ヘトゥム2世
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生まれ
1267年、レヴォン3世の子として生まれる。
即位
トロス3世に譲位後復位
1291年、アッコが陥落した後、ヘトゥム2世はローマ教皇ニコラウス4世ならびに西欧の主要な国王たちに使節を派遣して、彼らの援助を乞うた[1]。ローマ教皇はフランス国王フィリップ4世に懇願し、書簡を西欧キリスト教徒にアジアの同胞を救いに来るよう促したが、効果はなかった[1]。
1293年、マムルーク朝のスルターン・アシュラフはアルメニアに対して軍隊を派遣して攻撃したので、ヘトゥム2世は使節を派遣して慈悲を乞い、そのために自ら武装解除することを決して怠らなかった[1]。スルターン・アシュラフは国王が自分にビヘスナ、マラシュおよびテル・ハムドゥーンの地を割譲することを条件として侵略の企てをを断念したが、この条項はただちに実施に移された[1]。ビヘスナはフレグのシリア征服前、アレッポの王侯に属していた[1]。しかし、この時期に王侯ナースィルのためにこの地を守備していた将校はこの城を10万銀ドラクマでアルメニア国王に売った[1]。4年後、ヘトゥム2世は王位をその弟トロス(トロス3世)に譲り、修道院に入って聖フランシスコ派の僧となり、ジョンと名乗った[1]。ヘトゥム2世が退位したにもかかわらず、国王トロス3世と諸大候たちは重要な事項についてはヘトゥム2世のところに行って相談した[1]。
1295年、トロス3世の妹イサベルがティル伯アマウリクと結婚することになり、この結婚祝賀のためにスィス市に集まったトロス3世と貴族たちがヘトゥム2世に強く懇願した結果、ヘトゥム2世は国政に復帰した[1]。
バイドゥ・ハンとガザン・ハンに朝貢
1295年、イルハン朝でバイドゥ・ハンが即位すると、ヘトゥム2世はバイドゥに朝貢して彼と多くの相談するために出発した[1]。ヘトゥム2世はスィヤー・クーに至り、この地でバイドゥに謁見したが、このとき、アミール・ノウルーズがちょうどバイドゥ・ハンに向かって進撃しており、バイドゥはその危機に際して、ヘトゥム2世にマラーガ市へ帰るよう言い、事態が許せばアルメニア国王はこの地でオルドへ行く招待を受けることになった[2]。ヘトゥム2世はバイドゥに勝利したガザン・ハンがディフブルガーン付近のオクマ丘に駐屯していることを聞き、ただちにガザンに会いに行き、彼に莫大な貢物を献上した[2]。ガザン・ハンはヘトゥム2世に対し、「なんじはバイドゥに来たのであって私のために来たのではない」と言った[2]。ヘトゥム2世は「チンギス・カンのすべての後裔に対して朝貢すること、その後裔でハン位にある人に対してはいかなる人にも敬意を表しに来ることは私の義務です」と答えた[2]。これにガザン・ハンは喜んで、彼に王袍を着せ、彼に対する叙任状(封冊)を作成するよう命じ、彼の欲すること一切を認めると約束した[2]。ヘトゥム2世はガザン・ハンに対して上帝の鎮座する教会堂と祈祷のための聖所を破壊することはやめてほしいことを要望し、ガザン・ハンはこれに従い、以前の勅令を取り消し、偶像教徒の寺院だけをイスラム寺院と学林に変える勅令とした[2]。ヘトゥム2世は自分の宗教(キリスト教)のために果たした任務に満足しつつ、1296年10月9日、オルドを去って帰国した[2]。
スンバトの簒奪
ヘトゥム2世は帰国後、トロス3世と共に妹である東ローマ皇帝ミカエル9世パレオロゴスの皇后マリアに会いにコンスタンティノープルへ赴いた[3]。このとき弟のスンバトを摂政として残したが、スンバトは諸侯を糾合して自ら立って国王となった[4]。スンバトは1297年にスィス市において総大主教グレゴリウスによって聖別されて国王となった[4]。スンバトはガザン・ハンのところにも王位の承認を求めに行き、ガザン・ハンからもキリキア王国の封冊を得ることができた[4]。ガザン・ハンはさらにスンバトの親族の王女の一人を与えて結婚させた[4]。スンバトはスィス市に帰ると、スンバトと総大主教グレゴリウスは治世が変わったことをローマ教皇に通知し、キリキアの君主は自分と王国とともにローマ教会の保護下に入った[4]。