェイツ、バレリーナのニネット・ド・ヴァロア、デザイナーにして建築家のアイリーン・グレイが、アイルランドの国外において知られていた。

ウィリアム・デズモンド・テイラー(英語版)は、ハリウッド映画初期の、無声作品を旺盛に制作した。脚本家のジョアンナ・ハーウッド(英語版)は、映画「ジェームズ・ボンド」シリーズ初期の複数回をはじめとする多くの作品の筆を執った。

慈善事業にたずさわった者には、トーマス・ジョン・バーナード(英語版)、アイヴァー卿が含まれていた。

南北戦争の南軍の将軍だったパトリック・クリバーンは、アングロ・アイリッシュの血統だった。

2011年、アイルランドの首相経験者であるギャレット・フィッツジェラルド(英語版)は、彼がアイルランドにおける公徳の不足と考える事に関連して、1922年のアイルランド自由国成立以前について、「アイルランドには強力な市民の公徳心が存在した。しかし主としてプロテスタント、とりわけ聖公会信者の間でだった」と論じた[11]。

アメリカの大物実業家(英語版)のヘンリー・フォードは、半分がアングロ・アイリッシュの血筋だった。彼の父親であるウィリアム・フォードはコークで、イングランドのサマセットが淵源の家に生まれた[12]。

アイルランドの独立に対する姿勢

階級としてのアングロ・アイリッシュは、ほとんどがアイルランドの独立や自治(英語版)を求める動きに反対していた[13]。大勢を占めていたのは、1800年から1922年まで続いたグレートブリテンとの政治的連合の継続に対する支持だった。これにはいろいろな要因が存在した、しかし、もっとも重要な理由は、地主階級が連合によって享受できる経済的な収益、イギリスの支配層との個人や家族間の排他的な関係、そして、連合の下でのアイルランドにおける、アングロ・アイリッシュの政治的な優位性だった[14]。アングロ・アイリッシュの多くの男は、イギリス陸軍の士官としての任務に当たり、国教たるアイルランド聖公会の聖職者を務め、もしくはブリテン諸島の全体に、地所や事業の上での利権を有していた事、これらすべての要因がユニオニズム(英語版)の政治的見解を後押しする要因になった。19世紀中盤から1922年までの間、アングロ・アイリッシュは、アイルランド連合主義者同盟(英語版)のような活動の支持基盤であり、アイルランド南部の3県における大部分の支持層を占めていた[15]。

第一次世界大戦のさなか、アイルランド民族主義者の国会議員経験者であるトム・ケトル(英語版)は、アングロ・アイリッシュの地主の階級をプロイセンのユンカーに見立て「イングランドは自由のために戦う目的でヨーロッパに向かい、そしてアイルランドはユンカー階級のためだ」と述べた[16]。

しかしながら、アイルランドのプロテスタントや特定のアングロ・アイリッシュ階級が、グレートブリテンとの政治的連合の継続に執着していた訳ではなかった。例としては、作家のジョナサン・スウィフト(1667-1745)は、アイルランド聖公会の聖職者であるにもかかわらず、地主の下にあるカトリック教徒(英語版)の窮状を強く非難した。また、ヘンリー・グラタン(英語版)(1746-1820)、ウルフ・トーン(1763-1798)、ロバート・エメット(英語版)(1778-1803)、ジョン・グレイ(英語版)(1815-1875)、チャールズ・スチュワート・パーネル(1846-1891)らの改革派の政治家も、プロテスタントのアイルランド民族主義者(英語版)であり、アイルランドの民族主義を盛んに主導し、定義した。1798年アイルランド反乱(英語版)は、間近に迫ったグレートブリテンとの連合による政治的な影響を恐れた者を含む、アングロ・アイリッシュやアルスター・スコッツの階級の人員が主導した[17]。しかしながら、19世紀後半から20世紀のはじめにかけて、アイルランドのナショナリズムはカトリックとの結びつきを深めていった[17]。20世紀はじめまでには、アイルランド南部のアングロ・アイリッシュの男たちの多数は、アイルランド民族主義者たちとの政治的な合意が必要である事を確信するようになった。アングロ・アイリッシュの政治家だったホレス・プランケット(英語版)やモンタギュー卿(英語版)は、「アイルランド問題」の平和的な解決を模索する主導者になった。

1919年から1921年まで続いたアイルランド独立戦争の間、アングロ・アイリッシュの地主の多数が、彼らの邸宅に対する放火の攻撃(英語版)のために国から去った[18]。アイルランド内戦の間、放火は続き、そして、条約に反対するIRA(英語版)による数々の党派的な殺人が続いた。その後、アイルランドの国家が彼らを保護できないと見なしたアングロ・アイリッシュ階級の成員はアイルランドから永遠に去っていった。彼らは、差別的な法律の成立や社会的な圧力に怯えていた。アイルランド自由国として独立して以降の25年間で、プロテスタントが占める人口の割合は、10パーセント(30万人)から6パーセント(18万人)まで減少し[19]、その多数がグレートブリテンに新たに定住した。アイルランド全体のプロテスタントの割合は26パーセント(110万人)だった。

