ガリレオ裁判
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ガリレオ裁判(ガリレオさいばん)は、ガリレオ・ガリレイに対する宗教裁判。
ガリレオは当時のカトリック教会の見解と異なる地動説を支持する言動をとったかどで1615年に告発を受け、1616年に判決が出された。このときの裁判では結果としてガリレオ本人が被告とはならなかったが、地動説を擁護することなどが禁止された(1616年の裁判)。その後の1632年にガリレオが『天文対話』を発表すると、ガリレオは異端審問所への出頭を命じられ、1633年に有罪判決を受けて無期限の投獄を命じられた(1633年の裁判)。
この裁判については、裁判終了後も議論が続き、新たな裁判記録が公開されるなど、研究が続けられている。また、裁判に対する教会の見解も、時代を経るにしたがって変化していっている。ガリレオ裁判は宗教対科学の対立ととらえられることが多かったが、ガリレオとイエズス会士との対立や、当時のローマ教皇ウルバヌス8世との関係の悪化、当時の国際情勢なども原因として挙げられている。
背景

ガリレオ・ガリレイが天文学にかかわりだした当時、ヨーロッパでは天動説が広く信じられていた。天動説は、地球が宇宙の中心にあり、その地球の周りを太陽や月、他の惑星が回っているという説である[1]。この説は古代までさかのぼり、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは天動説に哲学的裏付けを与えた[2]。2世紀に活躍したプトレマイオスは、天動説に基づいた宇宙モデルを製作し、惑星の動きを計算可能にした[3][4]。神学者トマス・アクィナスはアリストテレスの宇宙論を研究し、アリストテレスの天動説などの理論に基づいて聖書の記述を解釈した[5]。
一方、太陽を中心とし、地球が太陽の周りを回っているという地動説も、古代からアリスタルコスによって唱えられてはいたものの、一般に受け入れられることはなかった。その中でニコラウス・コペルニクスは1543年に出版された『天球の回転について』で地動説に基づいた理論を展開した[6]。ただし、同書の出版を担当したアンドレアス・オジアンダーの手により、この理論は計算を単純化するためのもので書かれている内容は真実ではない、という序文がコペルニクスに無断で付けられていた[7][8]。これはキリスト教会からの批判をかわす目的であった[9]。同書は出版後、批判の声はあったものの、ローマ教皇パウルス3世に献本されて教皇からの評価を受けており、大きな問題には発展していない[10]。
ガリレオと地動説

ガリレオが地動説を支持するようになったのは、パドヴァ大学教授時代(1592~1610年)であった[11]。そのときにガリレオが地動説の根拠としたのは、海の干満である。地球が自転しながら公転すると、地球の一方側では自転によって動く向きと公転によって動く向きが同じになり、他方側では自転によって動く向きと公転によって動く向きが反対になる。これが、海の干満を引き起こすと考えたのである(ただし、この考えは後の世では否定されている)[12]。
ガリレオは1597年、ピサ大学教授のマッゾーニに宛てた手紙で、地動説は天動説よりも確からしいと述べている[13][14]。ケプラーの『宇宙の神秘』が出版された際に寄贈を受けたガリレオは、その礼状において、自分は地動説をとっており一般の仮説では説明できない自然界の出来事が地動説によって説明できることを発見している、と記している[15]。ただしこの時点では、ガリレオは公には地動説の支持を表明しなかった[15][16]。
1609年、ガリレオは望遠鏡が発明されたことを知り、同年には自ら望遠鏡を作って夜空に向けた[17][18]。そして、月に凹凸があることを発見した。これは、月より上は神聖な世界であり星は完全な球形であるという、アリストテレス以降の理論をくつがえす発見だった[19]。さらに1610年には、木星に4つの衛星があることを発見した[19]。地球ではなく木星の周りを回る星があるということは、地球は宇宙の中心であるという考えを揺らがせるものであった[20]。ガリレオはこれらの成果をまとめて1610年に『星界の報告』として出版した[21]。同書ではコペルニクスの説に触れた箇所もある[22]。同書の内容には賛否があった[23]が、宗教裁判につながる動きは見られなかった[24]。
