レヴォン3世の子として生まれる。
1308年、レヴォン4世がモンゴルの守将ビラルグに殺される事件が起きると、オシンはイルハン朝の宮廷に向かって出発し、このことをオルジェイトゥ・ハンに報告しようとしたが、スィヴァースでビラルグに捕まってしまう。ちょうどそのとき、イルハン朝のキリキアの軍事長官であるイリンジンがオルジェイトゥ・ハンの宮廷から戻ったので、彼はオシンを釈放し、この事件をオルジェイトゥ・ハンに報告した。オルジェイトゥ・ハンは両派を宮廷へ召喚し、自分の前でそれぞれの意見を申し立てさせると、ビラルグを赦免し、オシンを帰国させた。しばらくしてのち、ビラルグは彼の反対派によって告発を受け、オルジェイトゥ・ハンによって死刑に処された。帰国したオシンはキリキア・アルメニア王に即位した。
1315年4月、マムルーク朝のダマスカス長官サイフッディーン・タンカル指揮下の軍隊は、アインターブを経由してキリキアに侵入し、マラティヤへ侵攻した。ウデクティムールは先鋒を率いてこの城を3日包囲すると、タンカルが大軍を率いてこの地に到着し、幕営においてマラティヤの長官と法官(カーディー)が開城降伏を申し入れてきたのを許した。しかしその間、ウデクティムールは自分の陣地の前の城の一部を力づくで占領した。将軍タンカルがウデクティムールに対して開城降伏した城を彼の軍隊に掠奪させないよう命令すると、ウデクティムールは自分は三日間の戦闘の末、この城を武力で占領したのであると返答し、部下の軍隊に掠奪を許可した。彼の軍隊はキリスト教徒住民を刃にかけ、あるいは捕虜とし、都城に火を放った。4月30日、マムルーク朝軍はアインターブに帰還し、シリアに戻った。タンカルがマラティアを去ってから3日後、地下室に隠れていたアルメニア人およびその他の住民が出てきたので、カフタ要塞、カルカル要塞の守備隊は突如として城を包囲してアルメニア人300人を殺し、100人を捕らえ、布帛など莫大な戦利品を獲た。しばらくしてのち、オルジェイトゥ・ハンからマラティヤ城を封地として受けたモンゴルの将軍チョバンがこの地に到着し、在留していたイスラム教徒の安全を保障し、この地に千騎の守備隊を置き、兵火に遭った場所の再建を命じた。
1316年2月、マラティア遠征に続いてマムルーク朝軍によるキリキア侵入が数回行われた。マムルーク朝軍はダランダ堡を奪取し、この地を守備していたアルメニア人約1000人を殺し、婦女子を捕虜として連れ去り、城堡を取り壊した。
1320年、オシンが死去したため、子のレヴォン5世が後を継いでキリキア・アルメニア王に即位した。