南アフリカ文学
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南アフリカ文学(みなみアフリカぶんがく)とは、南アフリカの作家による文芸作品およびその研究を指す。南アフリカの諸民族には口承文芸の伝統があり、ヨーロッパの侵略と植民地化をへて散文が書かれるようになった。アパルトヘイトによる人種隔離政策が行われてからは、差別に抵抗するために文学と政治が緊密に結びつくことになった。表現の自由が規制され、多数の作家が亡命した。アパルトヘイトの廃止以降は、新しいテーマを手がける作家が登場している。
創作に使われる主な言語として、英語、アフリカーンス語、バントゥー諸語のソト語、ズールー語、コーサ語、ツワナ語、そしてコイサン諸語などがある。南アフリカ共和国のほか、歴史上存在したケープ植民地、南アフリカ連邦、バントゥースタンなどの地域についても言及する。
南アフリカは多言語社会であり、人口の8割にあたるアフリカ系はズールー語、コーサ語、北ソト語、南ソト語、ツワナ語などのバントゥー諸語を母語にしながら、英語やアフリカーンス語の話者である場合が多い[1]。特に都市部の住民は2〜3種類の言語を話すことが多い[2]。アパルトヘイト時代の公用語はアフリカーンス語と英語で、ネルソン・マンデラ政権の成立後は9つのアフリカ諸語であるペディ語、ソト語、ツワナ語、スワティ語、ベンダ語、ツォンガ語、ンデベレ語、コーサ語、ズールー語が公用語に追加された[3]。
地理は南部アフリカに属しており、諸民族には、狩猟採集を中心とするサン人やコイコイ人、農耕や牧畜を中心とするバントゥー系民族がいる[4]。南部アフリカの諸民族の言語は文字を持たず、口承文芸の伝統があった。そのため最初の文字や綴りは、ヨーロッパの宣教師が布教のための聖書や辞書を作成した時にアルファベットで表記された。植民地化が進むにつれて、支配者の言語である英語が普及し、口承文芸などの民族文化も英語で記述されるようになった[5]。民族語の辞書は19世紀前半、教科書は19世紀後半から作られて正書法が定められた(後述)。
南アフリカの白人は主に3つのグループに分かれる。最初が17世紀から18世紀にかけて入植したオランダ人でアフリカーナーとも呼ばれる。次は19世紀から入植したイギリス人、そして19世紀末から20世紀初頭にかけてロシアや東欧の迫害を逃れて来たユダヤ系移民がいる[6]。オランダ系のケープ・オランダ語はアフリカーンス語と呼ばれ、イギリスの英語と共に公用語になった経緯がある[7]。アパルトヘイト時代の人口登録法によって、全ての南アフリカ人は、白人、黒人、カラードの3つの人種に定義された。カラードとは白人入植前から住んでいたコイコイ人とサン人や、異人種間で誕生した人々を指し、西ケープ州と北ケープ州に多い。人口登録法は1991年に廃止されたが、社会や経済の格差が残っている[8]。
歴史

南部アフリカの先住民族であるサン人やコイコイ人の口承文芸には、日常の知恵をもとにした物語や諺、自分たちの由来についての神話などがあった[注釈 1][10]。サン人やコイコイ人はコイサンとも総称され、コイサンの後に来たバントゥー系民族も口承文芸を持っている。南部アフリカの口承文芸は、ヨーロッパの言語学者や宣教師によって19世紀以降に記録されたが、それらは語り伝えられ保存されてきた内容の一部にあたる[11]。
17世紀にオランダ、19世紀にイギリスが入植を進め、白人の言語はアフリカーンス語と英語が中心となった[注釈 2][7]。1820年にケープ植民地を訪れたイギリスの詩人トマス・プリングルは、南アフリカにおける英語文芸と言論の自由に影響を与えた。プリングルは奴隷や先住民族の状況を憂慮し、サン人たちの暮らしを詩に謳った[12]。19世紀後半からは主に農場を舞台として白人による創作が進んだ(後述)。
金やダイヤモンドの鉱脈が発見されてゴールドラッシュが起きると、イギリス系の白人が急増した[6]。1910年にイギリス連邦の自治領として南アフリカ連邦が成立し、第1次世界大戦前後には鉱物資源を背景として工業化が進む。イギリス人とボーア人の対立は激化し、他方で黒人と白人の差別を制度化する法律が施行され、黒人の立場は悪化していった[注釈 3][13]。この時期には黒人が主に英語で創作を行うようになり、黒人作家による差別の告発も始まった。南アフリカの黒人文学の創始者としては、ソル・プラーキ、R・R・R・ドローモ、リリス・カカザ(Lillith Kakaza)らがいる[14][15]。ゴールドラッシュ以降の工業化によって、鉱山や都市部の作家はリアリズム文芸やプロレタリア文芸の作品を書くようになった(後述)。モザンビークやローデシアなど周辺国の労働者が出稼ぎで来るようになり、その人々による創作も行われた[注釈 4][16]。
アパルトヘイト時代

アパルトヘイトとは、アフリカーンス語で「隔離」を意味する。アパルトヘイトの原型は、国民党が政権党となった1924年に構想され、1948年に純正国民党が政権党となった時に正式な用語となった[注釈 5]。1948年の総選挙ではアパルトヘイトをスローガンに掲げた国民党がアフリカーナーを中心とする白人の支持を得て、アパルトヘイト政権が成立した[17]。社会進化論の誤った援用や優生学は、人種差別を正当化するアパルトヘイト政策の成立に影響を与えた。こうした疑似科学に基づいて創作をする作家も現れた[注釈 6][19]。他方で1950年代は不服従キャンペーン(1952年)や全人種合同会議による自由憲章の採択(1955年)が行われ、反アパルトヘイト運動が盛り上がり、黒人向けの雑誌「ドラム」で若手作家が発表をした[20]。