ガリレオが地動説の支持を公の場で述べるようになったのは、『星界の報告』出版後の1610年末に金星の満ち欠けを発見してからだった[25]。この現象は天動説では説明のつかないものであった[26]。ガリレオは1611年にローマを訪れ、イエズス会が設立したローマ学院で天文観測を実演し、さらにリンチェイ・アカデミーの設立者であるフェデリコ・チェージの前でも木星の衛星を観測した[27]。ガリレオの発見はローマ学院で認められ、さらにリンチェイ・アカデミーの会員にもなった[27]。
ガリレオの発見自体はローマで認められたものの、そこから導き出される地動説については、聖書の記述と矛盾していると思わせるところがあった。このことは1610年ごろからすでにコロンベという人物によって指摘されていた[28]。当時のガリレオは聖書について積極的に議論することはなかったが、ガリレオが自らの地動説を推し進めるには聖書への言及が避けられなかった[29][30]。しかし、聖職者ではないガリレオが聖書を解釈することは許されなかったため、発表にあたっては慎重な対応を迫られた[30]。例えば、1613年に出版された『太陽黒点論』では、当初、天界の不変性は聖書の教えに反する、などといった記述があったが、ローマの検閲官によって、聖書について書かれた箇所はすべて削除された[29][30]。
告発
1613年12月12日、ガリレオの弟子であるベネデット・カステリは、ピサのトスカナ宮廷の朝食会に招かれた[31]。その場でガリレオの発見が話題になると、同席していたピサ大学教授のコジモ・ボスカリアは、地動説は聖書の記述に反すると指摘した[31]。その話を聞いていたクリスティーナ・ディ・ロレーナ(クリスティーナ2世)もカステリを問いただした。カステリはそれに答えたが、クリスティーナは納得しなかった[32]。カステリからその話を聞いたガリレオは、自らの考えを伝える手紙を書いて、カステリを通じてクリスティーナに送った。そこには、聖書の内容について詳しく説明され、地動説は聖書に反しているわけではないことがつづられていた[33]。
この手紙は後に加筆されて1615年に『クリスティーナ大公妃への手紙』として出版されることになるのだが[34]、出版前の段階から手紙の内容は人手に渡って広まっていた(当時は学会誌がなく、手紙で研究結果が広められるのは珍しいことではなかった)[35]。そしてこの手紙は、ガリレオが聖書の解釈に足を踏み入れたものとみなされ、非難を浴びた[36]。1614年12月20日、ドミニコ会士トマゾ・カッチニは説教壇上でガリレオと地動説支持者を批判した[37]。このときガリレオは反発して謝罪を求め、ドミニコ会士の修道会会長であるルイジ・マラフィから謝罪の言葉を受け取った[36]。
1615年2月7日フィレンツェのドミニコ会神父ニッコロ・ロリーニは、ガリレオは異端思想を抱いているとして、検邪聖省(ローマの異端審問所)に告発した[38]。ロリーニは1612年にも、地動説は聖書に反していると批判していたが、このときはガリレオを名指ししておらず、大きな問題にも発展していない。今回の告発では、ガリレオがカステリに宛てた手紙の写しが証拠として出された[39]。
1616年の裁判

ロリーニの告発から始まる裁判は、ガリレオに対する1回目の宗教裁判と呼ばれることがある。しかしこの裁判は、ガリレオを被告としたものではない[40]。裁判自体は極秘で進められており、ガリレオにも裁判のことは伝えられていなかった[41]。
ロリーニの告発理由は、1612年に批判していた地動説に関するもののほか、ガリレオの手紙は聖書及びその注釈者の権威と、アリストテレスや歴代教皇、トマス・アクィナスの権威を脅かすものだということが付け加えられていた。ガリレオの手紙は1615年2月25日の検邪聖省集会で読み上げられた[39]。この手紙は実物ではなく写しであるため、裁判を担当する枢機卿(通常10人で構成される[42])はピサの大司教と異端審問官に現物の入手を求めた[39]。そのためカステリは手紙の提出を求められたが、ガリレオが提出を許可しなかったので、枢機卿は現物を手に入れることはできなかった[43]。
