Wikiwand AI

カール=ハインツ・リードレ

ドイツのフットボール選手、指導者 From Wikipedia, the free encyclopedia

カール=ハインツ・リードレ(Karl-Heinz Riedle, 1965年9月16日 -)はドイツ出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはフォワード。身長は179cmと大柄ではないが、滞空時間の長い跳躍力を生かしたヘディングシュートを得意とし「空の王者」もしくは「エア・リードレ」、またはドイツの有名な戦闘機である「メッサーシュミット」の愛称で呼ばれた[1][4]。足でのシュートも得意で決定力が高かった。1992年ヨーロッパ選手権では空のリードレ、足のクリンスマンと称された。息子のアレッサンドロ・リードレドイツ語版もサッカー選手であり父と同様にストライカーを務めている[5]

愛称 空の王者、エア・リードレ (Air Riedle[1])
ラテン文字 Karl-Heinz Riedle
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1965-09-16) 1965年9月16日(60歳)
概要 カール=ハインツ・リードレ, 名前 ...
カール=ハインツ・リードレ
名前
愛称 空の王者、エア・リードレ (Air Riedle[1])
ラテン文字 Karl-Heinz Riedle
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1965-09-16) 1965年9月16日(60歳)
出身地 ヴァイラー・イム・アルゴイ
身長 179cm[2]
体重 75kg[2]
選手情報
ポジション FW
ユース
1974-1981 ドイツの旗 TSVエルホーフェン
1981-1982 ドイツの旗 SVヴァイラー
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1986 ドイツの旗 FCアウクスブルク 80 (31)
1986-1987 ドイツの旗 ブラウ=ヴァイス・ベルリン 34 (10)
1987-1990 ドイツの旗 ヴェルダー・ブレーメン 86 (38)
1990-1993 イタリアの旗 SSラツィオ 84 (30)
1993-1997 ドイツの旗 ボルシア・ドルトムント 87 (24)
1997-1999 イングランドの旗 リヴァプールFC 60 (11)
1999-2001 イングランドの旗 フラムFC 34 (6)
代表歴
1986-1987 西ドイツの旗 西ドイツ U-21 4 (1)
1988 西ドイツの旗 西ドイツ 五輪 1 (0)
1988-1994[3] 西ドイツの旗 西ドイツ/ドイツの旗 ドイツ 42 (16)
監督歴
2000 イングランドの旗 フラムFC
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1988サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
閉じる

クラブ経歴

リードレは1974年にTSVエルホーフェンでサッカーを始め[6]、SVヴァイラーを経て1983年バイエルンリーガドイツ語版所属のFCアウクスブルクに入団した[6]。1985-86シーズンのバイエルンリーガで22得点を記録すると[4]1986年ブラウ=ヴァイス 90 ベルリンドイツ語版へ移籍した[4]。ブラウ=ヴァイスでは1シーズンのみの所属となり10得点を記録するに留まったが[6]好調なプレーを維持し[4]1987年オットー・レーハーゲルが監督を務めるヴェルダー・ブレーメンへ移籍した[4]。この移籍について後にリードレは「ブレーメンは若手選手の育成に定評があるセンセーショナルなクラブだった。レーハーゲルのおかげで私は選手として成長し、多くのことを学んだ」と評している[4]。加入初年度の1987-88シーズンにはリーグ戦33試合に出場し18得点を記録し、ブンデスリーガ優勝に貢献した[4]。またクラブの歴史上において最高の試合の一つと考えられているUEFAカップ1989-903回戦のSSCナポリ戦でも2試合合計で3得点をあげるなど顕著な働きを見せた[4]

1990年に1300万ドイツマルクという当時のヨーロッパでは最高額の移籍金[7]でイタリアのSSラツィオに移籍[4]。1991-92シーズンにはリーグ戦29試合に出場し13得点を決める活躍を見せ[8]、1992-93シーズンにはクラブにとって1970年代以来最高の成績となるリーグ5位に押し上げる原動力となったが[4]、4人の外国人が在籍する中、やや出場機会を減らしていた[9]

1993年夏、ドイツに帰国しボルシア・ドルトムントへ移籍した[10]。契約期間は3年で移籍金は950万マルク(6億3000万円)[11]とも、850万マルクとも推定される[12]。ドルトムントでは1994-95シーズンと1995-96シーズンのブンデスリーガ連覇、UEFAチャンピオンズリーグ 1996-97では決勝戦のユヴェントスFC戦で2得点を決める活躍を見せ初優勝に貢献した[10][13]

