エドワード・コルストン
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| エドワード・コルストン Edward Colston | |
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ジョナサン・リチャードソン画のコルストンの肖像画 | |
| 生年月日 | 1636年11月2日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1721年10月11日(84歳没) |
| 死没地 |
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| 前職 | 貿易商 |
| 所属政党 | トーリー党 |
| 選挙区 | ブリストル選挙区 |
| 在任期間 | 1710年 - 1713年 |
エドワード・コルストン(英語: Edward Colston, 1636年11月2日 - 1721年10月11日[1])はイギリスの商人、トーリー党の国会議員、篤志家、奴隷取引家である。1340年代からブリストルに住む商人の家系に生まれ、長じてから自身も商人となり、当初はスペイン、ポルトガル、その他のヨーロッパの港を中心に、ワイン、果物、布などの貿易を行った。1680年には、イギリスのアフリカ奴隷貿易を独占していた王立アフリカ会社に加入したことで、奴隷貿易に大きく関与するようになった。彼は1689年に会社の最高職である副総督に就任した。彼の資産のうちどの程度が奴隷貿易に由来していたのか正確な所は不明であるが、彼が奴隷貿易に関与して財を成したことは事実である[1][2]。
コルストンは奴隷貿易で得た資産を元手に、ブリストル、ロンドン、その他の場所で学校、病院、救貧院、教会を支援し、寄付した。彼の名前は、ブリストルのいくつかのランドマーク、通り、3つの学校、そしてコルストン・バンズによって記念されている。1895年には彼の像が建立されたが、20世紀後半に彼が大西洋奴隷貿易に関与していた事が認識される様になるとランドマークの名称変更を求める抗議や嘆願が続き、2020年6月、彼の像が倒されブリストル湾に投棄された事で最高潮に達した。彼が設立した慈善財団に触発されて設立された財団は現在でも存続している[3]。
コルストンは1636年11月2日にブリストルのチャーチ・ストリートで生まれた。彼は少なくとも11人、おそらく15人の子供の長男である。彼の両親は、1643年にハイシェリフ・オブ・ブリストルを務めた豪商ウィリアム・コルストン(1608年生、1681年没)と、エドワード・バッテンの娘である妻サラ(1608年生、1701年没)であった。エドワード・バッテンはイングランド内戦の時期までブリストルで育ち、その頃にはブリストルのすぐ北にあるウィンターボーンにある父親の所有地にしばらく住んでいたと思われる。一家はその後ロンドンに移り、エドワードはクライスツ・ホスピタルの学校の生徒だったという説もある[4]。
キャリア
絹物商のリヴァリ・カンパニー(Worshipful Company of Mercers)で8年ほど働き、1672年にロンドンから商品を売り出すようになった。スペイン、ポルトガル、イタリア、アフリカなどと布、油、ワイン、シェリー酒、フルーツなどを交易した。1680年には西アフリカで金、銀、象牙、奴隷を取引する権限を有する王立アフリカ会社のメンバーの一人となる.[4]。
会社役員会で急速に昇進し、1689年から1690年には会社の実質的な経営者である副総督(Deputy Governor)に就任。1692年に王立アフリカ会社を退社した[5]。この王立アフリカ会社とは国王チャールズ2世と王弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)が創立した企業でジョン・ロックやサミュエル・ピープスなどの投資家を含んでいた[6][7]。
コルストンは王立アフリカ会社に参加している間(1680年から1692年)、西アフリカで奴隷貿易を行い、8万4000人(1万2000人の子供を含む)のアフリカ黒人を輸送し、うち1万9000人はカリブ海の船の中で死に、残りはアメリカ大陸へ送られていった[8]。船の状態のために船員の死亡率も高く、しばしば奴隷より死亡率が高いこともあった[9]。アメリカ大陸に到着した黒人奴隷たちはプランテーションに売却された。特にカリブ海の砂糖プランテーションは西アフリカと気候が似ていたので同国人の労働力よりも条件に適しており、また英国の年季奉公人や賃金労働者よりもはるかに安価に維持できた[10]。
両親はブリストルで暮らしており、ブリストル地方行政府に多額の金を貸した。ブリストル市の貿易商人協会の一員となり、また自治都市市民にもなった。1684年にはブリストルのセント・ピーターズ・チャーチ・ヤードにある精糖工場のパートナーとなり、セントクリストファー島で黒人奴隷が生産した砂糖を出荷した。ただ彼はブリストルに居住しておらず、1708年に引退するまでサリー州モートレイクにあった[4]。
オックスフォード英国人名事典によれば、コルストンは奴隷の売買で多くの財産を築いたと考えられている[4]。 モーガンによれば、奴隷貿易と奴隷が生産する砂糖への関与から得た彼の富の割合は不明であり、さらなる証拠が出ない限り推測の域を出ない。この収入だけでなく、彼は上記の他の商品の取引、貸金業からの利子、そして最も可能性の高い、その他の慎重な金融取引からも収入を得ていた[11]。
慈善活動と政治

コルストンはブリストル、ロンドン、その他の場所で学校、慈善施設、病院、教会を支援し、寄付を行った。コルストンは、彼の宗教的・政治的見解を共有していない人々への利益にならないよう、自身の慈善事業を構成した[12][8][13][14]。彼の慈善財団の多くは今日まで存続している[3]。
ブリストルでは、キング・ストリートの救貧院とセント・マイケルズ・ヒルのコルストンズ・アルムスハウスを設立し、クイーン・エリザベス・ホスピタルの学校に寄付し、1710年、寄宿学校コルストンズ・ホスピタルの設立を支援した。彼は学校の維持のためにマーチャント・ヴェンチュラー協会が管理する基金を残した。彼はテンプル・スクール(そのうちの1校はセント・メアリー・レッドクリフ・アンド・テンプル・スクールとなった)やブリストルの他の地域の学校、いくつかの教会や大聖堂に資金を提供した[4]。トーリー党の熱心な支持者であり、1710年イギリス総選挙ではブリストル選挙区におけるトーリー党有力候補として挙げられた[15]。コルストンは老齢(1710年時点で74歳だった)を理由に立候補を辞退したが、熱心な市民がコルストンの同意なしに彼を立候補させ、当選を果たした[15]。しかし、老齢だったため議会ではほとんど活躍できず、ブリストルを代表して請願を庶民院に提出することが主な活動だった[15]。1713年イギリス総選挙では出馬せず、議員を退任した[15]。
1808年にデビッド・ヒューソンは、コルストンを「ブリストル市の偉大な恩人であり、彼が生きている間に慈善団体に7万ポンド以上を費やした」と評している[16]。
死去


84歳になったコルストンは1721年10月11日、モートレイクの自宅(旧)クロムウェル・ハウス(1857年に取り壊し)で没した。彼の遺言では、派手でないシンプルな葬儀を望んでいたが、この指示は無視された[18] 。彼の遺体はブリストルに運ばれ、オール・セインツ教会に葬られた。彼の記念碑はジェームズ・ギブスがデザインし、ジョン・マイケル・リスブラックが彫った彫像が飾られている[19]。生涯未婚であり、1720年5月に遺言状を書いたときは同名の甥エドワードの一人娘サラ(Sarah)を相続人に指定したが、サラが1721年1月に死去したため、代わりに姉妹メアリーの娘メアリー(トマス・エドワーズの妻)に遺産を譲った[15][20]。