この手紙の原本は現在では失われている[43]が、ガリレオが書いて2月16日にピエロ・ディニ師に送った「わたしが書いた通りの正しい写し」が残っている[43]。その写しと、ロリーニが提出した写しには差異がある。例えば、ガリレオが書いた写しで「聖書のなかには、言葉のむき出しの意味にとると、真実からかけ離れていると思われる多くの命題があります」と書いてある箇所は、ロリーニの写しでは、「多くの間違った命題があります」となっている[43]。このように、ロリーニの写しはガリレオに不利になる記述があるが、ガリレオの写しも原本と同一とは限らないので、ロリーニが意図して改竄したのかは不明である[43][44]。
裁判は当初大きな動きがなかったが、3月19日、トマゾ・カッチニが証言を申し出た[43]。翌日にカッチニは証言したが、そのなかで、ガリレオの弟子たちは「神は実体ではなく偶有性である、……聖人たちによってなされた奇蹟は真の奇蹟ではない」と言っていると述べた[45]。そしてその証人として、2人の人物の名を挙げた[45]。これが事実であれば、これだけで罪にあたるものであるが、検邪聖省は信憑性に疑問を持ったのか、この証言を重要視せず[46]、2人が尋問されたのは8か月後の11月だった[45]。2人は尋問でカッチニの証言を否定し、結局カッチニの証言は誤解に基づくものだとみなされた[47]。
一方そのころガリレオは、自分についての裁判が開かれていることをどこからか知ったらしく、周囲の反対を押し切って1615年12月にローマに行った[41][48]。そして、ローマで地動説に関連する論考「海の干満についての論議」を書いてアレッサンドロ・オルシニ枢機卿に献呈した。ガリレオはオルシニを通じてこの論考を教皇パウルス5世に読んでもらおうとしたが、教皇がこれを読むことはなかった[49]。さらにガリレオは、15人から20人の反対者の中で論争を繰り返した[41]。
裁判は、検邪聖省が設置した特別委員会により、1616年2月24日に以下の答申が出された[50]。
一.太陽は世界の中心にあって、いっさいの運動をしない
- 検閲 全員が以下のように述べた。この命題において述べられていることはすべて哲学的にばかげており不条理であり、公式に異端である。なぜならば、多くの個所で聖書の文字通りの意味とも、教父や神学博士の一般的な注釈と理解とも矛盾している。
二.地球は世界の中心になく、不動でもなく、全体として日周運動をする
- 検閲 全員が以下のように述べた。この命題は哲学的には同じ判定を受け、神学上の真理に関しては、少なくとも信仰上は誤りである。
この結果を受けてベラルミーノ枢機卿は教皇パウルス5世の命を受け、2月26日に自宅にガリレオを呼び出した[51]。そのときの様子を、公証人の文書では次のように書いている(以下、この文書を「公証人文書」と呼ぶ)。
ベラルミーノ枢機卿猊下はその居所である邸宅にガリレオを召喚し、上記枢機卿猊下、ドミニコ会の検邪聖省総主任のローディのミケランジェロ・セジッツィ師の前で、枢機卿猊下は、上述の意見は誤っており、それを放棄すべきであるとガリレオに訓告された。それに続いてただちに、わたしと証人の立ち会いのもと、また枢機卿猊下もおられたが、前述の総主任神父はその場にいたガリレオに対して教皇聖下と全検邪聖省の名において、太陽が世界の中心にあって動かず、地球が動くという上記意見を全面的に放棄し、今後はそれを口頭であれ文書によってであれ、いかなる仕方においても、抱いても、教えても、あるいは擁護してもならないと命じられた。さもなければ、聖省は彼を裁判にかけるであろうと。この禁止命令に上記ガリレオは同意し、従うことを約束した。証人として上記枢機卿猊下の家の一員である、キプロス王国のニコシアのバディーノ・ノレス尊師と、モンテプルチャーノ教区ローゼ修道院のアゴスティーノ・モルガルドの立ち会いのもと、ローマの上記邸宅で執行。[52]
後述するように、のちの世において、この公証人文書は偽造されたものであるとの見解が唱えられたが、その見解を否定する主張もある[53][54]。