1997年、イタリアのペルージャ・カルチョも獲得に動いたがアストン・ヴィラFCへ移籍したスタン・コリーモア英語版の後釜としてイングランドのリヴァプールFCへ移籍した[7]。リヴァプールではマイケル・オーウェンロビー・ファウラーといった攻撃陣とのポジション争いとなったが[7]1999年9月に出場機会を得るためにフットボールリーグフラムFCへ移籍[7]。1999-00シーズンにはポール・ブレイスウェルドイツ語版の後任として選手兼任の暫定監督を務め[10]、2000-01シーズンには正式な監督としてジャン・ティガナが就任したため選手に復帰し、プレミアリーグ昇格に貢献したが同シーズン限りで現役を引退した[10]。その後、2002年1月にリヒテンシュタインのFCファドゥーツの練習に参加し現役復帰を試みたが[14]、契約はならなかった[15]

代表経歴

1988年ユルゲン・クリンスマントーマス・ヘスラーらと共に西ドイツ五輪代表に選出され、韓国で開催されたソウルオリンピックに出場し銅メダルを獲得した[16]

ドイツ代表としては1988年8月31日に行われた1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選フィンランド戦で代表デビューをした[3]1990年イタリアで開催された本大会ではクリンスマンやルディ・フェラーに次ぐ3番手のフォワードと見做されていたが[4]、準決勝のイングランド戦を含む4試合に出場し優勝に貢献[3]。イタリア大会以降にフェラーに代わってレギュラーに定着し、1992年スウェーデンで開催されたUEFA欧州選手権1992では準決勝のスウェーデン戦で2得点を決めるなど合計3得点をあげヘンリク・ラルセン英語版デニス・ベルカンプトーマス・ブロリンと並び得点王となった[17]。その後、1994年アメリカ合衆国で開催された1994 FIFAワールドカップに出場、グループリーグの韓国戦で1得点を挙げた[18]。国際Aマッチ通算42試合に出場し16得点を記録した[3]

引退後

2004年11月からはスイスのグラスホッパー・クラブ・チューリッヒのスポーツディレクターを務めていたが、2007年4月に2006-07シーズン限りでの辞任を表明した[19]。その後はドイツ南部のアルゴイ地方ドイツ語版でサッカースクールや4つ星ホテルを経営している[20]

2014年11月、古巣のボルシア・ドルトムントの国際親善大使に就任した[21]

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 42試合 16得点(1988年-1994年)[22][3]
さらに見る ドイツ代表, 国際Aマッチ ...
ドイツ代表国際Aマッチ
出場得点
198811
198931
199091
199153
1992104
199385
199461
通算4216
閉じる

得点

出典[3]
さらに見る #, 開催日 ...
#開催日開催地対戦国結果大会
11988年8月31日フィンランドヘルシンキフィンランドの旗 フィンランド4-01990 FIFAワールドカップ・予選
21989年4月29日オランダロッテルダムオランダの旗 オランダ1-11990 FIFAワールドカップ・予選
31990年12月19日ドイツシュトゥットガルトスイスの旗 スイス4-0親善試合
41991年9月11日イングランドロンドンイングランドの旗 イングランド1-0親善試合
51991年10月16日ドイツ、ニュルンベルクウェールズの旗 ウェールズ4-1UEFA EURO '92予選
61991年12月18日ドイツ、レーヴァークーゼンオランダの旗 オランダ1-1UEFA EURO '92予選
71992年6月15日スウェーデンノーショーピングスコットランドの旗 スコットランド2-0UEFA EURO '92
81992年6月21日スウェーデン、ストックホルムスウェーデンの旗 スウェーデン3-2UEFA EURO '92
9
101992年9月9日デンマークコペンハーゲンデンマークの旗 デンマーク2-1親善試合
111993年3月24日スコットランドグラスゴースコットランドの旗 スコットランド1-0親善試合
121993年6月13日アメリカ合衆国シカゴアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国1-1USカップ1993
13
14
151993年10月13日ドイツ、カールスルーエウルグアイの旗 ウルグアイ5-0親善試合
161994年6月27日アメリカ合衆国、ダラス大韓民国の旗 韓国3-21994 FIFAワールドカップ
閉じる

脚注

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks