カンボジア文学
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クメール語はオーストロアジア語族のモン・クメール語族に属している。カンボジアの公用語であり、2019年時点で話者は約1555万人いる。他の地域の話者は、タイ、ベトナム、ラオスで合計約200万人、フランス、アメリカ、オーストラリア、カナダなどの定住者が合計約23万人となっており、カンボジア国外でも文学活動が行われている[注釈 1][2]。クメール語はカンボジア語とも呼ばれている。カンボジア国内では、公的な表現で「カンボジア」を使い、言語や料理など一般的なものを表現する際には「クメール」がよく使われる[3]。古典作品には、サンスクリット語やパーリ語の語彙も豊富に使われている[4]。
20世紀に入るまで、カンボジアの文芸作品は韻文で書かれていた[5]。クメール文字の正書法は、1915年の辞書編纂委員会の設立から本格化した。僧王のチュオン・ナートを中心として辞書の編纂が進められ、『クメール語辞典』(上巻1938年、下巻1943年)が発行されて正書法が確立していった[注釈 2][7]。
歴史
カンボジア文学の歴史は、古代文学、中世文学、近・現代文学に大きく分かれる[注釈 3][9]。古典文学は口承文学として伝えられてきた歴史があり、文字化されたのは多くが18世紀から19世紀以降となる[4]。古典の一つである叙事詩『リアムケー』の最古のテキストは、17世紀に文字化されたとされる[10]。作者の多くが不明で、名前が分かっている場合も経歴や日付は定かではない[4]。
古代文学

カンボジア碑文と総称されるものは古クメール語、サンスクリット語、パーリ語、モン語などで書かれている。碑文は石板、石柱、側壁などに刻まれており、横書で左上から書かれる[注釈 4][12]。古代文学の碑文は前アンコール時代(2世紀から8世紀)からアンコール時代(9世紀から14世紀)にかけて集中しており、約1150種類が残っている[13]。最も古いヴォカーニュ碑文は3世紀頃にサンスクリット語で書かれ、スレイ・ミアミア王が次代の王に仏教を信じ、困窮した人々に施しをするように説いている[13]。最古のクメール文字の碑文はタケオ州で発見されており、シャカ暦533年(西暦611年)と記されている[14]。古クメール語の碑文は南インド起源のパッラヴァ文字を使っており、5世紀頃からサンスクリット語文に併記されて始まった[15]。
アンコール・ワットを建造した社会についての記録は少ない。当時の記録に使われた貝多羅葉の文献が失われているためである。古クメール語の碑文は1930年代にジョルジュ・セデスが解読し、年代の確定や王家の確認が進んだ[注釈 5][17]。アンコール時代の碑文としては、ジャヤヴァルマン2世時代(802年-834年)の『宣誓書』も文学的な価値が知られている。ジャヤヴァルマン7世(1181年-1218年)の王妃インドラデーヴィーは仏教学者でもあり多数の碑文を残した[注釈 6][13]。
中世文学

14世紀前半から16世紀半ばまでのカンボジアには同時代の史料がなく、14世紀と16世紀の碑文を比較すると社会や経済の大きな変容がうかがえる[18]。中世文学は古代と現代の中間を意味し、15世紀から19世紀に創られた作品を指す[19]。15世紀にアンコール朝が衰退すると政治的に不安定になり、文学も廃れた[20]。19世紀中葉の1847年に即位し[21]、タイの王宮で学んだ詩人でもあったアン・ドゥオン王は、詩人や僧侶を呼んで保護し、文学は再び盛んになった[20]。
中世文学は釈迦の前世の物語ジャータカが中心となっている[13]。その他に、説話類や王家の歴史、法律書、医学、家訓、風水、易学、なぞなぞなどが貝葉に記録された[19]。中世には古代の碑文から貝葉に書き写すことも盛んになった。15世紀から19世紀にかけて碑文から貝葉に写された作品を古典文学とも呼ぶ[19]。古典文学はいずれも仏教思想を表現した内容で、因果応報のテーマを中心としている。登場人物は天界や地獄を超え、人間の他に鬼、神、神仙、魔法の武器などが書かれている。出会いと別れが重要なプロットであり、人間が困難に遭遇しながら神や仙人に助けられて王位についたり王族と結婚する結末で終わる[22]。代表的な古典文学として、『布施太子物語』や『パンニャーサ・ジャータカ』の他に、『ラーマーヤナ』のカンボジア版にあたる『リアムケー』がある[10]。