ベラルミーノは3月3日の検邪聖省総集会で、ガリレオが命令に同意したことを報告した[55]。
この裁判では、ガリレオは罪に問われることはなかった。また、地動説の話をすること自体を禁じられたわけでもなかった[56]。3月11日には教皇パウエル5世との謁見を許され、そこで、「自分の存命中は恐れることはない」との言葉をもらった[57][58]。しかし世間では、ガリレオは異端誓絶(有罪判決となった後で、被告自身が異端を捨てると誓うこと[59])をしたといううわさが広まった[60][61]。
裁判終了後、ガリレオはトスカナ大公のピッケナ首相から、このままローマに留まってよからぬことが起きないように、早くフィレンツェに戻るようにとの要請を受けていた[60][62]。しかしガリレオはしばらくローマに留まり、5月26日にはベラルミーノに会って、自分は異端誓絶をしていないという証明書を書いてもらった[63]。
1616年3月5日、新たな禁書目録が公布され、そこでコペルニクスの『天球の回転について』は、訂正されるまで閲覧禁止とされた[64]。1620年には具体的な訂正箇所が発表された。ガリレオもこの発表にしたがって、自らが所有する『天球の回転について』に修正を入れている[65]。
『天文対話』

裁判後のガリレオはしばらく、地動説に関する発言を控えていた[66]。その間の1623年、バルベリーニ枢機卿が教皇ウルバヌス8世となった[67]。バルベリーニは、かつてガリレオが著書を献上したこともあり、ガリレオに好意的だった[67][68]。この就任を知ったガリレオは、リンチェイ・アカデミー会員の助言に従い、出版間近だった『偽金鑑識官』に新教皇への献辞を加えたうえで、教皇に献上した[69]。教皇は同書を称賛した[69][70]。
ガリレオは、今ならば1616年に出されたコペルニクス説に関する禁止令を取り消してもらえるのではないかと思い、1624年にローマへと向かった[71][72]。ローマには1か月半滞在して、その間に教皇ウルバヌス8世とは6回会見したが、命令を取り消してもらうことはできなかった[71]。なお、同じ年に教皇は、ツォレルン枢機卿に、「教会はコペルニクスの教えを異端として糾弾したことはなかった。それは軽率なだけである」と語ったといわれる[73]が、その言葉の真実性については疑問を持たれている[71][74]。
フィレンツェに戻ったガリレオは、海の干満に関する著書の執筆にとりかかった。これは以前、オルシニ枢機卿に献上した論考を拡張させる内容で、のちに『天文対話』として出版されるものである[73]。ローマでのガリレオの願いは叶わなかったものの、1626年にはガリレオの教え子であるカステリは家庭教師として教皇の2人の甥に数学を教えることになり、教皇に近い地位にもガリレオに好意的な人物がつき、状況としては以前よりもガリレオに有利になっていた[75][76]。
『天文対話』の執筆はガリレオの病気などの影響で遅れたが、1629年末にはほぼ完了した[73]。ガリレオは出版許可を得るため、1630年5月にローマへ行き、検邪聖省長官のニッコロ・リカルディと、担当者であるドミニコ会士のラファエロ・ヴィスコンティに会った[77][76]。両名はかつてガリレオの著書に対し好意的な評価をしていた神父である[76]。今回もリカルディは本を気に入り、ヴィスコンティを通じてそのことをガリレオに伝えた[77]。
ガリレオは満足してフィレンツェに戻ったが、ここからガリレオにとって好ましくないことが起こった。まず、リンチェイ・アカデミーのチェージが8月に急死した[78]。チェージに運営の多くを依存していたリンチェイ・アカデミーはこれにより支柱を失い、ガリレオの著書を刊行することが難しくなった[78][79]。さらにフィレンツェでペストが流行し、ローマと行き来することもできなくなった[80]。そのためガリレオはローマでなくフィレンツェで出版することを考えた[80]。
一方のローマでは、リカルディによる出版許可が中々おりなかったが、交渉の末、リカルディは序文と結論部分のみを読み、残りはフィレンツェの異端審問官が検閲して許可を出すことで話がまとまった[81]。そして1631年7月19日にリカルディは序文と結論部分の許可を出し、『天文対話』は1632年2月21日に出版された[81]。