アフリカでは1957年のガーナ独立をはじめとして植民地からの独立が増えて、1960年代に世界各国で人種差別の撤廃が進んだ。しかし南アフリカでは白人による支配が続き、1961年にイギリス連邦からの離脱によって南アフリカ共和国が建国され、政権は300以上のアパルトヘイト法案を制定した[17]。中でも出版娯楽法は、政府による検閲法であり、文芸活動が抑圧された(後述)[21]。1960年代には表現への抑圧が強化され、作家の亡命が相次いだ[22]。検閲によって、黒人社会と白人社会の意見は相互に届きにくくなった。さらには黒人社会内部でも意見が届きにくくなり、文化の相互影響だけでなく文化活動そのものが阻害された。黒人の作家の登場が困難になり、白人は黒人社会の問題を知る機会を失った[注釈 7][24]。黒人作家にとって、植民地支配や差別は自らの経験として執筆できた。しかし白人作家の多くは、南アフリカの大多数を占める黒人の現実を知ることができなかった[注釈 8][25]。
1970年代にはスティーヴ・ビコが主導した黒人意識運動が起き、特に1976年のソウェト蜂起以降に若い作家の活動が活発となった[注釈 9][22]。1980年代には労働組合運動が盛んになり、人種合同を提唱する南アフリカ労働者組合連合(FOSATU)の活動はアパルトヘイト廃止に影響を与えた。こうした運動の集会では口承詩の伝統が復活し、詩人たちの表現の舞台となった[27]。
アパルトヘイト時代の作家は3つに分類される場合もある。亡命した作家、自殺した作家、国内に留まった作家である。亡命した作家には、エスキア・ムパシェーレ、マジシ・クネーネ、デニス・ブルータス、ルイス・ンコシ、ベッシー・ヘッドらがいる[28]。自殺した作家には、ナット・ナカサ、イングリット・ヨンカー、アーサー・ノーキ、カン・テンバ、トッド・マチキザらがいる[29][30][28]。国内に留まった作家には、ジャブロ・ンデベレ、ジェームズ・マシューズ、リチャード・リーブらがいる[28]。亡命した作家の中には、アパルトヘイトの終焉を見ずに死去したアレックス・ラ・グーマらもいる。ラ・グーマはアフリカ民族会議(ANC)のキューバ駐在代表としてハバナで亡くなった[31]。
アパルトヘイト後
アパルトヘイト後は、新たな文芸の模索が始まった。アパルトヘイト基本3法の廃止後の1991年12月には、ウィットウォーターズランド大学を中心にアフリカ文学会議が開催された。この会議の目的は、国際的な孤立から脱却し、アフリカ大陸との連携を強め、南アフリカ(文学)を再構築することだった[32]。新しい活動を主導した人物として、南アフリカ作家会議(COSAW)の議長ジャブロ・ンデベレ、南アフリカ最大の週刊誌「ニューネイション」編集長のズウェラケ・シスル、文芸誌「スタッフライダー」編集長のA・W・オリファント、スコッタヴィル出版社のモトビ・ムツワティらがいる[33]。亡命していた作家らが帰国し、教育機関や議会で新しい国作りに参加した[注釈 10][35]。
アパルトヘイト廃止後の政府は、真実和解委員会(TRC)を設立して人権侵害の究明を進め、ポストアパルトヘイトの文学にも影響を与えた。歴史の問い直しをテーマとした作品として、ゼイクス・ムダ『エクセルシアのマドンナ』(2002年)、ンデベレ『ウィニー・マンデラの叫び』(2004年)などが書かれた。ポストアパルトヘイト社会の問題を描く作品には、アンキー・クロッホ『カントリー・オブ・マイ・スカル』、ジェーン・テイラー『ユビュと真実和解委員会』(1997年)、シンディウェ・マゴナ『母から母へ』(1998年)などがある[36]。
作品の形式
詩
バントゥー系民族にはボンガ(bonga)という口承詩の伝統がある。ボンガとは「褒めたたえる」の意味であり、ボンガを行う詩人をインボンギ(inbongi)と呼び、その口承詩をイジボンゴと呼ぶ[10]。インボンギは固定した家系ではなく、才能があれば誰でもインボンギになることができる[注釈 11]。コーサ人のA・C・ジョーダンによれば、コーサの子供は小さい頃から「ボンガする」といい、自然や自分自身などを対象にボンガを行って表現を身につけてゆく[38]。ボンガはバントゥー系民族において最も権力に近い文芸形式であり、詩人は王にまつわるエピソードを選んで王を称える。たとえばズールー人にはシャカ・ズールーの勇猛ぶりを称えるイジボンゴがある[10]。
南部アフリカの口承文芸は、聴衆の前で詩人が演じて民衆の反応を促すように進められる。このため共同体全体に関わる公共性がある。詩人の活動の自由は、この公共性に支えられており、インボンギである詩人が民衆の声を代弁して権力者を批判する場合もある。イギリス人のハリー・スミスが記録したムジリカジ王の宮廷では、イギリス軍と協力するムジリカジを非難するインボンギがいたという[39]。また、テンブ人のインボンギだったムブツマは、白人の支援を受けて大首長となったマタンジマを批判し、他方でイギリスに反抗しない大首長のサパタには反省を迫った[40]。他方でサン人やコイコイ人の口承文芸では、権力はテーマにならなかったといわれる[10]。

1960年代に出版物の検閲が厳しくなると、あからさまな表現でアパルトヘイトを告発する作品は発禁が相次いだ。そのため、1970年代には直接的な小説よりも詩の創作が盛んになった[41]。代表的な現代詩人の一人とされるデニス・ブルータスは、反アパルトヘイト運動に参加して南アフリカのオリンピック出場を不可能にした[42]。作品としては、監獄の中で手紙の形で書いた連作詩集の『Letter to Marhta』(1968年)が最も評価されている[43]。