19世紀からフランスはメコン川を通じて中国市場への進出を計画し、インドシナ半島の植民地化を進めた[23]。フランスは、ベトナムがカンボジアに対する宗主権を有していたことと、その宗主権をフランスが継承したことを根拠として、1863年にフランス保護領カンボジアが成立した[注釈 7][25]。フランス統治期は政治・経済の自治権を失い、他方ではシソワット王の時代に近代化が進められ、印刷の導入、王立図書館の設立、貝葉の研究などが進んだ[19][26][27]。
近・現代文学
20世紀初頭に中等教育機関が設立され、カンボジア人はベトナム人や華人とともにフランス文学や哲学を学んだ[28]。1930年代には仏教研究所の設立やクメール語新聞の発刊が行われて民族意識の高まりに影響した[29]。1930年代末期に近代文学が誕生した。宮廷や神々の世界を韻文で描いた古典文学と異なり、新しいスタイルの文芸作品として庶民の日常を民族語で表現する散文や小説が始まり、印刷の普及で読者層が広がった[30][28]。近代文学の多くはジャータカを題材にして書かれており、作者には、ノパロアット、テイエン、パン、カエゥなどがいる[31]。近代の国民的詩人としてクロム・ゴイがいる[32]。
1953年の独立でカンボジア王国が成立すると、教育や出版が整って文学が活発になった。書店や貸本業者の開店が増え、作品のテーマも増えていき、恋愛物語、女性が都会で自活する成長物語、プロレタリア文学、ポスト・アンコール時代を舞台にした冒険物語、フランス文学の影響を受けた作品が書かれた。翻訳も進み、『三国志演義』、『真夏の夜の夢』、『動物農場』、『ボヴァリー夫人』などが訳された[33]。1960年代にはノロドム・シハヌーク政権の不正や汚職が問題となり、貧富の差が拡大するとともに共産主義に同調する作家も増えた。この時代の作家として、ジャーナリストとしてカンボジアの3大新聞の基礎を築いたソット・ポーリンや、政府を批判して投獄されたクン・スルンらがいる[34]。クン・スルンは人民の味方であることを望み、後にクメール・ルージュの一員となったが粛清された[35]。
1970年からのカンボジア内戦で成立したポル・ポト政権は、急進的な共産主義政策を進め、都市住民を農村に強制移住させ、集団農業と強制労働、知的活動の制限、粛清などを行なって100万人以上が死亡した[36]。文化的文物は破壊され、サンスクリット語やパーリ語を理解する者、外国語を理解する者、持ち物に印刷物や筆記具がある者は、それだけで連行されて生命を危険にさらされた[37]。知識人、学者、芸術家の90%が殺害された[38]。こうしたポル・ポト時代の経験は、のちに文芸作品でも描かれることになった[36]。
ポル・ポト政権は1979年に崩壊し、それ以降の1980年代以降に成立したカンプチア人民共和国はベトナムが支援する社会主義政権だった[39]。出版は内戦以前よりも活発になったが、カンボジア人民党の検閲を通過しなければならず、内容は社会主義リアリズムが中心となった[33]。1993年に王政となったのち、政情の安定化にともなって創作が再開し、21世紀以降はインターネットの普及によってオンラインでの創作が盛んになっている[40]。2017年には、政府に批判的あるいは中立的な新聞やラジオが廃刊や閉鎖された。国内で活動する作家は自己防衛のために自主規制を行うことが多いが、そうした状況下で政権批判と解釈できる作品も発表されている[41]。
作品形式とテーマ
詩
アンコール朝時代から伝わる詩形には5つあり、喜びを表すプッチョンリリア、怒りを表すポムノール、争いを表すポントール・カーク、別れや悲しみを表すプロムクット、語りや導入で使われるカーカテがある[4]。その後の発展で一句が七音節からなる七音歌や同様に八音歌、九音歌などが作られ、吟唱法も詩形ごとに異なっている[42]。詩は生活に浸透しており、小学校では定型詩と吟唱法が国語の時間で教えられている[43]。中学・高校では自作の詩がプレゼントや記念品となり、詩吟クラブは大学で人気がある[42]。
伝統的な歌謡には詩が使われている。掛け合い歌のアヤイは男女一組となり、伴奏に合わせて即興的な詩を掛け合う。詩にはことわざ、民話、社会問題の他にユーモアや猥褻な表現も使われる。チャパイという弾き語り形式の歌謡は、三弦の楽器を伴奏しながら教訓や伝説にもとづく詩を歌い、現代的なテーマや風刺を盛り込んでいく。著名なチャパイの奏者としてコン・ナイがいる[44]。
近代詩人を代表するクロム・ゴイは即興で詩を作り、美しい声で弦楽器サーディアウの弾き語りをしたことで知られており、「心に美しく響くゴイ」という意味のビロム・ゴイという愛称で呼ばれた。ゴイは出家経験があり、役人として働いたが、重税に反対する農民の暴動を目にしてから役所を辞め、還俗の農民として生活を続けた。ゴイの作品は国語教科書に必ず収録されている[45]。
仏教説話

カンボジアの仏教で説法に使う書物に『チャドク集』という7巻がある。261話の仏教説話が収録されており、『三蔵』やインドの説話集からの抜書きと編集によって作られた[46]。よく知られている物語として、『ジャータカ』の最終話にあたる『布施太子(モハーウェーサンドー)物語』や『パンニャーサ・ジャータカ(五〇のジャータカ)』がある[10]。『パンニャーサ・ジャータカ』は15世紀から17世紀にかけてスリランカに留学したカンボジア、ラオス、タイ、ビルマの僧侶が伝えた物語集で、各国で共通する部分と異なる部分がある[19]。『パンニャーサ・ジャータカ』はパーリ語で書かれており、インドやスリランカには存在しない[47]。
教訓集
古典のジャンルには、チバップと呼ばれる仏教の道徳集がある[48]。女性についての古典文芸にはチバップ・スライという教訓集にあたるものがある。19世紀初頭にムン・マイが記したチバップ・スライは、ナーガの国の娘が人間と結婚する際に、母親が良妻としての教えを伝えるという構成になっている。アン・ドゥオン王が記したチバップ・スライ(1837年)には、良き女性の条件として謙虚、財産を守ることができる、勤勉、親類づきあいや料理が上手、夫に忠実、などが挙げられている。他方で悪女には100の条件を挙げている[48]。『チバップ・スライ』に描かれるスライ・クロップ・レアックという理想の女性像は、家庭内での良妻賢母的な役割を期待されている。そのため家庭の外で仕事をもつ女性に対しては批判的な意見が出る場合がある[49]。
民話
カンボジアの民話に登場する動物は野生のものが多く、体の小さな生き物が大きな生き物に勝ったり、遅い生き物が素早い生き物に勝ったりする。人間が主人公になる民話では、社会的に弱い者が知恵で目上の者に勝つ話が多い。難題を解決して結婚する話や、少年が長者や王様を負かす話、女性が夫や泥棒を負かす話などがある[50]。民話の内容には、古代インドの説話集パンチャタントラや、仏教説話のジャータカの影響も見られる[51]。
カンボジアの民話は20世紀に採集と編纂が始まり、フランスのエブリーヌ・ポレ・マスペロ(Eveline Poree-Maspero)がカンボジアの研究者とともに設立したクメール風俗習慣委員会がおこなった。民話の研究は仏教研究所が引き継ぎ、248話を集めた『クメール民話集』(1959年-1971年)が発行された。この民話集はテーマ別にまとめた全9巻の構成で、1巻と2巻は動物や人間を通してカンボジアの社会や文化を描いた話、3巻は複数の登場人物が競い合って勝敗を決める話、4巻は起源の物語、5巻と6巻は歴史や地理についての話、7巻は動物と植物についての話、8巻は全国の土地神についての話、9巻はさまざまな習慣についての話となっている[52]。
散文、小説
古典文学は韻文で書かれ、宮廷や神々の世界を舞台とした冒険が中心だったが、20世紀以降に始まった小説は現実に暮らす人々の日常を描いた[28]。教科書で最もカンボジアらしい特徴がある作品とされているのは、サオムが七言歌で書いた『トム・ティアウ物語』(1915年)で、美声で読経をする男性と村娘の悲恋物語である[42]。カンボジア初の物語小説であるルム・クンの『ソパート』(1938年)は、未婚の母のもとで育った少年ソパートが、母を亡くしたあとで実父を探してプノンペンで暮らし、困難を乗り越えてゆく物語である[28]。国民文学とされているヌー・ハーイの近代小説『萎れた花』(1947年)は、かなわない恋に身をやつす女性が、アンコール遺跡を訪れて束の間の安らぎを見出す[42]。
