オーティス・ラッシュ

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出生名 Otis Rush, Jr.
生誕 (1935-04-29) 1935年4月29日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミシシッピ州フィラデルフィア
死没 (2018-09-29) 2018年9月29日(83歳没)
オーティス・ラッシュ
「ロング・ビーチ・ブルース・フェスティバル」にて(2002年)
基本情報
出生名 Otis Rush, Jr.
生誕 (1935-04-29) 1935年4月29日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミシシッピ州フィラデルフィア
死没 (2018-09-29) 2018年9月29日(83歳没)
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1956年 - 2004年
レーベル
公式サイト http://www.otisrush.net/

オーティス・ラッシュOtis Rush1935年4月29日[4][5][6] - 2018年9月29日[7])は、アメリカ合衆国ミシシッピ州フィラデルフィア出身のシンガーソングライターギタリスト[8]。50年代のシカゴにおいてバディ・ガイマジック・サムらとともに、リード・ギターを前面に打ち出した、新たなシカゴ・ブルースのサウンドを切り開いた。その斬新なサウンドは、当時ウェスト・サイド・サウンドと称された。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第53位。

左利きながら、右利き用に弦を張ったギターを逆向きに持って弾くユニークなスタイルを持つ。同様のスタイルには、有名なところではアルバート・キングがいる。通常の弦の配列に比べて、より高音弦でのチョーキングがしやすいと言われている。

コブラ・レコードに残した初期の録音、「All Your Love (I Miss Loving)」や「Double Trouble」などは彼の代表曲となっている。ロックのギタリストを中心に、影響を受けたミュージシャンは多い。エリック・クラプトンも大きな影響を受けた一人で、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ時代に「All Your Love (I Miss Loving)」を、またソロになってから「Double Trouble」、「Groaning The Blues」をカヴァーしている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンは、バンド名をオーティスの曲名から「Double Trouble」と名付けている。意外な所ではエアロスミスが「All Your Love (I Miss Loving)」をカバーしている。

ギターのチョーキングビブラートが特徴的。彼はレコーディングの機会に恵まれていたとは言い難く、実力のわりには作品は少ない。2004年脳梗塞で倒れ、以来リハビリを行っていたが、2018年9月に公式サイトを通じて死が発表された。日本人の妻をもち日本でも人気が高い[9]

来歴

8歳の頃ギターを始める。1956年、コブラ・レコードより「I Can't Quit You Baby」でデビュー。この曲は、レッド・ツェッペリンのカヴァーで有名である。1958年まで同レーベルで計16曲をレコーディングをした。コブラの作品は、ラッシュは殆どギャラを手にすることはなかったという。レーベルも1959年には倒産した。

続いてラッシュは、チェスの扉を叩く。しかし、ここでは1960年1月の1セッションで8曲が吹き込まれ、2枚のシングルがリリースとなった。チェスのセッションでは名作「So Many Roads」が生まれている。1969年には、編集盤アルバム『Door To Door』にこれらのシングル2枚を含む計6曲が収録された。

ラッシュが次にレコーディングをしたのは、1962年デューク・レーベルでのセッション。しかし、ここでもシングル"Homework"1枚のリリースに終わる。この曲は、後にJ・ガイルズ・バンドが取り上げるなどして幅広く知られるようになった。ラッシュ自身も1994年のアルバム『Ain't Enough Comin' In』で再演している。

1966年にはヴァンガードのセッション、またヨーロッパのアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルにも参加するなどした。1969年には、エレクトリック・フラッグマイク・ブルームフィールドニック・グラヴェナイティスのプロデュースの下、初のアルバム『Mourning In The Morning』のレコーディングを行った。ソウルの名門スタジオ、アラバマ州マッスルショールズフェイムでレコーディングされ、ロック、ソウルのテイストを大胆に盛り込んでいる。

1971年、アルバム『Right Place, Wrong Time』のレコーディング・セッションをサンフランシスコで行うが、レコード会社のキャピトルはでき上がった作品をお蔵入りにした。この作品が日の目を見るのはレコーディングから5年も経ってからであった。オーティスが版権を買い取り、1976年、米国ではブルフロッグ・レコード、日本ではPヴァインがリリースした。

1970年代は他にデルマークなどから発表している。1975年には「第3回ブルース・フェスティバル」出演のために初来日。このときに、のちの夫人となるマサキと出会う。1970年代末から1980年代前半にかけて、オーティスの活動は減速していく。スタジオ作は1978年のヨーロッパ・ツアー中にレコーディングした『Troubles Troubles』を最後にしばらく遠ざかってしまう。演奏活動のペースも落ちて行った。

そんなオーティスが再び活動を活発化させたのは1985年のこと。同年、米国ツアー中にレコーディングしたライブ・アルバム「Tops」は、彼の復活を感じさせるには充分の内容だった。翌、1986年には11年ぶりの来日公演が実現。日本を代表するブルース・バンド、ブレイクダウンと全国6都市を回った。ツアーはするようになったものの、その後もスタジオ作はなかったオーティスだが、1994年、16年ぶりとなる『Ain't Enough Comin' In』をリリース。1998年には続くスタジオ作『Any Place I'm Going』をリリースし、同作は第41回グラミー賞最優秀トラディショナル・ブルース・アルバム賞を受賞した[10]。しかし、以後再び新作からは遠ざかっており、最終的にはこれが最後のスタジオ作となった。

2004年初頭に脳梗塞で倒れた。その直後の2004年春のブルース・カーニバル公演へは、リード・ギタリストにカルロス・ジョンソンを立てて来日した。しかし、以後は後遺症から演奏活動の停止を余儀なくされている。

2007年12月には、生誕の地、ミシシッピ州フィラデルフィア建てられた自身の記念碑の除幕式に出席。演奏こそしなかったものの、久々に公の場に姿を現した[11]

2016年6月12日、シカゴ・ブルース・フェスティバル最終日のグランド・ファイナルは、「オーティス・ラッシュ・トリビュート」と銘打たれ、ステージが始まる前にシカゴ市長がこの日をオーティス・ラッシュ・デイに認定。マサキ夫人に付き添われオーティスが登場。車椅子に乗ってはいたものの、元気な姿を見せた。ステージではオーティスの往年の曲をジミー・ジョンソン、アブ・ロック、カール・ウェザーズビー、ルリー・ベル菊田俊介、ロニー・アールらシカゴのブルースマンを中心に多数が参加したトリビュート・バンドで演奏。また演奏こそしなかったものの、ステージ袖にもバディ・ガイビリー・ブランチらオールスターが顔を揃えた[12]

ディスコグラフィー

参照文献

外部リンク

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