教皇の反応

1632年7月25日、リカルディはフィレンツェの異端審問官エジディに対し、以下のような手紙で教皇ウルバヌス8世の見解を伝えた。
ガリレイ氏の本が当地に届きましたが、好ましからざる点が多くあり、主人たちは何としてでも訂正したいとのことです。とりあえず、われわれの主の命令(わたし以外の名前は使ってはなりませんが)は、本を差し押さえ、こちらから修正すべきことを送らない限り貴地から出してはならない、ましてや外国に送ってはならない、というものです。尊師は教皇使節猊下とともにこのことを理解され、穏やかに行動しつつ万事有効に善処されたい。[82]
この手紙や、教皇が出した別の手紙によれば、ウルバヌス8世が『天文対話』に不満を感じた点は、主に以下のようなものであった。
- 扉絵に3頭のイルカが描かれている
- ウルバヌス8世は教皇になった際に、弟と2人の甥を教皇庁の重職に就かせた。3頭のイルカはそのことを皮肉っていると感じたのである。しかし、これは出版社であるランディーニ書店の商標であり、この点についての教皇の疑念は晴れた[83][84]。
- 教皇の議論がシンプリチオによって語られている
- 『天文対話』は、サグレド、サルヴィアチ、シンプリチオの3人の対話形式で書かれている。そして最後の場面では、シンプリチオが、教皇が主張している内容を語っている[85]。しかしこのシンプリチオは、作中では愚か者の役割で、話す内容は基本的にほかの2人に否定されている。そのようなシンプリチオに教皇の主張を語らせているのが問題となった[84][86]。
- 序文と本文が異なる活字で印刷されている
- 本書の序文では、地動説は数学的な仮説であると書かれている。しかし、この序文は立体活字、本文はイタリック体であったので、序文と本文は無関係であると主張しているかのように思われた[87]。
ウルバヌス8世は1632年の遅くとも8月には、『天文対話』を調査するための特別委員会を招集した[89]。特別委員会の委員はリカルディ、アゴスティーノ・オレッジ、メルキオール・インコーファの3名と推定されている[90][91]。委員会は5回開催され、2通の報告書が残されている[90]。そのうち最終報告書と考えられる報告書では、出版された本と同様に、ガリレオ本人に対しても訴訟手続きを進めるべきだと記されている[92]。
1633年の裁判
裁判の開始と第1回審問
1632年9月23日、検邪聖省総集会にて、ガリレオを異端審問所に招集することが決められた[93]。ガリレオは10月2日に、10月末までに出頭せよとの召喚状にサインした[94]。ガリレオはサインをしてからも、70歳という高齢や、病気などを理由にローマへ行くことを引き延ばしていたが、1633年1月に検邪聖省からの命令が届くと、これ以上の抵抗はできず、1月20日に出発した[95]。途中で20日のペスト検疫期間を過ごしてから、2月13日にローマに着いた[96][97]。
ローマにいる間はトスカナ邸で過ごし、裁判が始まるのを待った。その間にトスカナ大使のニッコリーニは情報を集め、その結果、検邪聖省は、1616年に出した地動説に対する禁止令をガリレオが『天文対話』で破ったことを問題視していることが分かった[98]。それを知ったガリレオは、本では地動説を一方的に擁護していないので弁明する余地があると考えた[99]。
ニッコリーニはさらに、裁判を避けるためにトスカナ大公に助言して、大公から全枢機卿に対して手紙を送ったり、ニッコリーニ自身が枢機卿と面会したりしたが、状況を変えることはできず[100]、4月12日にガリレオに対する1回目の審問が開かれることになった[101]。出頭前、ニッコリーニはガリレオに、自分の意見は主張せずに、相手が信じさせようと思っていることに従うようにと忠告した[102][103]。
4月12日、検邪聖省で1回目の審問が開かれた。審問を担当したのは検邪聖省総主任のヴィンチェンツォ・マクラノ[104]。マクラノの質問はラテン語、ガリレオの回答はイタリア語でなされた[105]。