ポル・ポト時代の苦難の経験はカンボジア内外で文芸作品となった。カンボジアで書かれた作品としては、パル・ヴァンナリーレアク『闇は去った』(1989年)、オム・ソンバット『地獄の一三六六日』(1999年)や、医師のミー・サムディによる『生き延びて他者の生に尽くす』(2000年)などがある[53][54]。ソンバットの作品は、貧困層の出身で国内在住者であり著名人や職業作家ではない著者がポル・ポト時代を描いた初の作品となった[53]。ポル・ポト政権崩壊後は、カンボジア人民党が公認した宣伝活動の小説が発行される一方で、党の方針に沿わないエンターテイメント小説を手書きの貸本で流通させるビジネスが行われた。貸本の小説は読者の人気を呼び、中でも「うさぎ」という作家は6年間で120作を発表した。のちに作家のマウ・ソムナーンが、『うさぎとは誰なのか』(2019年)という本で自身が「うさぎ」であることを明かし、国内でベストセラーとなった[55]。
21世紀以降は、それまで少なかった推理小説、フランス植民地時代を舞台にしたゴシック小説、サイエンス・フィクション、ホラー、ファンタジー、学園小説、ボーイズラブ、ガールズラブなども読まれている[40][42]。伝統的な規範によって女性が抑圧される状況に対して、作家のソー・ピナは自分の選んだ道を生きる女性を書き、出版社カンプ・メラを設立するなどジェンダー平等の活動を行っている[38]。
演劇
カンボジアの伝統演劇は、音楽・歌・舞踊が一体化しており語り手によって口承されていた。西欧の影響を受けた現代演劇は、個々の俳優のセリフによって社会がもたらす苦悩や人生を表現した。現代演劇の創始者ハン・トゥンハックはパリで演劇を学んだのちに抗仏独立運動に参加し、独立を訴える戯曲をラジオで放送した。ハン・トゥンハックの作品は家族と愛情のあり方を中心テーマにしており、価値観が違う兄弟姉妹を仲直りさせようとする『親のいない巣』、飲酒癖の夫と信心深い妻の不和に他人が巻き込まれる『曙光の下で』などがある[注釈 8][57]。カンボジア独立後はパウ・ユーレンやオム・チューンらが国立劇団を設立し、資本主義社会の腐敗を描いたパウ・ユーレンの『泥棒社長』などが上演された。現代演劇は1950年代から1960年代に最盛期を迎え、ニュオン・カンは内戦で失われた作品をもとに『アンコールの乙女プランサイラー』(1997年)を発表した。この戯曲では、魂の平安を求めてアンコール境内の森に去る父親を追った娘が、社会問題を体現する人々に出会う[注釈 9][59]。
図書、出版
古代文学の作品は、銅版、石材、宝石、水牛などの皮、竹簡、貝多羅葉に記録された。皮や貝多羅葉に記録されたものは長期間の保存に適さない点や、戦火によって大半が失われた[9]。貝多羅葉は、椰子の葉を加工して長方形にして文字を刻み、何枚も重ねて書物にしたもので、約100年間は保存できるが大量生産は困難だった。文字は神聖なものとして扱われ、貝多羅葉の知識は上座部仏教の僧侶が保持し、一般人への普及はなかった[注釈 10][61]。貝葉は、フランス統治期に収集と保存をされたが、全体は解明されていない[19]。
当初の印刷物はフランス語、中国語、ベトナム語が中心だった[62]。クメール語の活字が初めて制作されたのは1887年のパリで、その後フランス領インドシナに持ち込まれた。植民地行政、研究、キリスト教の布教用に印刷物が使われた[28]。フランス統治期に印刷が普及したが、仏教寺院では貝多羅葉の作品を紙に印刷することに反対した。しかし、印刷の普及によって仏教説話は民衆に広く伝わった[19]。20世紀初頭にはカンボジア各地に印刷所が設立されて文学が広まった[28]。同時期のカンボジアでは仏教の変革運動が起き、それまでパーリ語で読んできた経典をクメール語に翻訳し、仏教の教理を一般に理解しやすくする活動が進んだ。こうした状況下で1921年には国王の布告でクメール図書館が設立され、1925年にはカンボジア王立図書館に改組された[63]。1924年にはフランス保護領インドシナ政府がプノンペン中央図書館を設立し、フランス語書籍が大半を占めた[64]。カンボジア王立図書館は1926年に初のクメール語雑誌『カンプチア・ソリヤ(Kambuja Suriya)』を発行し、同誌は仏教教理の他に宗教、歴史、文学、言語などをテーマとした[63]。カンボジアの初期の散文小説であるキーム・ハック『トンレサープの水』も同誌に掲載された[注釈 11][66]。1936年にはクメール語の新聞『ナガラワッタ(Nagaravatta)』が創刊され、民族意識をうながす評論が掲載された[62]。