翌年(1297年)、ヘトゥム2世とトロス3世がキリキアに帰国すると、スンバトは2人を国外へ追放した[4]。2人はコンスタンティノープルに引き返して援助を求めたが、東ローマ帝国は彼らにわずかな金銭を与えたに過ぎなかった[4]。彼ら二人はガザン・ハンの宮廷へ行こうと思ったが、カイサリヤ市で捕らえられ、バルズルベンドで幽閉され、3日後、この地でガザン・ハンの命令でトロス3世は死刑となり、ヘトゥム2世は目をつぶされた[4]。これらの残虐行為はスンバトによる煽動のせいであり、このことは彼の弟コスタンディンの復讐を招き、コスタンディンはスィス市に進撃してスンバトを破って捕虜とし、1298年にコスタンディン3世として即位した[4]。
マムルーク朝のキリキア侵攻
マムルーク朝のスィラーフダールの長官バドルッディーン・ベクタシュが指揮官に任命され、エジプト、ダマスクス、アレッポ、トリポリ、ハマー諸州の軍隊を率いて進軍した[5]。コスタンディン3世はカイロに使節を派遣してスルターンに和睦を哀願したが、マムルーク朝は許さなかった[6]。マムルーク朝各地の軍隊はアレッポ市に集結し、アマクまで前進し、この地で進路を分けて進軍した[6]。一部隊はバグラス山を経てイスカンデルン関に向かい、テル・ハムドゥーン城下へ行って幕営した[6]。他の部隊はメリ山を横断して1298年4月17日にスィス関へ到着した[6]。両部隊が敵地で合流するなり、それらを指揮していた二人の将軍は作戦に関して意見が分かれた[6]。ベクタシュは要塞を包囲攻撃することを主張し、ダワートダール(尚書)のアーラムッディーン・サンジャルは掠奪することに限定すべきであると主張した[6]。アーラムッディーンは自分は遠征軍の諸将のなかで最後にスルターンと会見した者であり、スルターンは単なる侵入の命令を下したのであると主張し、自分こそが総司令官であると言い張った[6]。ベクタシュはやむを得ず譲歩した[6]。マムルーク朝軍はアムーダイン渡しにおいてジャイハーン川を渡り、国土を掠奪し始めた[6]。アーラムッディーンはスィス城を攻撃し、ベクタシュはナワルザとアダナを攻め、両部隊は手当たり次第にアルメニア人を殺し、掠奪した家畜を追い立てた後、ナワルザとアダナ両地で合流した[6]。両軍はアダナからマッスィーサを経て退却し、自分たちの架けた橋で川を渡り、バグラスに帰り、この地から彼らはそれぞれの駐屯地に帰るつもりでアンティオキア付近を経由して後退の行進を続けた[7]。しかし、スルターン・マンスール・ラージーンからの書状ではダワートダールにはベクタシュより上位の権限を与えていないし、作戦計画に関してもベクタシュより優れているとは思えないし、アミール・ベクタシュが総司令官であることは変わりないとし、テル・ハムドゥーンを占領するまでは帰還してはならないと命令があった[7]。遠征軍はもと来た道を引き返し、アレッポ市を経由して再びバグラス山を越えた[7]。アヤース市方面へ分遣された一部隊は茂みのなかに潜んでいたアルメニア人に攻撃され、多大な損害を余儀なくされた[7]。全軍はついでテル・ハムドゥーンへ進撃したが、住民はナジマト要塞へ退却してしまっていて、城中は空となっていた[7]。テル・ハムドゥーン市は6月18日に占領された[7]。同時にアレッポの軍隊の一部隊はマラシュを占領した[7]。
ヘトゥム2世の復位
1299年、ガザン・ハンの第1次シリア遠征の最中、5千人のベドウィン人部隊が砂漠の一方から現れてモンゴル軍の背後を襲おうとした[8]。しかし、ガザン・ハンはマムルーク朝軍がモンケ・テムルを攻めたときと同じ戦術を使うだろうと予測し、クル・ブカに5千人を率いて後衛を指揮させ、軍の後方を防衛させる策を取った[8]。クル・ブカはアラブ人の攻めてくるのを見つけると、これに襲い掛かり、これを敗走させた[8]。戦闘の後、アピシュカが5千人を率いたキリキア国王とともにルームから到着した[8]。この時のキリキア国王は奇跡的に視力が回復したヘトゥム2世であり、ヘトゥム2世はアルメニアの藩候たちのおかげで3度目の即位をすることができたのであった[8]。前国王コスタンディン3世は廃位されたので、乱を起こそうとスンバトを獄中から救出しようと試みた[8]。しかし、コスタンディン3世は逮捕され、スンバトと共にコンスタンティノープルに送られ、この地で抑留されたのちに死んだ[8]。
