エルンスト・ゼーリッヒ
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エルンスト・ゼーリッヒは、音楽教授・音楽出版業者の父アウグスト(August Seelig、1847年 - 1908年)と、医師の娘である母マルタ(Martha von Kottowitz Edle zu Kortschak、1854年 - 1920年)のあいだに生まれた。グラーツで育ち、グラーツ大学で国家科学を学び、1918年に法学博士を取得。
1923年、グラーツ大学講師となり、1928年に客員教授となる[1]。
1934年から1938年までは、祖国戦線のメンバーであった[注釈 1]。
1938年5月1日にナチス党への加入を申込み、1941年1月1日に加入が認められた(党員番号 8,438,729)[2][3]。1939年2月にはナチス党下の組織である国家社会主義ドイツ教員連盟に加入し、さらに同月から、ニュルンベルク法に基づく全ての混血検査実施に関する責任者に就任した。
1941年、グラーツ大学の刑法・刑訴・犯罪学教授兼グラーツ大学犯罪学研究所長となる[注釈 2]。
ドイツの降伏後、グラーツは連合軍に制圧され、ゼーリッヒはイギリス占領軍の命令により、1946年2月4日に停職処分となった。同年11月にはシュタイアーマルク州政府の国家諮問委員会によって暫定的に復職したが、イギリス民政局は1947年1月22日、オーストリア連合国委員会の決定に基づきゼーリッヒを永久に解雇した。ゼーリッヒは、同年8月26日付けの文部省布告による公務員移行法に基づき、8月31日に正規の助手として退職したが、60歳になるまで恩給を減額された。
1951年には再びグラーツ大学で刑法、刑事訴訟法、犯罪学の教授資格を取得して復帰し、1952年3月にはザールラント大学の刑法と犯罪学の客員教授も兼任した。
1954年4月、ロスヴィザ・グリューナー(1920年生)と結婚しザールブリュッケンに転居したが、翌年に肺がんを患ってグラーツに戻り、ウィーンの病院で治療を受けるも1955年11月1日に死去。
墓所はグラーツ。
著書
背景
『犯罪学』は、20世紀の欧州刑事政策に大きな影響を与えたスイス出身の刑法学者カール・シュトースやその弟子のテオドール・リットラーを参照している[注釈 4]。ただし、「安死術は…実務においては処罰されずに広く行われている」などといった主張は、「生きるに値しない生命の抹殺」('Euthanasie und Vernichtung leben-sunwerten Lebens')という章が存在したナチス時代のリットラーの『オーストラリア刑法教科書』(Lehrbuch des Österreichschen strafrechts, 1933/1938)を引用したものである[注釈 5]。こうした背景事情もあり、論点の中心は専門家や個人の資質に帰結させており、複合的・組織的な犯罪や・高度な専門知識に基づくような犯罪については一切述べられていない[注釈 6]。