オズワルド・M・ムチャーリは『牛皮のドラムのひびき』(1971年)で伝統文化を都市部の黒人に伝え、アイデンティティと誇りを取り戻すことを呼びかけた。ムチャーリの作品は若者に読まれ、黒人意識運動を象徴する作品となった[41]。マジシ・クネーネはナタール大学でズールー人について学び、イギリスでズールー詩の研究を続けた。ズールー語で詩や戯曲を執筆し、自ら英語に翻訳して発表した[44]。中でもシャカをテーマにした『偉大なる帝王シャカ』(1979年)は1万7千行の叙事詩で、アフリカ文学の古典の1つと評価されている[45]。1980年代の政治集会では口承詩の伝統を組むパフォーマンスが増え、アルフレッド・テンバ・カブラやムズワケ・ムブーリは労働者や民衆を称えた。カブラは人種合同の労働組合での体験もうたった[46]。
民話、口承物語

サン人が口承で伝えてきた物語は、ドイツの言語学者ヴィルヘルム・ブリァクが採集して記録し、貴重な記録となった[47]。コイコイ人とサン人の物語には共通点があり、東部や南部のアフリカ民話における代表的なトリックスターであるウサギが登場する[48]。コーサ人の口承の物語には、サン人との交流を伝えるものがある[49]。
エレン・クズワヨは教師、ソーシャルワーカー、消費者運動の活動家などの経歴を通して人々の生活を見聞きしてきた。そして子供の頃に聞いた物語や、自らの体験、人々から聞いた実話を集めた『さあ、すわってお聞きなさい』を発表した。様々な逸話を通して、暴力や不正義への闘い、伝統と新しい生活の間の苦悩、伝統への敬意などが語られている[50]。チナ・ムショーペは詩人、俳優、ストーリーテラーであり、民話を語り伝える語り部としても活動している[51]。
小説
最初の小説はアフリカーナーによって英語で書かれた。オリーブ・シュライナーは、カルーと呼ばれる乾燥地帯を舞台とした『アフリカ農場物語』(1883年)を書いた。農場に暮らす主人公は外の世界に憧れを抱き、カルーから離脱しようとする[52]。本作はロンドンで出版されたが、その後の南部アフリカの農場小説の伝統に影響を与えた[53]。民族語で書いた最初期の小説家としては、コーサ語の作品を1913年に発表したリリス・カカザが知られている[15]。1930年には黒人による初の英語小説としてソル・プラーキのムーディとR・R・R・ドローモの『あるアフリカ人の悲劇』が出版された[54]。
ポーリン・スミスは、リトル・カルーでの体験をもとに短編集『リトル・カルー』(1925年)を発表した。カルーの過酷な土地に根づいて暮らそうとするアフリカーナーが描かれており、シュライナーの作品とは対照的になっている[52]。サラ・ガートルード・ミリンは、当時の誤った遺伝学や社会進化論に基づいて白人が優勢で黒人を劣ったものとするテーマで執筆し、アパルトヘイト政策と並行するように多数の作品を発表した[19]。

1950年代には、都市部の非白人の生活を描いた自伝的な小説が多く発表された。このテーマの作品として、ピーター・エイブラハムズの『自由を語れ』(1954年)、エスキア・ムパシェーレの『2番街にて』(1959年)がある。反アパルトヘイトの小説は1960年代に書き始められ、差別の状況を描いて実態を告発することに重点が置かれ、長編よりも多くの短編によって様々な状況を伝えた。代表的な作品として、アレックス・ラ・グーマの『夜の彷徨』(1962年)がある[55]。
南アフリカ出身でボツワナのセロウェで没したベッシー・ヘッドは、アパルトヘイトの犠牲者ともいわれる生涯を送った。白人の母親と黒人の父親の間に生まれたカラードであり、背徳法によって両親の関係は法的に認められず、母親は家名を汚したとして精神病院に入れられた。ヘッドは教師やジャーナリストとして働いたのちにボツワナに亡命し、執筆活動で孤独な精神を支えた[56]。初期の3部作である『雨雲が集まるとき』(1968年)、『マル』(1971年)、『力の問題』(1974年)は自伝的な内容で、異常な状況下でごく普通の生き方を求める人間を描いた[57]。
ノーベル文学賞を受賞した南アフリカ出身の小説家として、ナディン・ゴーディマとJ・M・クッツェーがいる[58]。ゴーディマの作品はアフリカ人に対する白人の潜在的な恐怖を中心としており、アパルトヘイトが全ての人々の心理と生活に影響を与える様を描いた[59]。クッツェーの文学賞受賞理由には、西欧文明の残虐な合理性と見せかけのモラリティへの容赦ない批判とある[60]。クッツェーの『恥辱』(1999年)は、アパルトヘイト後の激動期にセクシャルハラスメントで訴えられた大学教授の転落という物語を取りつつ、さまざまな問題提起を含んでいる。中でも黒人による白人への性暴力や、女性に負わされた歴史的責任などが議論を呼び、政権や人権委員会からは批判され、作家自身が証言することにもなった[61]。ゴーディマは白人の立場からアパルトヘイトを告発する作品の発表を続け、幾度かノーベル賞の有力候補となったが、アパルトヘイトが続くかぎり受賞を辞退すると発言してきた。しかし1991年に受賞のニュースを聞いた際は、「南アフリカの作家として私に向けられた注目を南アフリカの作家、とりわけ黒人作家の活動推進に役立てたい」と述べた[62]。他方でクッツェーは集団行動ではなく個人として対峙する姿勢を貫いており、文学を闘争のための武器と考える側からの批判を受けることもあった[58]。
アパルトヘイト後の新しい潮流を作った小説に、ゾーイ・ウィカムの『光のなかで戯れる』(2006年)がある。ケープタウンで白人として育った女性が、両親が法律的にはカラードだったという過去を知り、家族の悲劇を乗り越えようとする[50]。
ノンフィクション

白人による土地収奪をアフリカの側から描いた初期の作品としてソル・プラーキの記録がある。プラーキは南アフリカ先住民民族会議(SANNC)の代表としてイギリスに滞在した際、『南アフリカにおけるアフリカ人の暮らし』(1916年)をロンドンで発行し、白人農場で労働力とされる黒人を悲劇的に描き、原住民土地法(通称土地法)を告発した[63]。ローレンス・ヴァン・デル・ポストは高校卒業後に新聞記者として働いたのち、サン人の暮らしを記録した『カラハリの失われた世界』(1958年)によって世界的に知られるようになった[注釈 12][65]。ナット・ナカサは著述活動や文芸誌の編集の他にジャーナリストとしても活動した[66]。ルイス・ンコシは「ドラム」や「ゴールデン・シティ・ポスト」などの雑誌や新聞でルポライターとして活動した。ロンドンに亡命後は「ニュー・アフリカン」の文化欄など著述活動を続け、評論をまとめた著書として『故郷と亡命』(1964年)がある[67]。
他方でジャーナリズムは検閲対象になり、アフリカ人居住区の貧困や飢餓を取材するジャーナリストはバントゥー行政法によって抑圧を受けた[24]。雑誌「ドラム」の編集長ヘンリー・クマロは身の危険が及ぶ取材を行い、ミスター・ドラムの筆名で記事を書いた。クマロは自らの逮捕や投獄の経験も記事にしたが、殺害された[68]。ジャーナリストのドナルド・ウッズは、スティーヴ・ビコとの交流を回想した『ビコ』(1978年)や『Asking for Trouble』(1981年)を発表し、『遠い夜明け』(1987年)として映画化された[69]。
戯曲

初期の戯曲はヨーロッパからの作品だった。ソル・プラーキは、ウィリアム・シェイクスピアの『間違いの喜劇』や『ヴェニスの商人』など5作品をツワナ語に翻訳した。これはシェイクスピア作品のテーマを普遍的なものとして解釈し、植民地支配の矛盾を暴く道具として用いる意図もあった[注釈 13][71]。南アフリカの最初の演劇人とも呼ばれるスティーヴン・ブラックは、1909年頃から様々な観客に向けてマルチ・レイシャルな演出をして人気を呼んだ。1920年代には娯楽中心の劇団としてラッキー・スターズが活動し、1932年にバントゥー人演劇協会が設立された。同会は黒人劇作家の活動支援を目的としたが、実情はイギリス演劇連盟の保護下にあった。黒人作家の最初の英語劇はR・R・R・ドローモの『身代わりに死んだ娘』(1936年)だった[72]。
1930年代から1940年代にかけてアマチュア演劇協会連合、ヨハネスブルク・アフリカーナー・アマチュア劇団、南アフリカ演劇協会などが設立され、黒人・白人ともに演劇が普及した。1950年代の戯曲は主に都市部の黒人に向けて書かれ、政治参加を呼びかけた。アパルトヘイト政権の成立後はエスキア・ムパシェーレやK・ムンゴマらが学校演劇祭を指導し、アフリカ人芸術家連合を設立した。1953年に設立された南アフリカ芸術家組合の作家はミュージカルを多数上演し、黒人居住区の実態を描いた。1960年代には政治的な表現が進み、リハーサル・ルームと呼ばれる小劇場が設立された。アソル・フガードはソフィアタウンの黒人の暮らしを題材として、他の劇作家に影響を与え、その後の反体制の演劇の基盤となった。フガードの『血の絆』(1961年)は白い肌の兄と黒い肌の弟の愛憎や葛藤を描き、リハーサル・ルームで上演された。1970年代の黒人意識運動以降は表現が先鋭化し、最も戦闘的だった人民実験劇場は、のちにソウェト蜂起のグループと合流した[73]。
1976年にはマーケット劇団が設立され、弾圧を受けながらタウンシップの各地や教会や葬式などで上演を行った。マーケット劇団は国外公演も行い、チナ・ムショーペはエディンバラ国際演劇祭でフリンジファースト賞を受賞した[51]。その他にも民衆の決起を呼びかける『甦れ、アルバート』や、スティーヴ・ビコをモデルにした詩人の投獄と獄死を描いた『ギャングたち』を上演して人気を呼んだ[73]。反アパルトヘイトをテーマにしたミュージカル『サラフィナ!』は世界各国で講演された[74]。ムショーペはマーケット劇団から独立後にザネンダバという劇団を設立し、コミュニティや学校で公演をして若い世代の関心を呼んだ。ザネンダバとはズールー語で「私にお話を持ってきて」を意味する[75]。
アフリカ最大の演劇祭でもあるナショナル・アート・フェスティバルは1974年に始まり、毎年マカンダで開催されている。参加者は10万人におよび、ローズ大学を中心として町中で表現が行われる[76]。
作品のテーマ
ジェンダー
南アフリカの伝統的社会は男性中心となっているが、伝統的な口承詩のイジボンゴは女性も作る。男性のイジボンゴが王や支配者の前で朗誦されることがあるのに対して、女性のイジボンゴは日常生活をもとにしている[77]。オリーブ・シュライナーはヴィクトリア朝の規範(ヴィクトリアニズム)に反発し、人種と性の平等を提唱した。このためフェミニストの先駆者としても知られている[注釈 14][79]。
アパルトヘイト下のアフリカ系女性は3重の差別を受けた。黒人であることから受ける人種差別、資本家から搾取される階級差別、女性であることから受ける性差別である[注釈 15][81]。作家活動でも障害があり、女性は出版契約ができなかったため、多くの女性作家はイギリスの出版社から作品を出していた[注釈 16][83]。こうした状況下で後進の女性作家に影響を与えたのはミリアム・トラーディで、労働者の視点から差別を受ける女性について描き、作品内容や出版で妥協しない姿勢を貫いた[84]。トラーディの『二つの世界のはざま』(1975年)は、白人経営の小売店で働く女性が、黒人に高いローンで家具や電気製品を売りつける仕事に疑問を抱き、辞表を書くという物語だった[85]。グラディス・トーマスは短編『パラダイス・ロード、さようなら』で白人家庭で家事労働をする女性の苦難を描いた[80]。ベルナデッタ・モサラ(Bernadette Mosala)の『女ともだち』は、黒人排斥運動が起きた大学で、白人と黒人の学生の間に友情が芽生える。しかし白人学生は、リベラルな白人も体制の維持に寄与していることに気づき、夫に寄り添って家庭を守るという女性の役割にも疑問を抱く[86]。
南アフリカで女性の経験が文芸として表現されることが増えたのは、1980年代に入ってからだった。女性作家は、アパルトヘイトで抑圧された家族、共同体について描いた。生活体験をもとにした苦悩の描写は、それまでのエリート知識人の男性作家が書いた民衆からの疎外感や苦悩とは異なり、またヨーロッパの文学的伝統とも関係がなかった。こうした女性作家の作品は、読者の共感を呼び連帯感をもたらした[注釈 17][88]。
南アフリカの性的マイノリティをテーマとしたアンソロジーとしては、『They Called Me Queer』(2019年)がある。LGBTQIA+を自認する作家による詩、小説、エッセイが収録されており、内容は人種、階級、アイデンティティ、カミングアウト、家父長制など多岐に渡る[89]。
鉱山、都市
黒人によるリアリズム文芸は、鉱山が舞台の作品から始まった。ドローモの小説『ジャワワ』(1930年)は、金鉱山の白人と黒人の関係を描き、黒人を虐待する白人現場監督が坑内で死を遂げる。ピーター・エイブラハムズはイギリス滞在中に『鉱夫』(1946年)を書き、金鉱山の黒人の状況を国際社会に訴えた[90]。オズワルド・ムチャーリの詩『グレンコー駅のアマゴドゥカ』は、鉱夫(アマゴドゥカ)たちが黒人専用の待合室で食事する様子を描き、劣悪な環境でも楽しみを忘れない人々のたくましさを謳った[91]。
第2次世界大戦後には、都市部の黒人による作品が書かれるようになった。南アフリカ文学の特徴である抗議文学は、都市部の差別を生き延びるために誕生した。こうした作品はプロテスト文芸としても位置づけられる[92]。反アパルトヘイト文学であり南アフリカ最初のプロレタリア文芸とも評価されているアレックス・ラ・グーマの『夜の彷徨』(1962年)は、差別の極致においてヒューマニズムや倫理が介在しない様子を芸術的に表現した。白人に口答えしただけで解雇されたカラードの青年が、夜のケープタウンをさまよい、衝動的に白人の老人を殺害する。青年は別の黒人に罪をなすりつけ、その黒人を射殺した白人警官は、パトカーに死体を乗せたまま妻と長電話をする[93][94]。題名はシェイクスピアの『ハムレット』をもとにしており、昼間に受ける苦しみや屈辱を夜に復讐し続けるというイメージを表している[95]。
政治
アパルトヘイト時代の作家は、文学と政治が分かち難く結びついていた。ナディン・ゴーディマは、「私は政治的な作家にはなりたくない。だが南アフリカの生活は、どんな一人の人間を描こうとも政治的な状況に満ちている」と語った[96]。ケープタウンの政治集会では、詩人や作家による自作の朗読が行われ、メッセージの共有と政治意識に貢献した。ジョアン・ベーカーは、警官が毎日のように高校生の活動家を捜索に来る様子を見て、黙っていられないと考えて60代から詩作を始めた[97]。ピーター・エイブラハムズの小説『ウドモに捧げる花輪』(1956年)はアフリカ独立闘争をテーマにした予見的な作品であり、白人に代わって独立を果たして首相になった黒人が、権力を維持するためにかつての同胞を殺害する[98]。
ジェームズ・マシューズは、平凡で怯える人間を中心にして政治的なテーマを書いた。『アジクウエラ(我々は絶対にバスに乗らない)』ではバスのボイコット運動、『ポータブル・ラジオ』では白人によって植え付けられた物欲が描かれている[99]。『公園』(1962年)では、白人しか乗れない公園のブランコにあこがれた黒人の子供が、月明かりの夜に乗って希望を叶える[94]。
スティーブ・ビコの没後30年を記念した著作集『俺は書きたいことを書く』は、小説を除けば南アフリカで最も影響力があるロングセラーとなっている。ビコの思想は、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法、フランツ・ファノンの暴力の哲学、ロバート・ソブクウェのパン・アフリカニズム、そしてアフリカ解放運動を統合して実践を目指したものだった[100]。
アフリカ民族会議(ANC)の議長でアパルトヘイト撤廃を行なった大統領ネルソン・マンデラの自伝『自由への長い道』(1995年)は英米を中心にベストセラーとなった[101]。同書は27年間の獄中体験や裁判、アパルトヘイト廃止までの政治について語られている。マンデラは人種によって区分する支配に反対し、覚書では「いかなる形の人種主義も破滅の公式である。国民の政治、経済、文化の諸権利を、ときの多数者の手の届かないところに置いておかなければならない」と書いた[102]。またマンデラは、パレスチナ人がイスラエルによるアパルトヘイトの犠牲者であるとして、パレスチナへの連帯を表明した[注釈 18]。こうした経緯により南アフリカ政府はパレスチナを支持している[注釈 19][103]。南アフリカ全国作家協会(NWASA)とパレスチナ作家総連合(GUPW)は、2024年に文化パートナーシップ協定を結んだ[105]。