ガザン・ハンの第3次シリア遠征

1303年1月、3度目のシリア遠征が開始され、3月にはクトルグシャー、チョバン、ムライらがアレッポ、ハマー、ダマスクスと進軍した。ガザン・ハンは後方のクシャ―フの草原で待機し、戦況を待った。スルターン・ナースィル・ムハンマドの軍と戦闘となり、はじめはいつものようにモンゴル軍が優勢だったが、水が欠乏したのと、今回のマムルーク軍は勇猛果敢だったため、クトルグシャーの軍は敗走してしまう[9]。マムルーク朝軍は勝利してカイロに凱旋した[10]。多くの戦死者を出したクトルグシャーをはじめとした将校は処罰の対象となった[10]。
ガザンはシリアからの撤退後、キリキア王ヘトゥム2世に1千人のモンゴル部隊を残し、その国の防衛の助けとした[11]。
マムルーク朝の侵攻
1304年5月17日、ガザン・ハンが死去したため、これに乗じてマムルーク朝のスルターン・ナースィル・ムハンマドはキリキアの遠征を命令した[11]。この遠征の指揮官に指名されたアミール・バドルッディーン・ベクタシュは1304年3月、マムルーク朝軍を率いてエジプトを出発し、ダマスクス、ヒムス、ハマー、トリポリ、アレッポの軍隊が続々と合流した[11]。ベクタシュは病のためアレッポ市に留まったが、彼の軍はキリキアへ侵入した[11]。この軍は二部隊に分かれ、一部隊はカラート・アル=ルームとマラティヤを経由し、他の一部隊はデルベントを通過した[11]。これら二軍は各地を掠奪して荒らし、多数の住民を殺したり、捕らえたりしたのち、テル・ハムドゥーン堡下で集結し、6月17日に開城降伏した[11]。これでマムルーク朝軍は退却した[11]。
1305年7月、アレッポの長官シャムスッディーン・カラ・ソンクルはアルメニア国王が年貢を遅らせたことを口実として、部下のマムルークの一人クシュティムール指揮下の3千人の部隊をキリキアに侵攻させた[12]。ヘトゥム2世はこれを退却させるために彼に巨額の贈り物をしたが、効果がなかった[12]。マムルーク朝軍はアルメニア領内へ進軍を続け、掠奪・放火をし、婦女子を捕虜として引き立てていったが、ついにアルメニア、フランク、モンゴル人によりなる6千人の部隊に反撃を受けるに至った[12]。そこでマムルーク朝軍は慌てて退却し、モンゴル軍はこれを追撃して大きな損失を与えた[12]。クシュティムールは少数の部下と共にアレッポに帰った[12]。ヘトゥム2世は急いでカラ・ソンクルに手紙を送って自分の命令なしにマムルーク朝軍を攻撃したのはモンゴル人であたっと述べ、退却中に捕らえてオルジェイトゥ・ハンのオルドへ送られた4人のマムルーク朝将校を釈放するよう、オルジェイトゥ・ハンに要求することを約束した[12]。ヘトゥム2世は手厚い贈物を送り、今後年貢を必ず支払う保証をした[12]。カラ・ソンクルはこのことをスルターン・ナースィル・ムハンマドに報告し、スルターン・ナースィル・ムハンマドは贈物を嘉納して弁解を受け入れた[12]。この事件の後、ヘトゥム2世は王位を甥であるレヴォン4世に譲り、修道院に隠退した[13]。
死去
1308年、レヴォン4世はイルハン朝とマムルーク朝の両方に年貢を支払っていたが、スルターン・ナースィル・ムハンマドにモンゴルの主将ビラルグが勝手に王国の収入を処理していて年貢の支払いの履行を不可能にさせていると報告した[14]。スルターン・ナースィル・ムハンマドはこのことをビラルグに問いただし、釈明を求めさせた[14]。この時、マムルーク朝の使者は情報源がレヴォン4世からの密告であることを告げた[14]。これに怒ったビラルグはレヴォン4世にマムルーク朝の使者が会いたいと言っていると言って呼びつけ、レヴォン4世は叔父ヘトゥム2世、大元帥オーシン及び40人の諸侯を連れてビラルグに会いに来た[14]。ビラルグはレヴォン4世としばらく話したのち、レヴォン4世を斬りつけ、ヘトゥム2世を含む随行者も殺害した[14]。