レヴォン3世
From Wikipedia, the free encyclopedia
生まれ
マムルーク朝のキリキア侵攻
1266年、マムルーク朝軍が侵攻しつつあるため、ヘトゥム1世はルームに駐屯しているイルハン朝のモンゴル軍の司令官に救援を要請したが、この司令官はアバカ・ハンの特命がなければ援助できないと言ったため、直接アバカ・ハンの宮廷へ使者を派遣して救援を乞うた[1]。しかし、そうしている間にマムルーク朝軍はキリキアに侵入したため、ヘトゥム1世は王子レヴォンに命じて海岸に臨むイスカンデルン峡谷を防衛させた[1]。8月、マムルーク朝軍はこの峡谷を俯瞰する山地を突破してセルンド要塞の付近でレヴォンを攻撃した[1]。キリキア・アルメニア軍は敗北を喫し、レヴォンは捕らえられ、その弟トロスと叔父のひとりは戦死した[1]。その後マムルーク朝軍はその領内で掠奪をおこない、男子は殺され、婦女子は捕虜となり、城塞は焼き払われた[2]。ヘトゥム1世はアバカ・ハンに何度も援助を要請したものの、アバカは東方の対応におわれてそれどころではなかった[3]。結局ヘトゥム1世はマムルーク朝との講和条約にすべて同意し、翌年(1267年)6月にアンティオキアで調印された休戦条約によってビヘスナ、ダルバサーク、マルザバーン、ラーナン、アル=ルーブ、シーフ・アル=ハディードの諸要塞を返還すること、アミールの赤毛のソンコルを釈放することを約束した[4]。7月、これによって捕虜になっていた者たちが釈放され、カイロの山城に抑留されていた王子レヴォンも帰還した[4]。
即位
1269年、ヘトゥム1世はバグダードに駐留していたアバカ・ハンの宮廷へ赴き、自分が老齢で持病が多いため、キリキア・アルメニア王位を王子レヴォンに譲る許可を得たため、帰国後レヴォンに譲位した(レヴォン3世)[5]。レヴォン3世は即位するとさっそくアバカ・ハンの宮廷に赴き、あらためてキリキア・アルメニア国王の冊封を受けた[5]。同じ年、アバカはマムルーク朝へ使節団を派遣し、その書簡でクトゥーズ暗殺について非難し、エジプトに侵攻すると脅したが、実行に移すことはなかった[6]。
2度目のマムルーク朝のキリキア侵攻
アレッポ地方の守将でアインタープ出身のフサームッディーンはキヌーク市の住民がイスラム教徒商人や旅行者たちに迫害を与えていることをレヴォン3世に抗議していた[7]。1273年7月20日、レヴォン3世から満足する返答が得られなかったので、フサームッディーンは国境を越えてキヌーク市を襲撃し、男子は虐殺され、婦女子は奴隷にされた[8][注釈 1]。シリアの軍隊は首都スィス市の正面に現れたが、攻略が容易ではないとみてタルスス市へ進撃し、これを陥落させた[8]。フサームッディーンは掠奪品をを携えて退却した[8]。レヴォン3世はマムルーク朝軍が自分の国土に与えた惨禍を回復し、破壊された都市と修道院を復興させる処置を取ったが、大藩候たちの忠誠心を疑って山中に退却した[8]。レヴォン3世は敵軍が撤退するかしないうちに、多数のマムルーク朝軍が進軍してきたという知らせを聞き、臣民に対して信仰の保持のため、敵軍と戦うことを激励して行軍し、敵の殿軍を襲って潰走させた[8]。
3度目のマムルーク朝のキリキア侵攻