歴史
19世紀にはアフリカ人によって歴史書が書かれ、ズールー語はマゲマ・フゼ、コーサ語はジョン・ヘンダーソン・ソガ、ツワナ語はモデリ・モレマなど民族語の著作もあった。しかし、20世紀前半の植民地時代に白人によって歴史学が制度化され、アフリカ人による研究は傍流として扱われた。差別が強くなるにつれて、アフリカ人は歴史書よりも歴史小説や叙事詩によってアパルトヘイトに対抗する歴史観を表現するようになった[106]。黒人の視点から歴史をとらえた作品として、コーサ人の苦難の歴史をテーマにしたドローモの戯曲『身代わりに死んだ娘』(1936年)やズールーのシャカの生涯をテーマにした小説『シャカ』(1937年)、ボーア人のグレート・トレックの侵略を描いたピーター・エイブラハムズの小説『野蛮な征服』(1950年)などがある[107]。
アフリカーナーの作家の中には、植民地時代をテーマにした作品を執筆する者がいる。J・M・クッツェーのデビュー作『ダスクランズ』(1974年)や『夷狄を待ちながら』(1980年)は南部アフリカに入植する18世紀の白人を描いた。そこでの白人はキリスト教を根拠に自分たちと黒人を区別し、アフリカ人狩りを行う[108]。アンドレ・ブリンクは『声から声へ』(1982年)で1825年に農場で起きた黒人の反乱を題材として、20人以上の登場人物が生い立ちや事件について語ってゆく。その中で、植民地時代の奴隷の問題についても触れている[109]。マイク・ニコルは、ボーア戦争の時代を舞台とする『権力者たち』(1989年)で、白人権力者の恐怖心や侵略戦争の残虐性、歴史書に書かれない黒人の苦悩を描いた。ダイヤモンドの密売組織を摘発しようとする関税吏が、暴力や差別から逃れた人々が暮らす漁村を訪れ、翻弄されて破滅してゆく[110]。
社会的事件

1960年のシャープビル虐殺事件は、ヨハネスブルク近郊で黒人デモに警察が発砲して69人が死亡した事件だった。イングリット・ヨンカーは詩集『煙と黄土』(1963年)で、銃撃で死んだ子供を詩にうたった。当初の題名は「ニャンガで兵士に銃撃された子ども」という題名だったが、ヨンカーは出版社にこの詩の削除を求められ、題名を「子ども」に変更した[111]。リチャード・リーブは事件直後の社会状況を小説『非常事態』(1964年)で描いた[112]。ナディン・ゴーディマは小説『バーガーの娘』(1979年)で、事件当時に12歳だったローザー・バーガーの記憶として語った。のちに同作は発禁処分になった[113]。
ソウェト蜂起については、ミリアム・トラーディが『アマンドラ』(1980年)においてドキュメンタリータッチで詳細に記録した。アマンドラとは権力を意味する語で、アフリカ人の手に権力を奪還するというメッセージが込められている[114]。オズワルド・M・ムチャーリは第2詩集『火炎』(1980年)を、ソウェト蜂起で犠牲になった子供たちと戦って死亡した若者たちに捧げている[115]。シンディウェ・マゴナの『母から母へ』(1998年)は、白人留学生のエイミー・ビールが黒人のデモで殺害された事件をきっかけに書かれ、和解をテーマにしつつタウンシップの人々の日常を詳しく描いている[116]。
文学論
人種、言語、宗教、社会制度が複雑な関係を持つ南アフリカにおいて、人々が互いにどのような影響を与えているかは中心的なテーマとなっている。エスキア・ムパシェーレは、評論集『アフリカン・イメージ』(1962年)で、「アフリカと西欧の文化の流れの交錯、黒人と白人の意識の相互影響 - 抗議と容認の皮肉な合一 - の中にアフリカ文化の未来が約束されている」と論じた[117]。
1950年代から1960年代の反アパルトヘイト小説に短編が多かった理由として、G・ムーアは「彼らが直面する闘争の緊迫性のために、とても長編を描ける環境にない」と論じており、ルイス・ンコシは「苦悩が強烈すぎるためというよりは、個人生活に侵害してくる経験の目まぐるしさ、荒々しさ、生々しさのためである」と論じている[55]。1980年代には、アパルトヘイトの思考や用語を拒否する流れが生まれ、「カラード」という用語の再定義をめぐる論争が起きた。南アフリカにおいて、カラードは白人と非白人を分けるために作られた用語であるため、カラードと呼ばれることを拒否する作家もいた[118]。
出版、図書
活版印刷はヨーロッパからもたらされた。南部アフリカ各地のキリスト教伝道の拠点は、それぞれの出版局を持つことが多く、コーサ語はロベダレ、ズールー語はマリアンヒル、ソト語はモリジャで出版された[注釈 20][120]。南アフリカに6年間滞在したイギリスの詩人トマス・プリングルは、黒人の境遇を案じ、『南アフリカ・ジャーナル (South African Journal)』を創刊して総督チャールズ・サマーセットを批判した[12]。
