カリベルト1世

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カリベルト1世
Charibert Ier
パリ王
在位 561年 - 567年

出生 517/20年
フランク王国
死去 567/8年
埋葬 フランク王国トラクトゥス・アルモリカヌス、ブラビア・カステルム
配偶者 インゴベルガ
  メロフレダ
  マルコウェファ
  テウデキルド
子女 ブリチルド
カリベルト
クリソリス
ベルタ
クロタール
家名 メロヴィング家
王朝 メロヴィング朝
父親 クロタール1世
母親 イングンド
宗教 カルケドン派キリスト教(破門される)
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クロタール1世の王国の分割(561年)。ピンク色の領域がカリベルト1世の王国。
テウデキルドに王家の指輪を差し出すカリベルト1世(J・D・ラスクール作、ジャン=アントワーヌ・ローランに倣って)

カリベルト1世フランス語:Caribert Ier, ラテン語Charibertus, 517/20年 - 567/8年)は、メロヴィング朝フランク王国パリ王。クロタール1世とその最初の妻イングンドの次男。兄のグンタールは父の死より前に亡くなった。561年の父の死後、フランク王国の分割統治に加わり、パリを首都とするキルデベルト1世の王国を継承した。

556年、父クロタール1世は反乱を起こした王妃クンジナと末子クラムに対し、息子のカリベルトと末子のグントラムを派遣した。交渉が続く中、クラムはリムーザン地方の黒山に潜伏していた。交渉が決裂すると、両軍は戦闘準備を整えた。しかし、雷雨のために交戦は阻止され、黒山に潜伏していたクラムは偽造の手紙を兄弟(カリベルトとグントラム)に送り、父(クロタール)の死を偽って報告した。カリベルトとグントラムは直ちにブルゴーニュに戻り、自らの地位を確保した。

561年にクロタールが実際に死去すると、フランク王国は新たに息子たちの間で分割された。それぞれの息子はそれぞれ異なる領土を統治したが、その領土は必ずしも地理的につながっているわけではなく、離れた地域を含むこともあった。息子らの王国は、統治していた都市にちなんで名付けられた。カリベルトはネウストリアソンム川ロワール川に挟まれた地域)、アキテーヌ、そしてパリを首都とするノヴェンポプラナを領有した。その他の主要都市はルーアントゥールポワティエリモージュボルドートゥールーズカオールアルビであった。グントラムはブルゴーニュを領有した。シギベルト1世メスを首都とするアウストラシアランスを含む)を領有した。また、末弟のキルペリク1世ソワソンを首都とする小さな王国を領有した[1]

死とその後

カリベルト1世は雄弁で法律にも通じていたが、トゥールのグレゴリウスはカリベルトを初期メロヴィング朝の中でも最も放蕩な人物の一人とみなした。カリベルトには4人の妻がおり、そのうち2人は職人の娘で姉妹であった(メロフレダとマルコウェファ)[注釈 1]。そのため、ゲルマヌスによって破門された[3]。これはメロヴィング朝の王が破門された最初の事例であった[1]。その結果、カリベルトはトラクトゥス・アルモリカヌスTractus Armoricanus)にあった要塞ブラビア・カステルム(Blavia castellum)に不名誉な形で埋葬されることとなった。カリベルトの死後、兄弟たちはその領土を分割し、当初はパリを共同所有することで合意した。4人の王妃のうち生き残ったテウデキルドはグントラムに結婚を申し込んだが、557年にパリで開催された会議では、そのような結婚は近親相姦に当たるとして禁じられていた。グントラムは不本意ながらもテウデキルドをより安全なアルルの修道院に住まわせることにした。カリベルト1世の庶子であるカリベルトには何も与えられなかった。

カリベルト1世の生涯に関する主な資料は、トゥールのグレゴリウスの『フランク人の歴史』(第4巻の3、16、22、26 および第9巻の26)および、イングランド側の資料としてはベーダの『イングランド教会史』がある。

子女

クロタール1世はインゴベルガと結婚し、5子をもうけた。

カリベルトの娘ベルタは、異教徒のケント王エゼルベルトと結婚した。ベルタはサンリス司教リウドハルドを個人的な告解師として連れて行った。ケント宮廷におけるベルタの影響力は、597年にカンタベリー大司教アウグスティヌスが行った宣教活動に大きく貢献し、アングロ・サクソン人初の統治者のキリスト教改宗を促した。

注釈

脚注

参考文献

外部リンク

関連項目

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