シワード (ノーサンブリア伯)

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シワード
Sigvarðr Diger
アングロサクソン年代記』(1200年頃)の写本における「Siƿard eorl」(Ƿを用いた綴り)

在位期間
1041年 – 1055年

在位期間
1023年 – 1033年以降
先代 エイリーク・ハーコナルソン
(ヨーク太守)
エドウルフ4世英語版
(バンバラ)
ウトレッド勇猛伯英語版
(双方)
次代 トスティ・ゴドウィンソン

出生 スカンディナヴィア
死亡 1055年
埋葬 聖オラヴ教会英語版
父親 ビョルン(?)
エルフレダ
ゴドギフ
子女
オズビョルン・ブラックス英語版(不詳)
ウォルシオフ(エルフレダとの子)
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シワード[注釈 1]古英語Siƿard)またはシグルズ(古英語:Sigeweard古ノルド語Sigurðr digri[2]、1055年没)とは、11世紀のイングランド北部英語版における有力伯爵英語版である。「強壮なる」を意味する古ノルド語の渾名「ディグリ(Digri)」、およびそのラテン語訳「グロスス(Grossus)」が、同時代の史料において彼に付されている[3]。彼は、クヌート大王(在位:1016年 - 1035年)の治世下にイングランドの地方勢力として台頭した。クヌートは1010年代にイングランドの大部分を征服したスカンディナヴィアの支配者であり、シワードはその征服後に渡来した多くのスカンディナヴィア人の一人として、イングランド北部の大部分を統治する副官へと昇り詰めた。遅くとも1033年までには、彼はクヌートの代官として、現在のヨークシャーにあたる南ノーサンブリアを掌理する伯爵の地位に就いていた。

シワードは、バンバラ伯英語版エルドレッド2世英語版の娘エルフレダと婚姻することで、イングランド北部における地歩を固めた。1041年にエルドレッドの跡継ぎであるエドウルフ4世英語版を殺害した後、シワードはノーサンブリア全土を掌握した。彼はクヌートの後継者であるハーデクヌーズエドワード懺悔王の統治において軍事面において貢献し、1050年代までにはミッドランズのノーサンプトンシャーおよびハンティンドンの各シャイアを管轄下に置いた。また、彼がカンバーランドにまでノーサンブリアの支配を拡大したことを示す証拠も存在する。1050年代初頭、シワードはスコットランド王マクベスに敵対した。1054年の戦闘で息子オズビョルン・ブラックス英語版を失うも、マクベス軍を撃破するに至った。このスコットランド遠征から5世紀余りの後、彼の事績はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』に採り入れられることとなった。シワードは1055年、次男のウォルシオフを遺して亡くなった。ウォルシオフは後に1072年、ノーサンブリア伯英語版の地位を継承することとなる。ヨークの聖オラヴ教会英語版や近隣のヘスリントン・ヒル英語版は、シワードゆかりの地として知られている。

シワードの生涯と経歴に関する一次史料は極めて乏しい。同時代の伝記は現存しておらず、彼の存命期に近い文献である『エマ妃の賛辞英語版』や『エドワード王の生涯英語版』においても、その言及は僅少である。そのため歴史家は、『アングロサクソン年代記』の数少ない記述や、それに対応するアイルランドの史料に依拠している。後世のアングロ・ノルマン人英語版による歴史書は必ずしも信頼に足るとは限らないが、有益なものとしてはウスターのジョン英語版の年代記(1124年から1140年の間に編纂)[4]マームズベリのウィリアム(1125年から1142年頃に執筆)[5]ハンティンドンのヘンリー(1133年から1154年頃に執筆)[6]、およびオーデリック・ヴィタリス英語版(1114年から1141年頃に執筆)[7]が挙げられる。その他の史料には[8]ダラムのシメオン英語版に帰せられる資料(11世紀後半から12世紀前半の間に編纂)が含まれる[9]聖人伝に含まれる伝説的資料や、ジョン・オヴ・フォーダン英語版アンドルー・オヴ・ウィントン英語版といった後世の中世資料は、初期の史料を保存している限定的な可能性を除けば、一般に有用視されていない[10]

背景

シワードのノーサンブリアにおける経歴は、クヌート大王、ハロルド兎足王、ハーデクヌーズ、そしてエドワード懺悔王の治世初期という4代の君主に跨っている。最も重要なのはクヌートの治世であり、この時期には非常に多くの新たな政治的人物が台頭したため、一部の歴史家はこれを50年後のノルマン・コンクエストに比肩させている[11]。これらの「新参者」は軍事的な人物であり、通常、クヌートが廃位したウェセックス王家との血縁関係は希薄であった[11]。クヌートはスカンディナヴィアの複数の王国を統治していたため、最高レベルの権限はこうした実力者たちに委ねられた[12]。イングランドでは、国王に代わって一つまたは複数のシャイアを統治する、少数の新参勢力「太守(Ealdormen)英語版」ないし「伯爵(Earls)」たちがその任に当たった[13]。歴史家ロビン・フレミングの言を借りれば、シワードは「クヌートによる新たな伯爵三人衆の三番目の男」であり[14]、他の二人はウェセックス伯ゴドウィンマーシア伯レオフリクであった[14]

11世紀のイングランド北部は、国内の他の地域とは極めて異なる性質を持つ地域であった。かつてのノーサンブリア王国は、ハンバー川およびマージー川の河口から北のフォース湾まで広がり、西側のストラスクライド王国を経て、アルバ王国(スコットランド)と接していた[15]。ノーサンブリアがウェセックスのイングランド王国に統合されたのは、ようやく950年代のエドレッド王の時代になってからのことであり、その後の統治はティーズ川の南北に配された少なくとも二人の太守(エアルドルマン)を通じて行われた[16]。北部はバンバラの要塞を中心都市、南部は大都市ヨークを中心としており[17]、政治的には断片化した地域であった。ランカシャーからカンバーランドにかけての西部は、古くからのブリトン人の拠点であり、ゲール人との繋がりや定住が見られた。一方、ノーサンブリアのその他の地域では、ブリトン・イングランド人(主にヨークシャーとそれより以北の地域)[18][19][20]、そしてアングロ・スカンディナヴィア人の地域有力者(従士ホールト英語版、およびハイ・リーヴ(高位代官)英語版)たちが、伯爵から相当程度の独立性を保持して実権を振るっていた[21]。その一例が有力者サーブランド英語版であり、おそらくホールダーネス英語版を拠点とした彼の家系は、バンバラの伯爵としばしば対立関係に置かれた[22]

先祖

「古人の語り継ぐところによれば、主は人間の生殖の常理に反し、白熊を父、貴婦人を母として、ある貴人『ウルスス(Ursus)』が生まれるを許したまうた。ウルススは『スプラトリングス(Spratlingus)』を儲け、スプラトリングスは『ウルフィウス(Ulfius)』を、ウルフィウスは『ビョルン(Beorn)』を儲けた。このビョルンは別名を『ベレスネ(Beresune)』、すなわち『熊の息子』といった。彼はデンマーク人であり、卓抜した伯爵にして誉れ高き戦士であった。しかし、その血筋の一部が異種にある証として、自然は彼に父系の耳、すなわち熊の耳を与えた。その他の特徴はすべて母の容姿に似ていた。そして多くの勇猛なる事績と軍事的冒険を重ねた後、彼は父の武勇と技術を継承する一子を儲けた。その名をシワードといい、別名を『ディエレ(Diere)』、すなわち強壮なる者(grossus)と呼んだのである」。
 — シワードの家系と父ビョルンに関する記述。シワードの息子ウォルセオフ英語版に捧げられた聖人伝『ウォルセオフの生涯(Vita Waldevi)』より。[23]

歴史家は一般にシワードをスカンディナヴィア出身であると主張しており、この結論は『エドワード王の生涯』において、シワードが「デンマークの言葉でディグリ(Digara)と呼ばれた」と記されていることによっても支持される[24]。シワードの息子ウォルシオフの聖人伝的伝記である『ウォルシオフ伯の生涯と受難(Vita Waldevi)』に取り入れられた伝説的な資料によれば、シワードはビョルンという名のスカンディナヴィアの伯爵の息子であり、さらにその家系を遡るとホッキョクグマの末裔であるという家系図が示されている[23]。これはゲルマン民族の伝統的伝承において典型的なモチーフである[25]

歴史家ティモシー・ボルトンは近年、これらの家系図の類似性は、シワードとトルギル・スプラクリングの子孫の間で共有されていた一族の伝承の証拠であると論じている。ボルトンは、シワードの父とされるビョルンは実在の人物であり、おそらくトールギル・スプラクリング英語版の兄弟であったと仮説を立てた。もしそうであれば、シワードは、クヌートの姉妹エストリズ英語版と結婚し、後にクヌートの王朝を継承することとなるデンマーク王家の始祖となったウルフ伯英語版の従兄弟にあたることになる[26]。ボルトンは、スプラクリング家はスカンディナヴィアにおいて台頭したばかりの新興勢力であり、イングランドにおけるシワードの栄達は、同家がスカンディナヴィア政治において成功を収めていたことの別の一側面であったと論じた[27]

『ウォルシオフの生涯』は、シワードがスカンディナヴィアからイングランドへ渡る道中のさらなる伝説的詳細を伝えている。同書によれば、シワードはオークニー諸島を通過した際にそこでを退治し、その後ノーサンブリアへ向かった。そこで彼は再び別の竜に遭遇したが、その後、丘の上でオーディンのような老人に面会した[28]。老人は彼にレイヴンの旗英語版を手渡し、ロンドンへ向かってイングランド王の庇護を受けるよう指示したという[29]

クヌート、ハロルド、ハーデクヌーズ治世下の経歴

「(中略)短き対話の後、王は彼(シワード)を直臣として召し抱え、王国内で最初に空席となった高位を授けることを約束した。その後、シワードは暇乞いをし、部下らとともにロンドンへの帰路についた。修道院(ウェストミンスター)から遠くない橋の上で、彼はハンティンドン伯トスティに出会った。トスティはデンマーク生まれであったが、ゴドウィン伯の娘、すなわち王妃の姉妹と結婚していたため、王は彼を嫌っていた。トスティ伯はシワードのすぐ傍を通り抜けた際、その汚れた足でシワードのマントを汚した。当時、留め紐のないマントを羽織るのが流行であったのである。シワードの心に激昂が走ったが、トスティが王の館へ向かう途上であったため、その場での復讐は差し控えた。しかし彼は部下とともに橋に留まり、トスティが王のもとから戻るのを待ち構えた。やがてトスティが現れるや、シワードは剣を抜いてその首を刎ね、それをマントの下に隠して王の館へ戻った。そこで彼は約束に従い、ハンティンドン伯領を授けるよう願い出た。トスティが辞去したばかりであったため、王は冗談だと思った。しかしシワードが事の次第を語り、確かな証拠としてその首を王の足元に投げ出すと、王は約束を守り、直ちに彼をハンティンドン伯に叙したのである(中略)。数日後、北方人が王国を攻撃し始めた。王は疑念に駆られ、王国の貴顕らと対策を議した。彼らは声を揃えて、ノーサンバーランド、カンバーランド、ウェストモーランドをシワード伯に委ねるべきであるとし、王は彼をそれらの地の伯爵に任じたのである」。
 — シワードの権力掌握に関するサガ風の記述。『ウォルシオフの生涯』より。[30]

シワードがイングランドに到着した正確な日付と状況は不明であるが、『ウォルシオフの生涯』は伝説的な記述を伝えている[31]。1019年、1024年、1032年、1033年、1035年の勅許状には「Si[ge]ward Minister」、すなわち「従士シワード」という名が見られるが、これらの名前のいずれかを、後にノーサンブリア伯英語版となった人物と確実に特定することは不可能である[32]。シワードに関する確実な同時代の記録として最古のものは、1033年にクヌート王がエルフリック・プットック英語版(ヨーク大司教)に与えた勅許状に登場する名である[33]。この勅許状における署名は、「dux(伯爵)」の称号を付されているため、伯爵シワードであると特定できる[33]

1033年までに彼が伯爵であったことは明白であるが、実際にはそれより以前にその地位に就いていた可能性がある。前任者のエイリーク・ハーコナルソンが史料に最後に現れるのは1023年であり、シワードが就任するまでに10年の空白期間が存在する[34]。マームズベリのウィリアムは、エイリークがスカンディナヴィアへ追い返されたと主張しているが、スカンディナヴィア側の伝承では、彼はイングランドで没したと固く信じられている[35]。歴史家ウィリアム・カペルは、エイリークが1023年ないしその直後に伯爵の地位を去り、サーブランドの息子カールが王の代官(ホールト英語版またはハイ・リーヴ英語版)としてヨークシャーに任命されたと考えた。カールはその数年後にシワードが伯爵として据えられた後もその地位に留まったが、それ以降は王ではなく伯爵の副官として行動したと論じている[36]リチャード・フレッチャー英語版はこの点について懐疑的な立場を崩していないが、エイリークが1028年までには没していたはずだと論じている[37]。ティモシー・ボルトンは、サーブランドの子カールに関するカペルの議論は退けつつも、エイリークは1023年頃に没し、伯爵領は一定期間空席であったと考えている[38]。ボルトンによれば、クヌートはノーサンブリア伯領を空席のまま放置し、治世の最晩年までほとんど注意を払わなかったようであり、その政治的空白の中でエルドレッド2世英語版(ウトレッドの子)が台頭したという[39]

1035年にクヌートが没すると、王位を巡る複数の主張者が現れた。これにはクヌートの息子であるハーデクヌーズとハロルド兎足王に加え、亡命していたエセルレッド無策王の息子であるアルフレッド・アシリングとエドワード(後のエドワード懺悔王)が含まれていた。スカンディナヴィアで孤立していたハーデクヌーズは、ハロルド兎足王が王冠を奪うのを阻止できなかった。1035年から統治したハロルドは、ハーデクヌーズが侵攻の準備を整えた矢先の1040年に没した[40]。ハロルドの死の直後に到着したハーデクヌーズは、1042年に自身が没するまでわずか2年間イングランドを統治し、その死によりエドワードへの平和的な王位継承が行われた[41]フランク・バーロウ英語版は、シワードの政治的立場について推測し、これらの一連の騒乱の中、シワードは「好意的あるいは慎重な中立の立場」を保っていたのであろうと考えている[42]

1038年には、ハーデクヌーズ王がベリー・セント・エドマンズ修道院英語版に与えた勅許状に、「Sywardus Comes(シワード伯)」として署名しているのが見られる[43]。また、1040年から1042年の間には、クヌートが以前に行った寄進をハーデクヌーズが追認したフェカン修道院英語版への勅許状にも立ち会っている[44]。1042年には、ハーデクヌーズがアビンドン修道院英語版エルフウィン英語版(ウィンチェスター司教)に行った寄進に関する勅許状にも名を連ねている[45]

シワードはある段階において、エルドレッド2世の娘であり、ウトレッド勇猛伯英語版の孫娘にあたるエルフレダと結婚した[46]。『アングロサクソン年代記』は、1041年にエドウルフ4世英語版(バンバラ伯)がハーデクヌーズ王によって「裏切られた」と断言している[47]。この「裏切り」はシワードによって実行されたようである。というのも、『Libellus de Exordio英語版』などの史料が同じ事件について記す際、シワードがエドウルフを攻撃して殺害したと述べているからである[48]。こうしてシワードは全ノーサンブリアの伯爵となったが、これはウトレッド勇猛伯以来のことであった可能性がある。シワードは、妻エルフレダの血筋を利用してバンバラ領の領有権を主張したのかもしれないが、婚姻がエドウルフ殺害の前か後かは不明である[49]。カペルは、ウトレッド以降のバンバラの支配者がイングランド宮廷において一切確認できないことを指摘し、これは彼らが王権に対して「反乱状態」にあったことを意味すると論じた。したがって、シワードの攻撃は、不忠実な臣下を粉砕しようとする君主によって奨励されたものであった可能性がある[50]。しかし、シワード自身にも思惑はあったはずである。エドウルフを殺害することは北部における最大のライバルを排除することを意味し、また結婚によってウトレッド勇猛伯の一族、および生き残っていたウトレッドの孫ゴスパトリックと結びつくことになったからである[51]

それにもかかわらず、エドウルフ殺害と南方での出来事との間には関連があるかもしれない。ウスターのジョンの年代記は、同じ年に、ハーデクヌーズの徴税官2名が殺害されたことへの報復として、シワードがウスター英語版の町と修道院に対する攻撃に参加したと伝えている[52]。ハーデクヌーズはそのわずか1年後、1042年6月8日に没した[41]。後を継いだのは、亡命していたイングランド王子エドワードであった。王位継承権を持つ王族たるアシリング(王子)として、エドワードは1041年にハーデクヌーズによって呼び戻されていたようであり、これが幸いして支配者の交代が円滑に進められた[53]。エドワードは1043年4月3日の復活祭の日に戴冠した[54]

エドワード懺悔王下でのイングランド国政

右を向いて笏を持つ髭の男が描かれたコイン。上部には左から右へとラテン文字の銘が刻まれている。
エドワード懺悔王の硬貨

シワードとエドワード王の関係は良好であったようである。後年、エドワードがシワードやその関係者を罰した形跡はない[55]。事実、シワードはエドワードの最も強力な支持者の一人であったようである。1043年11月16日、シワードはウェセックス伯ゴドウィンおよびマーシア伯レオフリックとともにエドワード王に従って行軍し、王の母であるエマ王妃に対抗して、王が王妃から莫大な財宝を没収するのを支援した[56]。次いでエドワードはエマを反逆罪で告発し、スティガンド英語版を「彼が母の助言に最も近かったため」としてエルムハム司教英語版から解任した[57]

ノルマン側の歴史家のジュミエージュのウィリアム英語版は、エドワード懺悔王がノルマンディー公ギヨーム(後のウィリアム征服王)を自身の後継者に指名したとされる宣言に対し、シワードがその支持を誓った一人であると主張した[58]。同様に誓いを立てたとされる者には、ゴドウィン伯、レオフリック伯、そして1044年に赦免され1047年にウィンチェスター司教に昇進したスティガンドがいた[59]。もしこの誓約が事実であれば、それは1051年の春、ジュミエージュのロベール英語版カンタベリー大司教)がパリウムを授かるためにローマへ旅立った前後のことであったろう[60]

1051年、シワードはレオフリック伯およびラルフ英語版とともに、ゴドウィン伯とその息子たち英語版による反乱に対し、王を擁護するため軍を動員した[61]。『アングロサクソン年代記』によれば、シワードは増援を召集せねばならなかったが、エドワード王は勝利を収め、ゴドウィン伯は一時的に追放された[62]。追放中もゴドウィン伯の脅威は続いており、シワードとレオフリックによる「交戦を辞さない支持」はエドワード王の安全にとって不可欠であった[63]。しかしながら、1052年にゴドウィンがイングランドでの地位を回復できたのは、皮肉にもこれら二人の伯爵が彼との戦闘を躊躇したためであったと考えられている[64]

シワードが権力を南方に拡大し、1040年代にノーサンプトンシャー、1050年代にハンティンドンシャーを支配下に置いたことを示唆する証拠がある[65]。その証左は、これらのシャイアにおいてシワードを伯爵として宛てた王の公印状である[66]。これらの地域におけるシワードの前任者は、トゥリやビョルン英語版ウルフ伯英語版の子)といった他のスカンディナヴィア人であった。前者のトゥリ(Thuri )は「中部人の伯(comes mediterraneorum)」と称されており、この伯爵領がマーシアのミドル・アングルスというかつての一地域を代表していたことを示している[67]。シワードの子孫が最も強い関係を持っていたのは、ノーサンブリアではなくこの地域であった[68]

同様に、一部の歴史家によってストラスクライド王国に奪われたと考えられていたカンバーランドを、シワードがノーサンブリアの主権下に取り戻したという議論もある[69]。その根拠は、歴史家の間で「ゴスパトリックの公印状」として知られる文書にある[70]。これは、後のノーサンブリア伯ゴスパトリック[71]ないしウトレッド伯の子ゴスパトリック[72]のいずれかによって発行された指示書であり、ゴスパトリックの親族一同、および「すべてのカンブリアの地(on eallun þam landann þeo Cōmbres)」に住まう有力者たちに宛てられたものである。そこでは、トルフィン・マク・ソレ(Thorfinn mac Thore)がアラデール英語版においてあらゆる事柄において自由であること(þ Thorfynn mac Thore beo swa freo in eallan ðynges)、そしていかなる者もゴスパトリックおよびシワード伯によって与えられた平和を破ってはならないことが命じられている[73]。チャールズ・フィシアン=アダムスらの歴史家は、このような言回しはシワードが以前の支配者からこの地域を征服したことを示すと考えたが[74]、ウィリアム・カペルらは、この地域がもし失われていたとしても、シワードの時代以前にイングランドの勢力下に戻っていたと考えている[75]

シワードとノーサンブリア教会の関係、特にダラムとの関係についても僅かながら判明している。エルフレダとの結婚により、シワードはダラム司教が領有権を主張していたティーズサイド英語版の一群の地所を手に入れた[76]。これらの地所の取得はダラム司教の反対を招く可能性があったが、当時のエセルリック英語版司教は1045年か1046年にダラムの聖職者らによって追放されており、『Libellus de Exordio』によれば、彼はシワードに賄賂を贈ることでようやく復帰を果たしたという[77]。同書は、聖職者らが「伯爵の恐るべき力に怯え、圧倒され」、「否応なしに司教との和解を強入られ、彼を司教座に受け入れた」と記している[78]。それにもかかわらず、後世のダラムの修道士らによる著作においてシワードは非難を免れており、このことはシワードとダラムの関係が概して良好であったことを示唆している[79]

シワードはエドワードの治世中、数多くの勅許状に証人として署名しているのが確認できるが、その数はゴドウィン家の人々ほどではない。シワードは通常、伯爵のリストにおいて、ゴドウィンとレオフリックに次ぐ3番目に位置しており、ゴドウィンの息子たちや他の伯爵たちよりは上位であった[80]。彼は1044年に少なくとも7通(おそらく9通)、1045年に6通か7通、1046年に2通、1048年と1049年にそれぞれ1通の現存する憲章に署名している[81]。1050年にはSihroþないしSihroðと綴られた伯爵が2通の勅許状に署名しており、これがシワードである可能性がある[82]。1050年にもう1通の署名があり、1052年と1054年の勅許状に付随する疑わしい証人リストにもその名が見える[83]。歴史的文書におけるシワードの最後の登場は、おそらく1053年から1055年の間にリンカーン英語版で行われた、ウルフウィグ英語版(ドチェスター司教)とレオフリック伯の間の合意書であろう[84]

スコットランド遠征

「この頃、ノーサンブリアの強大なる伯爵シワードは、巨躯を誇り、精神・肉体ともに極めて強健であったが、スコットランドを征服せんと息子を送り出した。息子が戦死したとの報告を受け、彼は使者に問うた。『息子の致命傷は体の前面にあったか、それとも背面であったか』。使者が『前面にございました』と答えると、彼は言った。『それは喜ばしいことだ。私や息子にとって、それ以外の死に方は相応しくないからだ』。その後、シワードは自らスコットランドへ進軍し、戦闘において王を破り、全土を荒廃させ、これを己に服従させたのである」[85]
 — ハンティンドンのヘンリーによる『イングランド史(Historia Anglorum)』におけるオズビョルンの死とシワードの反応の記述。[23]

1054年、シワード伯はスコットランド王マクベスに対する遠征を敢行した。これは彼の事績の中で最も高名なものであるが、同時に最年長の息子オズビョルンを失う悲劇ともなった。スコットランドとの紛争の端緒は判然としない。『Libellus de Exordio』によれば、1039年ないし1040年、スコットランド王ダンカン1世が北ノーサンブリアを攻撃し、ダラムを包囲したとされる[86]。その一年以内に、マクベスはダンカンを廃位し、これを殺害した[87]。このダラム包囲の失敗は、シワードがエドウルフ伯を殺害する一年前の出来事であり、両者の直接的な関連は不明ながらも、密接に結びついていた可能性が高い[88]

12世紀初頭に編纂された『リンディスファーンとダラムの年代記』は、1046年の条において「シワード伯は大軍を率いてスコットランドへ至り、マクベス王を逐って別の王を据えた。しかし、シワードの去った後、マクベスは王国を奪還した」と伝えている[89]。歴史家ウィリアム・カペルは、これが1040年代に実際に起きた出来事であり、ティガーナハ年代記英語版の1045年の条にある、ダンカンの父クリナン英語版の死を招いた「スコットランド人同士の戦い」に関連するものと考えた。カペルは、シワードがクリナンの息子でありダンカンの兄弟であったモルドレッド(Maldred)をスコットランド王位に就けようとしたと推測している[90]。一方、歴史家アレックス・ウルフは、この記述は1054年の遠征が1046年の条に誤って配置されたものに過ぎないと論じている[91]

1054年7月27日、七人の眠り聖人の祝日の日。シワード伯は陸上部隊および艦隊から成る大軍を率いて、フォース湾以北のスコットランドの地へ侵攻した。後に「ダンシネインの戦い英語版」として知られる戦いである[92]。この戦いがダンシネイン英語版で行われたという伝承は、後世の中世伝説に由来する。戦場としてダンシネインの名が初めて現れるのは、15世紀初頭のアンドルー・オヴ・ウィントンの著作においてである[93]

イングランド側の同時代の記録として最も古いものは、『アングロサクソン年代記』写本Dに見られる。

その年、シワード伯は陸海の大軍を率いてスコットランドへ進軍した。スコットランド軍と交戦し、マクベス王を敗走せしめ、国中の精鋭を討ち取った。未だかつてなき莫大な戦利品を奪取したが、この戦いにおいてシワードの息子オズビョルン、甥のシワード、そして王や伯爵の親衛隊(ハウスカール)らが、七人の眠り聖人の日に命を落とした[94]

ウスターのジョンは、これに加えて、以前にイングランドを逃れてマクベスに身を寄せていたノルマン人のオズバーン・ペンテコスト英語版やヒューもこの戦いで戦死したと伝えている[95]

アイルランドの年代記もこの戦いに言及しており、アルスター年代記英語版には次のように記されている。

スコットランド人とイングランド人の間で戦いが起こった。スコットランド側は三千人が倒れ、イングランド側はフィントゥルの子ドルフィンを含む千五百人が戦死した[96]

このドルフィンの正体は不明であるが、名前の類似から、マクベスの敵対者であったクリナン・オヴ・ダンケルドの親族であった可能性がある[97]

山岳風景の中、尾根に立つキルトを履いた二人の男。眼下から進軍してくる戦士たちの長い列を見つめている。
ジョン・マーティンによる19世紀初頭の想像図。シワード率いるノーサンブリア軍の接近を見つめるマクベス(中央右)。

シワードによる侵攻の目的は判然としないが、史料に登場する「マルカム(Máel Coluim)」という名の人物の正体と関連している可能性がある。ウスターのジョンは、シワードがマクベスを破り、王命に従って「カンブリア王の息子マルカム英語版」を王に据えたと記している[98]。このマルカムが誰を指すのか、そしてシワードが支援した理由は議論の的となっている。伝統的な解釈では、このマルカムは後のマルカム・キャンモアであり、シワードはマクベスを追放して彼を復位させようとしたのだとされてきた[99]

この解釈は、14世紀の年代記作家ジョン・オヴ・フォーダンの『スコットランド年代記』や、マームズベリのウィリアムなどの記述に依拠している[100]。マームズベリのウィリアムは、マクベスはこの戦いでシワードによって殺害されたと報告しているが、実際にはマクベスはシワードの死後も2年間生き延びている[101]A・A・M・ダンカン英語版は、後世の著述家たちが『アングロサクソン年代記』を引用する際、「カンブリア王の息子マルカム」を誤って後のスコットランド王マルカム3世と結びつけたのだと論じた[102]。この説は、リチャード・オラム英語版ドーヴィット・ブラウン英語版、アレックス・ウルフといった後続の歴史家たちによって支持されている[103]。また、このマルカムはストラスクライドの王オワイン・フォエル英語版[104]スコットランド王マルカム2世の娘[105]の息子であった可能性も指摘されている。

ダンカンは、この戦いが直接的にスコットランド王国の指導者の交代を招いたわけではないと考えている[106]。遠征の主な成果はマクベスの打倒ではなく、かつてスコットランドの宗主権下にあった可能性のあるブリトン人の領土が、ノーサンブリアの支配下へと移ったことにあるとの見解がある。アレックス・ウルフは、この文脈において、マルカムとはイングランドの保護を求めた、不満を抱くカンブリアの王子であったのではないかと推測した[107]。この時期にノーサンブリアがストラスクライド英語版を支配していた証拠として、グラスゴー大聖堂から11世紀のノーサンブリア様式の石造物が見つかっているほか、12世紀初頭には、ヨーク大司教キネシゲ英語版(1051年 - 1060年)が二人のグラスゴー司教英語版を叙聖したという主張がなされている[108]

死と遺産

「強壮なる伯爵シワードは、赤痢に侵され、死期が近いことを悟るとこう言った。『これほど多くの戦いにおいても死ねなかった私が、牛のような不名誉な死を迎えねばならぬとは、何という恥辱か。せめて私の破れぬ胸当てを着せ、剣を帯びさせ、兜を頭に載せよ。左手には盾を、右手には金装飾の戦斧を持たせよ。最勇の戦士である私が、戦士らしく死ねるように』。彼は語り、望んだ通りに武装して、誇り高く息を引き取ったのである」。
 — ハンティンドンのヘンリー『イングランド史』によるシワードの最期の記述。[109]

12世紀の歴史家ハンティンドンのヘンリーは、シワードが赤痢に倒れた際、「牛のように」死ぬことを恐れ、戦士としての死を望んで鎧を纏い、斧と盾を手にした状態で息を引き取ったという逸話を伝えている[109]。この逸話の歴史的真偽は疑わしく、現存しないシワード伯の「サガ」に由来するものと考えられている[110]。『エドワード王の生涯』は、シワードがヨークで没し、ガルマンホ英語版にある「聖オラヴの修道院」に埋葬されたと記しており、この主張は『アングロサクソン年代記』、ウスターのジョン、および『Historia Regum』によっても裏付けられている[111]

現存する二つの史料に含まれる資料は、シワードの生涯に関する失われたサガ、あるいは何らかの文学的伝統の存在を裏付けていると考えられている。第一の史料は『ウォルセオフ伯の生涯と受難』であり、ウォルセオフの父系的な出自を物語る過程で、父シワードの冒険について述べている。第二の主要な史料はハンティンドンのヘンリーによる『イングランド史』であり、そこにはシワードのスコットランド侵攻(1054年)やその死(1055年)に関するサガ風の記述が引用されている[112]。アングロサクソン学者のフランク・ステントン英語版は、シワードを「政治家ではなく、原始的なタイプのデンマーク人戦士」であったと断じた[113]。彼の死後50年の間に書かれた記録では、シワードは平和をもたらし、山賊行為を鎮圧した強力な統治者として記憶されていた[114]

シワードはエドワード懺悔王の死よりも10年以上前に没しているが、1086年の『ドゥームズデイ・ブック』には、1066年時点でシワード伯が直接所有していた4つの荘園(ヨークシャーに3つ、ダービーシャーに1つ)が記録されており、これらは後に=ヒュー・ダヴランシュによって領有された[115]。これらの土地の価値は212ポンドと記されており、一方、息子のウォルセオフは9つのカウンティにまたがって136ポンド相当の土地を所有していたとされる[116]。しかしドゥームズデイ・ブックの記録はシワードの保有地の不完全な絵図に過ぎない。シワード父子の領地の合計額は348ポンドに留まり、マーシア伯家が保持していた2493ポンドという巨額と比較すれば見劣りするものである[117]。ただし、エドワード王崩御の日にノーサンブリア伯であったマーシア家のモーカーは968ポンド相当の土地を、当時追放されていたトスティ・ゴドウィンソンは491ポンド相当の土地を擁していた。彼らはノーサンブリア伯の地位を継承する過程で、シワードの土地の一部を手に入れていた可能性がある[118]。さらに、後にダラム州ノーサンバーランド、カンバーランド、ウェストモーランドとなる地域は調査から大部分が除外されており、ヨークシャーの土地も「北部の蹂躙」の際に激しく荒廃し、価値が下落していたことも考慮せねばならない[119]

シワードはヨークのガルマンホに聖オラヴに捧げた教会を建立したと伝えられている[111]。この教会に彼が埋葬されたという記録は、ノルマン征服以前のイングランドにおいて、王族以外の俗人が教会内部に埋葬された唯一の例である[120]。ヨーク近郊のヘスリントン・ヒル、別名シワーズ・ハウ英語版は、シワード伯にちなんで名付けられた可能性が高いが、これは埋葬地であったからというよりは、シワードがそこで民会を開いていたためであろうと考えられている[121]

兜を被った背の高い髭の男を描いた絵画。彼の両脇には、左側に男性、右側に女性の二人の小さな影が寄り添っている。
ジェームズ・スメサム英語版画『シワード伯の死』(1861年)。死に備えるシワード伯を描いた19世紀の想像図。

シワードにはエルフレダとの間に生まれた息子ウォルシオフがおり、父の死後も生き残った。ウォルシオフは後にイースト・ミッドランズの伯爵となり、ついにはノーサンブリア伯となった[122]。しかし、ウォルシオフがウィリアム征服王に反旗を翻すと、彼は処刑されることとなり、その後、クロウランド修道院英語版において聖人として崇敬を集めるようになった[123]。ウォルシオフの娘はスコットランド王デイヴィッド1世と結婚した。この繋がりを通じ、シワードは後のスコットランドおよびイギリスの君主たちの先祖の一人となった[122]

エルフレダのほかに、シワードはゴドギフという名の女性と結婚していたことが知られているが、彼女はシワードより先に没した。この婚姻は、彼女がスタンフォード英語版周辺の領地をピーターバラ修道院英語版に寄進した記録から判明している[46]。現存する史料に彼女との子供は確認されず、またオズビョルンの母親の名を記した史料も存在しないが、この二度目の結婚の事実は、ウォルシオフとオズビョルンが異なる母親から生まれた可能性を提起している。ウィリアム・カペルは、シワードは当初、オズビョルンに南方の領土を継承させ、ウォルセオフには母エルフレダの一族にゆかりのある北方の領土を継承させるつもりであったのではないかと推測している[124]

注釈

脚注

参考文献

外部リンク

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