イジャスラフ4世
From Wikipedia, the free encyclopedia
| イジャスラフ4世 Изяслав IV | |
|---|---|
| キエフ大公 | |
| 在位 | 1235年 - 1236年 |
| 出生 |
1186年? |
| 死去 |
1255年? |
| 配偶者 | アガフィヤ |
| 家名 | リューリク家 |
| 王朝 | リューリク朝 |
| 父親 | ガーリチ公ウラジーミル・イーゴレヴィチ? |
| 母親 | スヴォボダ? |
イジャスラフ4世(イジャスラフ・ウラジミロヴィチ、もしくはムスチスラヴィチ)(ロシア語:Изяслав ВладимировичもしくはМстиславич、? - 1255年?)は、テレボヴリ公:1210年 - 1211年、プチヴリ公ならびにノヴゴロド・セヴェルスキー公:? - 1235年[1] 、キエフ大公:1235年 - 1236年、カミェネツ公:1240年ごろ。
イジャスラフは、伝統的な説としてはイーゴリ・スヴャトスラヴィチ(『イーゴリ軍記』のイーゴリ公)の孫であり、ウラジーミル・イーゴレヴィチの子であるとされる[2](『イーゴリ軍記』によれば[3]、イーゴリ公が息子のウラジーミル等とともにポロヴェツ族の捕虜になった際に、ウラジーミルはポロヴェツ族の長コンチャーク=ハンの娘スヴォボダと結婚する。この2人の間に生まれた子がイジャスラフとされる[注 1]。)。その場合、母と父方の高祖母とがポロヴェツ族ということになり、イジャスラフは血統の上でルーシ人よりもポロヴェツ族に近いことになる。一方、多数の年代記が、イジャスラフの父称はムスチスラヴィチであると言及している[5] 。トヴェリの年代記に従うなら、父はムスチスラフ・ロマノヴィチであり、別の年代記は父をムスチスラフ・ムスチスラヴィチとしている[6] 。