この審問では、1616年の裁判のことが議題となった。ガリレオは1616年2月にベラルミーノ枢機卿から、コペルニクスの意見は聖書と矛盾するので抱くことも擁護することもできないが仮説として使うことはできると言われた、と主張した。さらに5月26日には、同内容のベラルミーノ枢機卿からの証明書も受け取った、と付け加えた[106]。
これに対し検邪聖省は公証人文書を持ち出した。ここには、コペルニクスの理論は「いかなる仕方においても」抱いたり、教えたり、擁護してはならないと書かれている[52]。しかし、この文書はガリレオは目にしたことがなかった。この内容について問われたガリレオは、ベラルミーノが「いかなる仕方においても」と述べたかについては記憶がないし、ベラルミーノから受け取った証明書にもこのことは書かれていないと答えた[107]。なお、ベラルミーノは1621年に死去しているので、真偽を確かめることはできない[108]。
続いて検邪聖省は、『天文対話』の出版許可を得る際に、リカルディに1616年の裁判結果に基づく命令を伝えたのかと質問した。ガリレオは、必要がないので伝えていないと答え、その理由として、同書ではコペルニクスの見解について抱きも擁護もしていないからだと述べた[109]。
こうして1回目の審問は終わった。この結果は、検邪聖省マクラノの求めていたものではなかった[110]。ガリレオは罪を告白することなく、検邪聖省もその存在を知らなかったベラルミーノの証明書を持ち出して、(ニッコリーニの忠告を無視する形で)自らの正当性を主張してきたからである[110]。
第2回審問
第1回審問の後、検邪聖省は新たな特別委員会を作り、『天文対話』の内容を精査した。委員はインコーファ、オレッジ、ザッカリア・パスクァリゴの3名である[111]。3人はそれぞれ精査結果を答申した。それらの内容は、『天文対話』は公証人文書はもとより、ベラルミーノの証明書にも反しているとみなすものであった[112][113]。そして特別委員会は、4月21日の集会で、『天文対話』は教会と相いれない意見が擁護され、教えられており、著者はその意見を抱いている疑いがあると結論付けられた[114]。
そのころガリレオは、検邪聖省の建物内の部屋で待機していた。ガリレオが書いた手紙によれば、この部屋は3部屋分あって広く快適だったという[115]。次の審問が始まるまでの間、マクラノがここを訪れ、ガリレオに罪を認めさせるために、「あのような否定的な態度では、より厳しい処置をとらざるを得なくなる」と、拷問をほのめかしながら説得した[116]。ガリレオはこの説得により、罪を法廷で認めることに同意した[117][118]。
4月30日、2回目の審問が開かれた。ここで、「何か言いたいことがあるなら述べるように」と問われたガリレオは、次のように述べた[119]。
今月の16日(12日のまちがい)に受けた尋問について何日もじっくりと考えつづけて、とくに16年前に聖書の命令によって地球の運動と太陽の静止について当時断罪されていた意見を抱いても、擁護しても、いかなる仕方でも教えてもならないという禁止命令がわたしに与えられていたかどうかということについて考えてみて、わたしが出版した『対話』を読み直してみる気になりました。……何年も読んでいなかったために、まるで新しく書かれ、他人の著書のようで、率直に告白しますと、多くの箇所で、わたしの胸の内を知らない読者が、まちがった側のために持ち出されて、わたしが退けようとしていた議論が容易に否定されるどころか、むしろその説得力のために強制していると考えてしまうように書かれていると思われてきました。……[119]
そしてガリレオは宣誓書に署名していったん部屋を立ち去ったが、また戻ってきて、機会を与えてくれれば『天文対話』を加筆してコペルニクスの説を論駁したい、と述べ、再び署名した[120][121]。
この審問が終わった段階では裁判はまだ終了していなかったが、審問後、ガリレオは検邪聖省を離れてトスカナ大使邸に戻ることを許された[122]。
判決