1954年のフランスからの独立により、出版業は拡大し読者も増加した。1956年には、12名の作家や文学研究者がクメール作家協会を発足し、創作の奨励や擁護を目的として活動した。文学賞が作られ、文学についてのラジオ番組が放送された[67]。プノンペン中央図書館は独立後にカンボジア国立図書館となった[68]。1960年代から1970年代前半にかけては書店や貸本屋で新刊小説の他にクメール語訳の中国剣劇小説なども読まれた[69]。
カンボジア内戦において、クメール・ルージュは図書館員のほとんどを殺害し、国立図書館では数万部の蔵書が焼却された[70]。国立図書館は倉庫として利用され、保存状況が悪化した。仏教研究所では建物が破壊されて貴重な文献や図書が散逸した。のちに写本の修復や保存はコーネル大学、図書館の技術化ではフランスやオーストラリア政府が協力をした[68]。内戦前に盛んだった貸本がポル・ポト政権崩壊後に再開され、学生のアルバイトが手書きで写して大量生産した本をレンタルした。これらの本は、当局に見つかれば押収や作家が処分されるリスクがあった[69]。
内戦終結後の1993年以降に出版が再開され、クメール作家協会が復活し、1999年からは東南アジア文学賞への参加も始まった[40]。創刊された新聞や雑誌の投稿欄が、文芸創作の舞台となった。2010年代に入るとインターネットでの作品発表が中心となり、発表や作家になることが容易になった[43]。カンボジアの公立図書館は一般市民の利用を想定しておらず、学習や研究のために使われている。2013年にスマートフォンが普及すると環境は変化し、クメール語の電子図書館が相次いで設立され、1960年代や1970年代の書籍がオンラインで読めるようになった[71]。カンボジアではFacebookの利用が盛んで、若い世代の作家は印刷費用を確保するとfacebookで作品名のアカウントを作る。そしてあらすじやキャッチコピー、登場人物紹介などを投稿して読者との交流スペースを作り、支援者を得ると複数で運営する出版社となる。本でつながった人々は書店で「オフ会」を開催する[72]。書店では出版記念イベント、サイン会、ファンミーティング、読書会などが開催されている[73]。
代表的な文学イベントとしては、カンボジア・ブックフェア、読書の日、クメール文学フェスティバルがある[38]。カンボジア政府は、国語辞典編纂の創始者にあたるチュオン・ナートの誕生日3月11日を読書の日に制定している[42]。読書の日には小学校や中等学校で詩の暗唱大会や作文コンクールが行われ、主要都市ではブックフェアが開催される[43]。
主な著作家
以下の一覧は、岡田編訳 (2001)、上田 (2023)、岡田 (2023)、調 (2023)、岡田, 調編訳 (2023)を主に参照して作成。
- インドラデーヴィー
- アン・ドゥオン(1796年-1860年)
- クロム・ゴイ(1865年–1936年、詩人)
- チュオン・ナート(1883年–1969年)
- ニョック・タエム(1903年–1974年、小説家、編集者) - 『パイリンのバラ』(1936年又は1943年)
- ルム・クン(1911年–1959年、小説家) - 『ソパート』(1938年)
- ヌー・ハーイ(1916年-1975年、詩人、小説家) - 『萎れた花』(1947年)
- ハン・トゥンハック(1926年-1975年、劇作家) - 『親のいない巣』、『曙光の下で』
- ニュオン・カン(1937年-) - 『アンコールの乙女プランサイラー』(1997年)
- ソット・ポーリン(1943年-、小説家、ジャーナリスト) - 『おぼしめしのままに』(1969年)
- クン・スルン(1945年-1978年、小説家、詩人)
- オム・ソンバット(1951年-、小説家) - 『地獄の一三六六日』(1999年)
- パル・ヴァンナリーレアク(1954年-、詩人、小説家) - 『闇は去った』(1989年)
- マウ・ソムナーン(1959年-、小説家)
- マイ・ソン・ソティアリー(1977年-、小説家)
- ソー・ピナ(1979年-、詩人、小説家、編集者) - 『ボパナ』(2019年)
- ソック・チャンポル(1984年-、作家、脚本家) - 『14日間の恋人』(2018年)