エンデュミオンの眠り

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製作年1791年
寸法198 cm × 261 cm (78 in × 103 in)
『エンデュミオンの眠り』
フランス語: Le Sommeil d'Endymion
英語: The Sleep of Endymion
作者アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン
製作年1791年
種類油彩キャンバス
寸法198 cm × 261 cm (78 in × 103 in)
所蔵ルーヴル美術館パリ

エンデュミオンの眠り[1](エンデュミオンのねむり、: Le Sommeil d'Endymion, : The Sleep of Endymion)、または『エンデュミオン、あるいは月の効果』(エンデュミオン あるいはつきのこうか、: Endymion. Effet de lune, : Endymion. Moon Effect)はフランス新古典主義の画家アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンが1791年に制作した神話画である。油彩イタリア留学時代の作品で、ギリシア神話女神セレネローマ神話狩猟の女神ディアナと同一視された)と美しい狩人の青年エンデュミオンとの恋を主題とする。もともとはローマフランス・アカデミー奨学金受給者に課された「裸体習作」として制作されたが、月の光で女神の来訪を表すという詩的かつ独創的な表現のためにジロデの画業を代表する作品の1つとなっている。『眠れるバッカス』(Bacchus endormi)の対作品。1793年のサロンに出品された。現在はパリルーヴル美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5][6][7][8]。また同じくルーヴル美術館に本作品の習作が所蔵されている[2][9]

ルキアノスの『神々の対話』によると、セレネはある日、月の馬車で天の軌道を渡っていると、ちょうど小アジアカーリア地方のあたりを通った際に、偶然屋外で眠っていた狩人のエンデュミオンを目撃して、その美しさに魅了され、すっかり恋に落ちてしまった。それ以来、セレネは地上で眠るエンデュミオンを空の上から眺めるだけでなく、地上まで降り行き、眠っているエンデュミオンのもとを訪れるようになった。セレネがとりわけ好んだのは、エンデュミオンが外套を敷いた岩の上で眠っているときで、左手から投げが滑り落ち、右手を上げて頭の上に置いた姿であった。そこでセレネはエンデュミオンが目を覚まさないようにそっと爪先で近づいていき、その美しい寝顔を間近で見つめるという[10]アポロドーロスの簡略化された物語では、エンデュミオンはセレネから恋されたが、ゼウスに願って不老不死となり、永遠に眠ることを選んだと語られている[11]

制作経緯

ジャック=ルイ・ダヴィッドのもとで学んだジロデは、1786年以降毎年のようにローマ賞の歴史画部門に応募し、1789年に『兄弟たちに認知されたヨセフ』(Joseph reconnu par ses frères)で大賞を受賞した。ジロデは翌1790年の5月30日にローマに到着すると、1791年にパリの美術アカデミーに提出する裸体習作として本作品を制作した[6]。ジロデはダヴィッドやダヴィッド派の画家たちを強く意識しており、制作に際して単なる裸体習作を越えた新しく独創的な作品を作り出すことに情熱を注いでいた[12]。このときジロデはダヴィッドの様式から可能な限り距離を取ろうとしたことが、当時の書簡にはっきり表れている。すなわち絵画が完成したとき、ジロデは絵画がダヴィッドの作品に似ていないことが満場一致で認められたときのみ自分を喜ばせるだろうと述べている。美術アカデミー提出時のタイトルは広く知られる『エンデュミオンの眠り』ではなく『エンデュミオン、あるいは月の効果』であった[6]

作品

同主題の典型的な作例の1つ、セバスティアーノ・リッチの『ディアナとエンデュミオン』。プリンストン大学美術館所蔵[13]
前2世紀頃の『眠れるアリアドネ英語版』。ヴァチカン美術館所蔵。
同時期の『バルベリーニのファウヌス』。グリュプトテーク所蔵。
ガスパール・デュシャンジュによる版画『レダと白鳥』。1711年。