アイルランド自由国の成立が想定された英愛条約に対する、アングロ・アイリッシュの反応は様々な物が含まれていた。条約が締結された1921年12月、アイルランド聖公会のダブリン大主教だったJ・A・F・グレッグ(英語版)は、説教の中で次のように述べた。

アイルランド自由国に対する忠誠の求めは私たちすべてにとって切実な問題です。私は、長きの間にわたり私たちと政治的な立場が異なってきた人々が、私たちの協力を歓迎する事を、真剣に願っている事を信じます。私たちが、そのような提示を拒む事は政治的にも信仰においても誤っています[20]。

1925年に、アイルランド自由国が離婚の非合法化に向けた審議をしていた時、アングロ・アイリッシュの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツは、アイルランド議会であるシャナズ・エアランにおいて、彼の階級に向けた著名な賛辞を贈った。

私は、この国家が独立を獲得して3年にも満たないうちに、私たちがこの国家の少数者の国民が、極めて横暴であると受け取るであろう法案を審議しなければならない状況を悲劇的と考えます。私は、自らをその少数者の類型的な男であると思う事が誇らしいです。あなたがたがこの挙に及んだ相手である、私たちは矮小な存在ではないのです。私たちはヨーロッパの偉大な末裔のひとつなのです。私たちはバークの民衆、私たちはスウィフトの民衆、エメット(英語版)の民衆、パーネルの民衆なのです。私たちはこの国におけるもっとも多くの近代文学を生み出しました。私たちは、それにおける最高の政治的知性を見出しました。それにもかかわらず、私は現実に起きた事を完全に悔いている訳ではありません。私たちが気迫を失ったか否かは、私自身が無理であろうと、私の子供たちが見出す事になるでしょう。あなたがたは私たちの立場をはっきりさせる事によって、民衆の支持をもたらしました。もし、私たちが気迫を失っていなかったとするなら、あなたがたの勝利は束の間の物であり、最後にはあなたがたの敗北に終わる事でしょう。そしてその時にこの国が改革されるかも知れません[21]。

貴族の地位

1594年から1603年まで続いたアイルランド九年戦争(英語版)におけるイングランドの勝利、1607年の伯爵たちの逃亡(英語版)以降、土着のゲール系アイルランド貴族は、とりわけクロムウェルの時代にアイルランドにおいて取って代わられた。ウィリアマイト戦争でさらなる敗北を重ね、イングランドとスコットランドの連合を経た後の1707年までに、アイルランドの貴族の階級は、聖公会信者にして王冠に忠誠を誓う家によって圧倒されるようになった。それでもいくつかは、アイルランド聖公会に順応する事で、領地や特権を維持する道を選んだアイルランドの家も存在した。名字がフィッツジェラルド(英語版)でノルマン・アイリッシュ(英語版)の家系であるリンスター公爵や、ゲール系のギネス家である。また、姓がボイルで、イングランドのヘレフォードシャーが出自のコーク伯爵のように、アイルランドにおける地位が王冠によって保障されている、イギリスもしくはイギリスとの血が混じったいくつかの家が存在した。

主要なアングロ・アイリッシュの貴族には次の者たちがいる。

サー・トーマス・ロレンスによる初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー元帥の肖像

1800年までは、すべてのアイルランド貴族が、ダブリンに置かれたアイルランド議会の上院に当たるアイルランド貴族院の議席を占める権利を有していた。1800年以降は、合同法の規定によってアイルランド議会が廃止された後、アイルランド貴族たちは、ロンドンのイギリス貴族院で、彼らの中から選ばれた28名が、アイルランドを代表する貴族として議席を占める権利を得る事になった。ジョージ王朝時代(英語版)、しばしば、アイルランド貴族の称号は、イギリス君主によってイギリス貴族院の定員の膨張を抑制する手段として、あまりアイルランドと関係がない、もしくは完全に無関係のイングランド人の男に授けられた[22]。

次にあげるものを含む、複数のアイルランド貴族たちが、アイルランドの大統領によって、彼らの助言を聞く目的で国務会議(英語版)の委員に任じられた。

  • ゴールディング準男爵夫人ヴァレリー(英語版)
  • キラニン卿 - 貴族の称号を有していたにもかかわらず、アングロ・アイリッシュの血統ではないアイルランド人のカトリック教徒だった。
  • アッシュボーン卿(英語版) - ゲール語の研究者として知られている。

関連項目

参照

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks