インターフルーク102便離陸失敗事故
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同型機のIl-62 | |
| 事故の概要 | |
|---|---|
| 日付 | 1989年6月19日 |
| 概要 | 昇降舵の動作不良、及びパイロットエラーによる滑走路のオーバーラン |
| 現場 |
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| 乗客数 | 103 |
| 乗員数 | 10 |
| 負傷者数 | 29[1] |
| 死者数 | 21 |
| 生存者数 | 92 |
| 機種 | イリューシン Il-62M |
| 運用者 |
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| 機体記号 | DDR-SEW |
| 出発地 |
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| 目的地 |
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インターフルーク102便離陸失敗事故 (インターフルーク102びんりりくしっぱいじこ)とは、1989年6月19日に東ドイツで発生した航空事故である。ベルリン・シェーネフェルト空港からシェレメーチエヴォ国際空港へ向かっていたインターフルーク102便(イリューシン Il-62M)が離陸時に滑走路をオーバーランし、乗員乗客113人中21人が死亡した[2]。
事故機
事故機のイリューシン Il-62M(DDR-SEW)は、1988年にカザンで製造され、同年8月9日にインターフルークへ納入された[5]。総飛行時間は1,939時間で、546サイクルを経験していた[2][6]。
乗員乗客
102便には乗員10人と乗客103人が搭乗していた。搭乗者の多くは東ドイツ人だったが、乗客には11人のソビエト人、2人のポーランド人、2人のイタリア人と1人のネパール人が含まれていた[3]。
コックピットには機長と副操縦士、航空機関士、航法士が搭乗していた。機長の総飛行時間は7,796時間で、副操縦士の総飛行時間は8,947時間、航空機関士の総飛行時間は10,627時間、航法士の総飛行時間は16,649時間であった[6][7]。
事故の経緯
102便は東ドイツのベルリン・シェーネフェルト空港からソビエト連邦のシェレメーチエヴォ国際空港へ向かう国際定期旅客便だった。現地時間6時20分、パイロットはエンジンを始動した。始動後、パイロットは操縦系統のロックを解除したが、全ての過程を完了していなかった。また、昇降舵の警告灯のチェックも行われなかった。タキシング中に機長は2度、昇降舵の動作確認を行ったが、昇降舵がロックされていることに気付かなかった。102便は滑走路25Lからの離陸を許可された。6時28分、機体は離陸速度まで加速し、機長は操縦桿を引いた。しかし機体は上昇せず、滑走路を走り続けた。4秒後、機長は離陸中止を決定した。この時点で機体は293キロメートル毎時 (158 kn)まで加速していた。このとき、航空機関士はエンジンを逆噴射されるのではなく、全てのエンジンを停止させた。そのため機体は十分に減速せず、滑走路端を262キロメートル毎時 (141 kn)で走り抜けた。102便はフェンスや木々などに接触しながら滑走し、滑走路端から450mほど先のトウモロコシ畑で停止した[2][8][9][10]。
機体は3つに分断され、コックピットと機体尾部が分離した。また、衝撃によって燃料タンクが破損し、火災が発生したため、胴体部は完全に焼け落ちた[8]。警察によれば消防車と緊急車両は4分以内に事故現場に到着した。消火活動には化学発泡剤が使用され、700人以上の消防隊員が動員された[3]。現場で15人の死亡が確認された。西ベルリンの消防隊は現場に向かおうとしたが、国境警備隊がこれを拒否した[11]。生存者は2分以内に全員脱出した[2]。
事故を受けて、インターフルークは保有するIl-62の運航を取り止め、専門家による検査を行った。事故の翌日には保有する11機のうち5機の検査が完了し、2機が運用に戻った[2][4]。