1822年にコーサ語の聖書、1833年にズールー語の聖書、1850年にズールー語の文法書、1855年にズールー語の辞書が出版された。これらは宣教師の布教のためにあった。1861年にソト語の雑誌『レソトの灯火 (Leselinyane la Lasotho)』が創刊され、ソト語の作家が活動した。1884年には南アフリカ初のアフリカ人向けの新聞が創刊され、布教のためにコーサ語、ズールー語、ツワナ語の教科書が作られた[121]。ツワナ語は20世紀初頭まで正書法が統一されておらず、他の民族語に比べて教育や出版で遅れが生じた。ツワナ人のソル・プラーキはツワナ語が消滅する危機を考慮し、英語/ツワナ語新聞『コランタ・エア・ベコアナ (Kuranta ya Becoana)』を発行し、ツワナ語の普及のためにイギリスで関連書を発表した。またプラーキは、ロンドン伝道協会の宣教師が不正確なツワナ語の綴りを広めようとしていると批判した[122]。初のアフリカ人所有の新聞としては19世紀末に『黒人の意見』が創刊された[123]。
黒人と白人、さらに農村と都市に分断された南アフリカにおいて、本に触れる機会を増やす試みとして移動図書館がカーネギー財団の助成で始められた。これは非ヨーロッパ人図書館サービスと呼ばれ、黒人の図書館利用の機会を増やし、アフリカ人作家の作品も含んでいた。ズールー人作家のR・R・R・ドローモはこの事務局で働き、アフリカ系アメリカ人の作品の収蔵も行った[124]。ローレンス・ヴァン・デル・ポストは新聞記者時代にラディカルな文芸誌「フォールスラッハ」(1926年)の発行に関わった[65]。最初期の黒人ジャーナリストとしてはナット・ナカサがいる[66]。
アパルトヘイト時代
1950年に創刊された週刊誌「ドラム」は、アフリカ人にアパルトヘイトの実態を伝える記事を掲載し、南アフリカで最も良識がある雑誌とも呼ばれた。同誌には南アフリカの作家たちも多数執筆した[注釈 21][125]。
1963年の出版娯楽法(Publications and Entertainments Act)によって、政府は国内の出版物を規制した。同法によって政権にとって望ましくない作品の発表が困難となった。望ましくない作品の定義とは「品位を欠くか、猥褻か、もしくは公衆道徳に違反するか有害であると認められた場合。さらに、共和国国民の信仰ないし宗教的感情を冒瀆したり中傷した場合。共和国国民を嘲笑したり、侮辱した場合。共和国国民同士の融和にとって有害である場合。国家の安全、公共の福祉、あるいは平和と善良なる秩序を乱す恐れのあるもの」だった。「品位を欠くか、猥褻か、もしくは公衆道徳に違反するか有害であるとみなされる表現」とは、「殺人、自殺、死、恐怖、残酷さ、殴り合い、口論、虐待、無法状態、ギャング、強盗、犯罪、犯罪の手口及び犯罪者、飲酒、泥酔、麻薬密輸、麻薬中毒、密輸、性行為、売春、乱行、強制売春、みだらな行為、欲情、過激なラブシーン、性的虐待、レイプ、男色、マゾヒズム、サディズム、獣姦、中絶、性転換、夜の歓楽街、肉体のポーズ、ヌード、わずかな着衣ないしは不適切な着衣、離婚、不貞、姦淫、庶子、人間的ないしは社会的逸脱ないしは堕落、およびその他の同様のあるいは関連した事象」となっていた[21]。1966年に政府は国外にいる黒人作家の作品を全て禁止し、亡命した作家の作品は国内で読めなくなった[126]。
政府の検閲は、他にも公共安全法、バントゥー行政法、バントゥー教育法などが絡み合って表現の自由を奪った[注釈 22][128]。政府は新聞、ラジオ、テレビ等のマスメディアを規制し、言論の自由を抑圧した。「メール&ガーディアン」は幾度も発禁処分となった。「デイリー・ディスパッチ」の編集長ドナルド・ウッズはイギリスに亡命し、スティーヴ・ビコの拷問死を告発した[129]。出版では、人種間の不平等や社会問題を描いた書籍が検閲を受けて発禁処分にあった[130]。発禁処分にも対抗して活動を続けた出版社として、1971年創立のデイヴィッド・フィリップ社(David Philip Publishers)などがあり、のちにニュー・アフリカ・ブックスへと引き継がれた[131]。反アパルトヘイト運動の拠点だったノース大学(現リンポポ大学)では発禁書を収蔵した図書室があり、閲覧には氏名や住所を登録する必要があり、発禁書を読んだ学生は当局の追及を受けた[130]。白人と非白人の情報格差は続いた。たとえばミリアム・トラーディは、自分がヨハネスブルクの図書館に入れると思わず、デビュー前に他の黒人作家の作品をほとんど読んでいなかった[132]。
1978年には文化誌「スタッフライダー」が創刊され、アパルトヘイト廃止までの15年間にわたってアンダーグラウンドで発行を続けた。人種や文化の抑圧に抵抗し、写真やファインアートの他に詩、小説、脚本なども掲載された。レイヴァン・プレスが出版をしていたが、決まった編集部は存在せず、各地のコミュニティのメンバーが作品を見せ合って検討し、選んだ作品を送るという方法で作られた。これによって有名作家だけでなく駆け出しや無名の作家にも発表の機会が与えられた[注釈 23][133]。
アパルトヘイト後

アパルトヘイト後は新憲法によって言論の自由が保障されている。各地域で約80の新聞が発行されており、8割が英語紙、次がアフリカーンス語紙で、民族語の新聞は少ない[134]。1994年以降には約150の出版社が南アフリカ出版社協会(Publishers' Association of South Africa。略称PASA)を設立し、憲法の精神に照らして表現の自由と読書文化の促進を行なっている。2006年からはケープタウン・国際ブックフェア、2011年にはオープン・ブック・フェスティバルが始まった。しかし本の価格が高いため、本を購入できる層は2010年時点で4%にとどまっている[130][135]。