1275年、マムルーク朝のスルタン・バイバルスはキリキアを掠奪しようとして1268年に結ばれた10年の休戦条約をレヴォン3世の違反によって破棄できると考えた[9]。その理由はレヴォン3世がマムルーク朝への定められた貢納品を中止したこと、新しい城壁を建て、古い城壁を修復したこと、有益な情報を教えなかったこと、アルメニア人がモンゴル人の頭飾りをつけて隊商(キャラバン)を襲撃していたこと、キヌーク城を奪取して暴力行為をしたことであった[9]。2月1日、これらをもってバイバルスはキリキアに軍隊を派遣した[9]。3月、スィス市に火を放ち、住民は城の中へ避難した[10]。掠奪した捕虜と家畜がシリアへ送られると、バイバルスは撤退した[10]。途上の男子は殺され、婦女子は捕虜となった[10]。この遠征によるアルメニア人の死者は6万人で捕虜になった人数はさらに多かった[11]。
第二次ホムスの戦い
アバカ・ハンは3万の軍を率いてラフバト要塞を包囲し、アバカの弟モンケ・ティムールの別軍はルームを横断してカイサリア市とアブルスターン市との間に軍営を置いた[12]。キリキア・アルメニア国王も騎兵隊を率いてこれに合流した[13]。モンケ・ティムールはアインターブ街道を経てシリアへ入り、ハマー市の周辺を荒らし、ヒムス(ホムス)市に進んだ[13]。1281年10月30日、イルハン朝軍とマムルーク朝軍はハマー市とヒムス市の間の平原にあるハーリド・イブン・アル=ワリードの墓の付近で対峙した[14]。モンケ・ティムールの軍は2万5千のモンゴル人、5千人のグルジア人、キリキア・アルメニア王レヴォン3世率いるアルメニアおよびテュルク・ルームの軍隊で構成されていた[14]。マムルーク朝側も同じくらいの兵力であった[14]。マムルーク朝のスルターン・カラーウーンはハマーの王侯、将軍ベイセリ、タイバルス、アイベク、ケストグディ、ダマスクスの長官アミール・フサームッディーン・ラージーンの部隊を右翼とし、シャラフッディーン・イーサー・イブン・ムフナ率いるシリアのベドウィン部隊を右翼の前衛とし、赤毛のソンコル、ビリク、ベクタシュ、サンジャル、ベチカ、ベクトゥト、チェレク、トルクメン人とクルド人部隊を左翼とし、将軍タランタイ、将軍アヤジ、ベクタシュ・イブン・ケルムンとスルターンのマムルークを中軍の前衛に配置した[14]。はじめモンゴル軍の左翼がマムルーク朝軍の右翼に突撃したがマムルーク朝軍はもちこたえ、逆にモンゴルの左翼に突撃してこれを潰走させた[15]。一方のマムルーク朝左翼と中軍はモンゴルの将軍マズク・アカ、ヒンドクル、アリナク指揮下のモンゴル・オイラト人、グルジア人、アルメニア人で構成されたモンゴル右翼軍によって突破され、ヒムス城門まで追撃された[15]。モンゴル軍は追い詰めたマムルーク朝軍を大量に虐殺し、輜重と軍資金を掠奪した[15]。しかし、そこでモンケ・ティムール本隊が潰走したことを知り、慌てて退却した[15]。その後マズク・アカらの右翼軍はスルターン・カラーウーンによって追われ、甚大な被害を被った[16]。この戦闘でモンゴルの将軍サマガルは戦死した[16]。モンケ・ティムールはその残兵を率いてユーフラテス川を渡り、彼の母の所領であるモースル市へ逃げ込んだ[17]。マムルーク朝軍の被害も甚大であったが、この戦いはマムルーク朝の勝利に終わった[18]。アバカは最初ラフバト要塞をはじめ、いくつかの要塞を破壊した後、9月20日にスィンジャール市に帰り、11月にモースル近くのマフラビーヤのオルドに帰還したところだったが、そこでモンケ・ティムールの敗北を知った[19]。これに怒ったアバカは将軍の誰かが義務を怠ったせいだと考え、次のクリルタイで義務を果たさなかった者を裁判にかけて処罰すると言明し、今度は自らがエジプト人を征討すると言い放った[19]。