ジロデは眠るエンデュミオンの裸体に焦点を当てて大きく描いた。エンデュミオンは地面に衣類やヒョウ毛皮を敷き、その上に横向きになって横たわっている。エンデュミオンの身体は官能的であり、その手足はすっかり弛緩した様子ですらりと伸びている。樹々の間からは透き通るような月の光がエンデュミオンの上に降り注いでいる。ジロデはこの月の光によって月の女神を暗示させている。暗い闇に覆われたエンデュミオンの周囲には狩猟で用いた投げ槍やが転がっているほか、猟犬が寝そべって眠っている。画面左ではエンデュミオンと月の女神の逢瀬を助ける存在として西風ゼピュロスに扮したキューピッドが登場し、木の枝葉をかき分けることで月の光がエンデュミオンに降り注ぐのを助けている。

後にジロデは本作品の構想について次のように述べている。

1789年以降に私が最初に描き上げた絵画は、絵画部門で大賞を受賞した1790年の翌年にローマで描いた『エンデュミオン』です。構図はボルゲーゼ公園のレリーフに触発されたものです。古代のエンデュミオンをほとんど模写しましたが、ディアナの像を含めないことが私の義務だと考えました。貞節で名高い女神をもっぱら愛の瞑想のためだけに捧げられた場面に描くのは不適切であるように思われたからです。光の筋というアイデアはより繊細で詩的であり、そのうえ斬新であるように思われました。その考えは、枝葉をかき分ける傍らで微笑んでいるゼピュロスの姿をしたキューピッドと同様に、完全に私の頭に浮かびました。だからこそ、絵画は一部の人々が使用している『ディアナとエンデュミオン』という題名で知られるべきではなく、むしろ『エンデュミオンの眠り』なのです。ジロデの1807年頃の手紙[6][14]

横たわった男性の裸体を描くことはアカデミックな訓練の一環であったが、ジロデが描いたエンデュミオンはダヴィッドの作品に典型的な英雄的な男らしさを追求した表現から大きく逸脱している[2]。エンデュミオンの官能性はダヴィッドの禁欲的な新古典主義からの意図的な脱却であり、芸術家の想像力は古典的作品の模倣に基づいた理想化の訓練よりも優先されるべきというジロデの強い信念を体現している[6]

月の女神の表現はジロデ自身も述べているように極めて斬新である。通常「ディアナとエンデュミオン」を主題とする絵画では、セバスティアーノ・リッチフランチェスコ・ソリメーナなどの作例に見るように、眠るエンデュミオンとともに地上に現れた月の女神の姿も描かれた。ところが『エンデュミオンの眠り』はそれらの作品とは一線を画している。ジロデは月の女神どころか月さえも直接的に描いておらず、女神をエンデュミオンに降り注ぐ月光として表現し、それによって月の存在を暗示した。加えてジロデは裸体像を均質な光で照らし出すのではなく、画面全体に光と影を分配しつつ[3]、透き通るような銀色の色調を与えており、それによってアカデミックな明暗法に新たな解釈を加えている[2]

キューピッドはスケッチブックに描かれた準備素描の段階では、背中に大きな翼を持ち、多くの枝をまとめてつかんで強引に撓ませる姿が描かれた。これに対し完成作ではエンデュミオンと調和した落ち着いた構図となっている[15]

近年の研究は『エンデュミオン』と『眠れるバッカス』の露骨な官能性の源泉を、ダヴィッドの工房やローマのフランス・アカデミーといった男性中心の、あるいは若い芸術家たちの間に同性愛的な友情を醸成した環境にあったと論じている[6]

