アンドレ・マリー
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1897年12月3日、カルヴァドス県オンフルールで生まれた[1]。祖父がオンフルールで小学校を開校していたこともあり、マリーはその小学校に通い、中学も地元の中学校に通った[1]。1908年に両親がルーアンに引っ越すと、マリーはルーアンのリセ・ピエール=コルネイユ(英語版)に入学した[1]。第一次世界大戦期にはサン=クルー高等師範学校(英語版)への入学願を準備していたが、1916年に動員され、砲兵として前線に送られた[1]。その6か月後にフォンテーヌブローに送られ、士官としての訓練を受けたのち少尉として改めて前線に送られた[1]。
戦後、ルーアンで法律を学び、1920年に法学の学位を修得、1921年に弁護士資格免許を取得した[1]。1922年より弁護士ジョルジュ・メタイエ(フランス語版)(後にルーアン市長、代議院議員を歴任)の下で働き、急進社会党に入党した[1]。1925年に地方選挙で当選したのち、1928年フランス代議院選挙(英語版)で代議院議員に当選、1932年(英語版)、1936年(英語版)の選挙で再選した[1]。
代議院で税金、農業、社会問題など多くの議題に関わり、首相エドゥアール・エリオの目に留まった[1]。1933年10月、首相アルベール・サローにより外務省政務次官に任命され、アルザス=ロレーヌ担当となったが、1か月も満たないうちに(第1次)サロー内閣が倒れた[1]。1934年1月の第2次エドゥアール・ダラディエ内閣で再び外務省政務次官に任命されたが、わずか1週間後に辞任させられた[1]。その後、国際連盟へのフランス代表を務めた[1]。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、マリーは従軍を志願し、砲兵大尉として前線に派遣されたが、捕虜になりサールブールの捕虜収容所に収容された[1]。そのため、1940年7月10日にヴィシーで開催された議会でフィリップ・ペタンに全権を委任する法律が可決されたときは会議に出席できなかった[1]。
1941年に釈放されセーヌ=マリティーム県に戻り、ヴィシー政権の政策に反対して議員を辞任した[1]。その後、レジスタンス運動に加わるも1943年9月に逮捕され、コンピエーニュでの尋問を経てブーヘンヴァルト強制収容所に収容され、1945年4月のアメリカ軍による解放を迎えるまで同地に留まった[1]。
帰国したマリーは政界に復帰し、バランタン市長に選出された[1]。1945年10月の制憲議会選挙(英語版)で急進社会党の元議員の多くが第三共和政の失敗を帰せられて落選する中、僅差ながら当選した[1]。1946年6月の制憲議会選挙(英語版)、1946年11月の国民議会選挙(英語版)でも再選した[1]。
1946年1月にシャルル・ド・ゴールが臨時政府主席を辞任した後、政権は社会党、人民共和運動(英語版)、共産党が握っており、急進社会党は排除されていた[1]。しかし社会党のポール・ラマディエは1947年1月の第1次内閣を組閣するにあたり、社会党の党勢が人民共和運動と共産党と比べて後退していると感じ、マリーを司法大臣として入閣させた[1]。
1947年秋の地方選挙(フランス語版)でド・ゴール派のフランス人民連合が勝利すると、急進社会党と共和左翼連合(英語版)(急進社会党を中心とする左翼政党の連合)は連立相手としての重要性が増し、ラマディエ内閣が倒れた後にレオン・ブルムが組閣に失敗すると、大統領ヴァンサン・オリオールはマリーに組閣を打診した[1]。マリーは組閣を辞退したが、代わって成立したロベール・シューマン内閣で司法大臣に留任した[1]。1948年7月にシューマン内閣が倒れるとマリーは再び打診を受け、今度は組閣に同意した[1]。
マリーは社会党から自由共和党(英語版)(中道右派)までの大連立を組み、ブルムとポール・レノーが入閣した[1]。しかし内閣は農産物価格の上昇をめぐり閣内不一致になり、マリーは8月28日に辞表を出した[1]。
9月にシューマンが第2次内閣を組閣すると、マリーは副首相に就任、その1週間後に成立した第1次アンリ・クイユ内閣には司法大臣として入閣した[1]。1949年2月初に人民連合と共産党がマリーの司法大臣としての不正を追及し、議会はこの追及に根拠がないとする決議を可決したが、マリーは議会での弁解からなる心労で入院することになり、司法大臣からも辞任した[1]。
病気から回復した後、マリーは1951年フランス国民議会選挙(英語版)で再選、1951年8月から1954年6月までの諸内閣(第2次ルネ・プレヴァン内閣、第1次エドガール・フォール内閣、アントワーヌ・ピネー内閣、ルネ・マイエール内閣、ジョゼフ・ラニエル内閣)で国民教育大臣を務めた[1]。在任中の1951年9月にアンドレ・マリー法、1952年11月にバランジュ法(名称は議員シャルル・バランジュ(フランス語版)に由来、マリー=バランジュ法(フランス語版)も参照)を可決させ[1]、公的扶助の一環として貧困世帯向けの奨学金を設立、小学生への補助金を支給した。また1953年6月に組閣を試みて失敗している[1]。
第四共和政末期に植民地帝国の独立問題で揺れる諸内閣に入閣せず、1955年2月にピエール・マンデス=フランス内閣への反対票を投じた急進社会党議員17名のうちの1名となったほか、1956年の選挙(英語版)で再選した[1]。アルジェリア戦争をめぐり譲歩政策に反対し、1956年にマンデス=フランスがギー・モレ内閣から辞任すると、マリーはモレ支持を表明してマンデス=フランスへの批判を強め、クイユとともに1956年10月にCentre républicainを結成した[1]。
1958年6月にド・ゴールの首相就任を支持、同年11月の選挙(英語版)でCentre républicainの候補として再選した[1]。
出典
外部リンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ポール・ラマディエ |
司法大臣 1947年 – 1948年 |
次代 ロベール・ルクール(英語版) |
| 先代 ロベール・シューマン |
閣僚評議会議長(首相) 1948年 |
次代 ロベール・シューマン |
| 先代 ロベール・ルクール(英語版) |
司法大臣 1948年 – 1949年 |
次代 ロベール・ルクール(英語版) |
| 先代 ピエール=オリヴィエ・ラピ(英語版) |
国民教育大臣 1951年 – 1954年 |
次代 ジャン・ベルトゥアン(英語版) |
