パウロ・ピカソ
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生涯
生い立ち
パウロは、スペイン出身でフランスに定住した画家パブロ・ピカソと、その最初の妻でロシア帝国出身のバレエダンサー、オルガ・コクローヴァの間の子供として、1921年2月4日にパリで生まれた。両親は1918年に結婚した[1]。パウロは、パブロとオルガの間の唯一の子供である。パウロの異母兄弟にマヤ、クロード、パロマがいるが、いずれもパブロと愛人との間の子供であるため、パウロは唯一の嫡出子だった。
パウロの正式な名前はポール・ルイズ・ピカソ(Paul Ruiz Picasso)だが、普段は愛称のパウロと呼ばれた。ポールは父の名前パブロのフランス語形である。
若年期
父パブロは、結婚当初の数年間は妻オルガとの仲も良く、私生活においてある程度の充実感や安定感を感じていた。幼少期のパウロは、父パブロのインスピレーションの源であった。妻オルガも同様であり、パブロのモデルを頻繁に務めた[2]。パブロは、絵を描いたり[3]遊んだりしているパウロを単体で、もしくはオルガに抱かれたパウロを、デッサンや油絵で描いた。また、パウロがアルルカン[4](1924年)やピエロ[5](1925年)の扮装をした絵や、木馬に乗っている絵(1926年)なども残されている。
この平穏な家庭生活は、1927年にパブロがマリー=テレーズ・ワルテルと出会い、不倫関係になったことで終わりを告げた。1935年、ピカソの不倫を知ったオルガは、14歳のパウロを連れて家を出た。オルガは離婚を申請したが、法律で義務付けられた離婚時の財産の平等分割をパブロが拒否したため、オルガは死去するまでパブロと婚姻状態のままだった。オルガとパウロは南仏に移った[6]。
青年期
青年となったパウロは、父パブロの運転手などの雑用をしていたが、この仕事に対してパブロは僅かな報酬しか支払わなかった。また、オルガに対する援助も拒否したため、オルガは次第に貧困に陥っていった。親子の関係は徐々に悪化した。パブロはパウロを公然と「愚か者」(imbécile)と呼ぶなど、度々侮辱した[7]。ある日、パブロはパウロに「お前はブルジョア的で無能な無政府主義者だ」と言い放った。父からの虐待の対象となったパウロは、カンヌの別荘に入れてもらえなくなり、創作活動中の父に会うこともできなくなった。生活が不安定になったパウロは、酒に溺れたが、それでも唯一の収入源である父から逃げることはできなかった[8]。
父の運転手として、パウロは高級車に熱中した。
私生活
パウロは1950年5月10日にエミリアン・ロッテ(Émilienne Lotte)と結婚し、1953年に離婚した[9]。エミリアンとの間には以下の2人の子供がいる。
- パブリート・ピカソ(Pablito Picasso、1949年 - 1973年)
- マリーナ・ピカソ(Marina Picasso、1950年 - ) - 両親が別れたときは生後5か月だった。
その後、1955年に知りあったクリスティーヌ・ポープラン(Christine Pauplin)と1962年3月9日に結婚した。クリスティーヌとの間には以下の1人の子供がいる[10]。
- ベルナール・ルイズ=ピカソ(Bernard Ruiz-Picasso、1959年 - ) - 母親とともにマラガのピカソ美術館を設立[11][12]
晩年と死去

父パブロは1973年4月8日に死去した。父の唯一の嫡出子であるパウロは、父の莫大な遺産の大半を受け取る権利があるとして、それ以降羽振りがよくなり、高級車にもさらに熱中した[13]。しかし、継母(パブロの後妻)のジャクリーヌは、パブロの子・孫の葬儀への参列を拒み、これに深く傷ついたパウロの息子パブリートは漂白剤を飲んで自殺を図り[14]、3か月後に死去した[15]。