図像的源泉

エンデュミオンの図像的源泉についてはローマ時代のいくつかの古典的彫刻が指摘されている。最も著名なものは1779年にヴァチカン美術館に設置された彫刻『眠れるアリアドネ英語版』であろう。他にはボルゲーゼ美術館所蔵の浮彫りに彫刻されたエンデュミオンや、1799年までバルベリーニ宮殿に所蔵されていたより陶酔的な『バルベリーニのファウヌス』などが挙げられる。特に前者のエンデュミオンのポーズは『眠れるアリアドネ』のアリアドネのポーズとよく似ている。他方ではエンデュミオンやキューピッドの身体は不自然に引き伸ばされ捻りが加えられており、ジロデが旅路やローマ滞在中に鑑賞したマニエリスムバロック絵画の影響が反映されることが指摘されている。

キューピッドについても様々な説が出されている。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの『聖テレジアの法悦』(Estasi di santa Teresa d'Avila)の天使アントニオ・カノーヴァの『教皇クレメンス13世の墓廟』(Tomba di Clemente XIII)の大きな翼を持つ「死の精霊」に影響を受けた可能性が指摘されている。これに対してレヴィティーンはジロデがコレッジョを賞賛していることに注目し、コレッジョの『ダナエ』(Danae)のベッドに腰掛けるキューピッドとの類似を指摘し、表情に関してもコレッジョの『聖ヒエロニムスの聖母』(La Madonna di San Girolamo)の天使の影響を指摘した[15]。しかし『ダナエ』のキューピッドのポーズは本作品とやや異なっており、ガスパール・デュシャンジュ英語版が1711年に制作したコレッジョの『レダと白鳥』(Leda e il cigno)のエングレーヴィングの左右反転したキューピッド像に触発されたのではないかという指摘もある[16]

『眠れるエンデュミオンに向かって舞い降りるセレネ』紀元210年頃。ルーヴル美術館所蔵。

当時の反応

完成した作品は1791年当時、ローマのフランス・アカデミーの本拠地であったマンチーニ宮殿英語版で初めて展示された。さらに1793年のパリのサロンでも展示されて好評を博し、一大センセーションを巻き起こした。数年後、師であるダヴィッドはルネサンス期のパルマ派の画家コレッジョと比較し、最大級の賛辞で本作品を称賛した。

彼がイタリア滞在中にパリへと送った習作、特に素晴らしい作品である『エンデュミオンの眠り』は、彼が私(の助言)を十分に理解していたことを証明した。いや、コレッジョ、あの名高いコレッジョが形態や色彩の点で、ジロデが画中で描いたディアナから彼女の愛する存在を隠している木の枝を退けるアモルより美しいものを描くことが出来たとは思えないのである。ダヴィッドの自伝手稿(1800年から1806年頃)[3]

後にロマン主義の画家ウジェーヌ・ドラクロワはアナクレオン風の様式に反発した。ドラクロワは1822年の『ダンテの小舟』(La Barque de Dante)でエンデュミオンと同じポーズをした亡者を登場させ、死に抵抗するエネルギーを与えた[2]

来歴

本作品の習作。ルーヴル美術館所蔵。

『エンデュミオンの眠り』は1793年のサロン以降も、1802年、1814年のサロンに出品された[4]。1818年、ジロデの他の代表作である『洪水の情景』(Une Scène de Déluge)や『アラタの埋葬』(Funérailles d'Atala)とともに50,000フランで国家買い上げとなった[4]

習作

いくつかの準備素描や油彩習作が残されている。油彩習作の段階ではキューピッドや月光といった重要な要素は欠けている。また荒いタッチで大雑把に描かれた背景も完成作とはかなり異なり、画面左上には三日月が配置され、比較的明るく開かれた景色の中で眠るエンデュミオンの様子が窺える。エンデュミオンのポーズは油彩習作の方がより身体を捻っているように見えるが、この段階でほとんど完成されている[15]。画家・版画家アンリ・グレヴドン英語版のコレクションであったことが知られる。グレヴドンは1846年にパリで開催されたバザール・ボンヌ=ヌーベル展(Exposition du Bazar Bonne-Nouvelle)に貸し出した。その後、バジル・ド・シュリヒティング男爵のコレクションとなり、1914年にルーヴル美術館に遺贈された[9]

脚注

参考文献

外部リンク

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