出版社は大学出版局、一般図書関連の出版社、教科書関連の出版社に大きく分かれている。言語は英語とアフリカーンス語が大半で、21世紀以降から9つの民族語の出版が増加している。2007年に『小さな手への小さな本』という絵本シリーズがニュー・アフリカ・ブックスから出版されており、7つのアフリカ言語[注釈 24]の他にアラビア語、英語、フランス語、スワヒリ語、ポルトガル語に対応している。この企画はケープタウン大学のプラエサ(PRAESA)とアフリカ連合(AU)が協力しており、ズールー語、ツワナ語、ソト語への翻訳も進んでいる[136]。アパルトヘイト後は教育改革が進められている。読書文化を広めるための活動も行われており、ストーリーテラーによる語り聞かせや、小学校の読書クラブや読み聞かせなどがある[137]。
図書館は、1997年に南アフリカ図書館協会、1999年に南アフリカ図書館コンソーシアム連合(COSALC)と南アフリカ国立図書館(NLSA)が設立された。電子図書館や電子出版物のアーカイブ化も進められている[注釈 25][138]。
主な著作家
- オリーヴ・シュライナー
- イングリット・ヨンカー
- J・M・クッツェー
- デイモン・ガルガット
- ズキスワ・ワナー
- 以下の一覧は、ゴーディマ (1975)、大池 (1999)、福島 (1999)、峯編著 (2010)、宮本 (1989)、楠瀬 (2001)を主に参照して作成。
- マゲマ・フゼ(1844年-1922年、歴史家、ジャーナリスト) - 『黒い人々』(1922年)
- オリーブ・シュライナー(1855年-1920年、小説家) - 『アフリカ農場物語』(1883年)
- ソル・プラーキ(1876年-1932年、小説家、ジャーナリスト) - 『ムーディ』(1930年)
- ポーリン・スミス(1882年-1959年、小説家) - 『リトル・カルー』(1925年)
- リリス・カカザ(Lillith Kakaza) - (1885年-1950年)
- サラ・ガートルード・ミリン(1889年-1968年、小説家)
- アラン・ペイトン(1903年-1988年、小説家) - 『叫べ、愛する国よ』(1948年)
- R・R・R・ドローモ(1906年-1971年)
- ローレンス・ヴァン・デル・ポスト(1906年-1996年) - 『カラハリの失われた世界』(1958年)
- エレン・クズワヨ(1914年-2006年)
- エスキア・ムパシェーレ(1919年-2008年)
- ピーター・エイブラハムズ(1919年-2017年、小説家) - 『坑夫』(1946年)
- ナディン・ゴーディマ(1923年-2014年、小説家) - 『バーガーの娘』(1979年)
- カン・テンバ(1924年-1967年)
- デニス・ブルータス(1924年-2009年、詩人) - 『A Simple Lust』(1973年)
- アレックス・ラ・グーマ(1925年-1985年、小説家) - 『夜の徘徊』(1962年)
- ジェームズ・マシューズ(1929年-2024年、詩人、小説家) - 『公園』(1962年)
- ダン・ジェイコブソン(1929年-2014年、小説家)
- マジシ・クネーネ(1930年-2006年、詩人) - 『偉大なる帝王シャカ』(1979年)
- リチャード・リーブ(1931年-1989年)
- ロレッタ・ゴッボ(1931年-2015年) - 『女たちの絆』
- アソル・フガード(1932年-2025年、劇作家) - 『ツォツィ』(1980年)
- イングリット・ヨンカー(1933年-1965年、詩人) - 『煙と黄土』(1963年)
- ミリアム・トラーディ(1933年-2017年、小説家) - 『二つの世界のはざま』(1975年)
- グラディス・トーマス(1934年-2022年、詩人、劇作家)
- アンドレ・ブリンク(1935年-2015年、小説家) - 『白く渇いた季節』(1979年)
- ルイス・ンコシ(1936年-2010年、小説家) - 『地下生活者たち』(1993年)
- ナット・ナカサ(1937年-1965年、ジャーナリスト、小説家)
- リンディウェ・マブザ(1938年-2021年)
- J・M・クッツェー(1940年-、小説家) - 『恥辱』(1999年)
- オズワルド・M・ムチャーリ(1940年-、詩人)
- アーサー・ノーキ(1942年-1970年、詩人)
- ビヴァリー・ナイドゥー(1943年-、小説家、児童文学作家) - 『ヨハネスブルクへの旅』(1985年)
- シンディウェ・マゴナ(1943年-) - 『母から母へ』(1998年)
- ゾーイ・ウィカム(1948年-2025年) - 『光のなかで戯れる』(2006年)
- ジャブロ・ンデベレ(1948年-) - 『愚者たち』(1984年)
- ゼイクス・ムダ(1948年-) - 『エクセルシアのマドンナ』(2002年)
- アンキー・クロッホ(1952年-、詩人、ジャーナリスト) - 『カントリー・オブ・マイ・スカル』
- ジェーン・テイラー(1956年-2023年、劇作家) - 『ユビュと真実和解委員会』(1997年)
- チナ・ムショーペ(1958年-、ストーリーテラー、劇作家)
- エレケ・べーマー(1961年-、文学者)
- デイモン・ガルガット(1963年-、小説家) - 『約束』(2021年)
- ズキスワ・ワナー(1976年-、ジャーナリスト、小説家)
- コパノ・マツルワ(1985年-、小説家)
- ナカネ(1988年-、音楽家、小説家)