ウシャン
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生涯
父ガガイはメンゲブルによるヌルハチ暗殺未遂事件に連座して処刑された。当時、ウシャンは16歳であった。ヌルハチはガガイの功績を考慮し、ウシャンに佐領の職を授けた[1]。
1624年、明の東江鎮総兵官毛文龍は兵を派遣し、朝鮮の義州城西方で鴨緑江を渡らせ、島嶼部で屯田を行わせた。これに対しヌルハチは、ウシャンと副都統レンゲリに1,000名の兵を率いて奇襲するよう命じた。行軍中に捕らえた間者の供述から、毛文龍軍は昼間に島で収穫を行い、夜になると再び義州側の河岸へ戻って宿営していることが判明した。そこでウシャンは夜陰に乗じて密かに進軍し、夜明けに明軍がすでに渡河したと判断すると騎兵による突撃を命じた。明軍は警報を発する間もなく攻撃を受けて総崩れとなり、ウシャンらは上陸後も追撃を続け、500余級の首級を挙げた。その他の兵は逃走中に溺死した。後金軍は島内の軍糧を焼き払った後、撤退した。その後、毛文龍は300名を派遣して報復を試みたが、ウシャンとレンゲリによって撃退され、副将3名が討ち取られ、略奪されていた物資も奪還された[1]。
ホンタイジの即位後、ウシャンは十六大臣の一人として鑲紅旗旗主を補佐し、軍政事務を担当した。1634年、ホンタイジが諸将を派遣して明を攻撃した際には、アサンとともに後軍を率い、その命令に従って伏兵を設けて明軍を破った。この功績により、三等軽車都尉の世襲爵位を授けられた[1]。1636年にはホンタイジの命により軍を率いて塩場へ侵入した明軍を攻撃し、大勝を収めた[2]。1638年、副都統ウバハイの部下による軍糧横領事件において、ウシャンはこれを知りながら報告しなかったとして世職を剥奪された。同年8月には工部右参政に任命された。当時、モンゴルおよびワルカの諸部が使者を派遣するたびに、儀礼の主管はすべてウシャンに委ねられた。1644年、病により死去した[1]。
ウシャンの三弟ブシャンは軍功によって一等軽車都尉に封じられた。また、ウシャンの孫ワルダは西安副都統、盛京刑部侍郎を歴任した[3]。