トロス3世の子として生まれる。
1305年、ヘトゥム2世は王位を甥であるレヴォン4世に譲り、修道院に隠退した。
ノヤン・タガチャルの親族であるビラルグは将軍イリンジンが1306年にキリキア・アルメニア王国の軍事長官に任命されると、小部隊を率いてルームへ移駐した。ビラルグはキリキアに駐屯地を置いた。狂信的なイスラム教徒だったビラルグはタカヴォルをいじめることに専念し、部下の兵士もこれにならってアルメニア人を虐待した。
1308年春、ビラルグはイリンジンに随行してオルドへ赴いた。彼らの仕事ぶりがオルドで称賛された。彼らは確固とした権限を与えられてルームへ帰った。ビラルグはレヴォン4世がかつて宮廷へ来て自分のことを訴えたこと、レヴォン4世が自分を陥れるために将校たちとスルターンの寵臣たちを自分に引き入れようと努めたが、これらの者が贈物を拒絶し、結局はこの企みが失敗に終わったということを聞いた。ビラルグはこの報復をしようと決心し、500人の士卒を率いてスィスの地方に入り、レヴォン4世に対し、イスラム教徒である20人の兵卒を指揮して王国の最も要害の一つであるアナザルバに駐屯したいと要望した。レヴォン4世はこれに同意せざるを得なくなった。
レヴォン4世はイルハン朝とマムルーク朝の両方に年貢を支払っていたが、マムルーク朝のスルターン・ナースィル・ムハンマドにモンゴルの守将ビラルグが勝手に王国の収入を処理していて年貢の支払いの履行を不可能にさせていると報告した。スルターン・ナースィル・ムハンマドはこのことをビラルグに問いただし、釈明を求めさせた。この時、マムルーク朝の使者は情報源がレヴォン4世からの密告であることを告げた。これに怒ったビラルグはレヴォン4世にマムルーク朝の使者が会いたいと言っていると言って呼びつけ、レヴォン4世は叔父ヘトゥム2世、大元帥オーシン及び40人の諸侯を連れてビラルグに会いに行った。レヴォン4世は単独でビラルグの隣に案内された。ビラルグはレヴォン4世としばらく話したのち、自分の礼拝(ナマーズ)をすると言う口実で立ち上がり、剣を抜いてタクビール[注釈 1]を誦しながら、レヴォン4世の首を斬った。ビラルグの部下はビラルグの神の祈祷を聞くなり、ヘトゥム2世を含む随行者も殺害した。この裏切りの知らせを聞いてアナザルバの守将はビラルグの兵士を惨殺し、烽火を上げて他の諸堡に合図を送った。ビラルグはアナザルバの堡下に赴き、守備隊の一部をなす自分の兵卒が自分のために門を開くであろうと思った。しかし、堡内からは石と矢のを浴びせられ、ビラルグは自分の部下がすでに死んだのではないかと思った。アルメニアの軍隊が援軍として駆けつけたので、兵力の少なかったビラルグは退却した。