ウスール学派
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学派成立の起源はブワイフ朝期にある[2]。当時、十二イマーム派の信徒共同体は、他のシーア派やスンナ派から論争をしかけられており、危機にあった[2]。とりわけムウタズィラ派が問題にした十二イマーム派の啓示への依存は、信仰の根幹にかかわる問題であった[2]。イマーム派にとって、諸イマームの啓示は絶対的な知識(イルム)の源泉であったからである[2]。
シャイフ・ムフィード(1022年歿)とその弟子シャリーフ・ムルタダー(1044年歿)、さらにシャイフ・トゥースィー(1067年歿)らは、ムウタズィラ派など理性主義的な立場に立つ者たちが法学的諸問題に対応するにあたって依拠するキヤースとイジュティハードは、いっさいの疑念のないイルムをもたらさないし、イフティラーフに陥る、と述べてこれに応答した[2]。彼らによれば、クルアーンと、タワートゥル[注釈 1]と、十二イマーム派信徒共同体のイジュマーに基づた知識でなければ、それは真正のイルムではないという[2]。
他方で彼らは、イマームがいつまで経っても再臨しない現状を事実として受けとめ、長期にわたって法的諸問題に対応可能な理論発展させ、実践していく必要があった[2]。そこで彼らは敵対者の法学的方法論からいくつかのエッセンスを抽出することとした[2]。そのひとつが、理性(アクル ʿakl)をイルムの源泉のひとつとして採用することであった[2]。
たとえばシャイフ・トゥースィーは、著書の中で法学的判断はクルアーン、スンナ及びタワートゥルに基づくべきと述べ(法源論)、理性主義的な分析のための理論と実践について述べた(法解釈論)[2]。さらに、金曜の集団礼拝時に理性(アクル)を持ちシャリーアをよく理解する者が導師を務めるべきことを制度化し、法学者(ファキーフ)がザカート分配の権限を持つべきとした[2]。また、幽隠期の法的判断(カダー)と刑罰(フドゥード)の決定は、イマームにより法学者に委ねられていると論じた[2]。
シャイフ・トゥースィー以後、理性を重んじる立場の十二イマーム派の学者は理性的法判断と法学者の権威の両方をさらに重要視していく[2]。ムハッキク・ヒッリー(1277年歿)は過去の十二イマーム派の学者が啓典の文言の字義から演繹するのではなく神学的に思考するという方法論に基づいてイジュティハードを実践してきたと認め、その弟子のアッラーマ・ヒッリー(1325年歿)はイジュティハードを実践的法学の一分野に正式に取り入れた[2]。アッラーマの議論によると、イジュティハード実践をする資格がある者、ムジュタヒドは、アラビア語に精通し、過去の合意(イジュマー)についてよく知り、タワートゥルについてよく知り、論証に巧みであり、法解釈学用語をよく知っている者である[2]。アッラーマはまた、ムジュタヒドは善意で間違いを犯す可能性もあるが、赦されるであろうとも論じた[2]。