5月10日、ガリレオは検邪聖省に呼び出され、望むならば抗弁のため8日間の猶予を与える、と告げられた[123]。このように審問後に抗弁の機会と時間が与えられるのは、当時の宗教裁判では一般的な手続きである[124]。ガリレオは前もって抗弁書を用意していたので、抗弁書をベラルミーノ枢機卿の証明書とともに、その場で提出した[123]。こうしてこの日の審問は短時間で終わり、ガリレオはトスカナ大使邸に帰された。しかしニッコリーニによると、トスカナ大使邸に戻ってきたガリレオは「半分死んだよう」になっていたという[125][126]。
この時に出された抗弁書には、1616年に言われた禁止令を『天文対話』出版の際にリカルディに言わなかったのは、同書は命令に反していないと考えたからだということ、地動説をいかなる仕方であっても教えてはならないと言われた記憶はないこと、自分の本に欠陥があるのは偽りや不誠実によるのではなくむなしい野心と賢く見せたいという満足感から出たものであること、などが綴られていた[127][128]。
通常の宗教裁判であれば、抗弁を持って裁判は終了し、判決に移るのであるが、異例なことにこの裁判では6月16日に検邪聖省総集会が開かれた。そこでは、ガリレオを拷問してでも尋問して罪を認めたら異端誓絶させたうえで投獄させること、『天文対話』は発禁とすることが決められた[129][130]。この決定に至るまでの経緯については資料が残っていないため定かでない[131]。
6月21日、ガリレオは検邪聖省に出頭した[132]。そしてガリレオは、検邪聖省総主任マクラノの質問に答える形で、自分ははじめ、地球は静止しているという考え方と、地球は日周運動しているというコペルニクスの考え方、どちらも議論の余地があると思っていたが、1616年の決定の後では前者が真であり、コペルニクスの考え方は抱いていないと述べた[133][134]。これに対してマクラノが、真実を述べよ、さもなくば拷問にかける、と言うと、ガリレオは「わたしは服従するためにここにいます。すでに述べたように、決定以後はこの意見を抱いたことはありません」と答えた[135]。
翌日の6月22日、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会にて判決文が読み上げられた[136]。判決文では、1616年にガリレオは大地が動き太陽は静止しているという誤った理論を将来にわたっていかなる仕方においても抱いても擁護しても教えてもならないと命じられたこと、それにもかかわらずガリレオは『天文対話』を書いたことが触れられていた[137]。そして、ガリレオはベラルミーノの証明書を根拠に抗弁したが、その証明書には先述の理論は聖書に反すると述べられているのにガリレオはその理論を擁護し説得しているので、証明書の存在は罪をさらに重くしただけである、と記載されていた[138]。
そのうえで判決文では以下のように命じた。
まず第一に、真摯な心情と汚れない信仰とをもって、上述の誤りと異端と、他の使途伝来のカトリック教会に反する誤りと異端とを、われわれが告げる仕方、形式において、われわれの前で、誓絶し、呪い、嫌うことを条件として、汝が赦免されることをわれわれは喜びとするものである。
そしてこの汝の重大で危険な誤りと違反とが、まったく処罰されないままにならないため、また将来、ますます慎重にし、同様な罪を犯さぬよう他のものの例とするため、われわれはガリレオ・ガリレイの『対話』の書物を禁じるよう、公に命令する。
われわれはわれわれの欲する期間、汝を当聖省内の正式の監獄に投じ、救霊のための贖罪の行為のため、今後三年間、毎週1回、7つの悔罪詩篇を唱えることを課する。上述の刑罰と贖罪の行為の全部あるいは一部を軽減し、変更し、撤回する権限は我々が留保する。[139]
この判決文には、10人から成る異端審問官のうち、7人の署名しかない[140]。署名をしなかった3人(ガスパール・ポルジャ、ラウディヴィオ・ザッキア、フランチェスコ・バルベリーニ)は、判決に反対することを示すためにあえて署名しなかったとの説がある[141]。実際、フランチェスコ・バルベリーニ(ウルバヌス8世の甥)はガリレオに好意的だった[142]。しかし、3人のうちザッキアは当日ローマにおらず、ポルジャとフランチェスコ・バルベリーニはもともと集会への出席率が悪かったことを考えると、署名をしなかった理由が判決に反対するためなのかは定かでない[143][141]。
判決文を受けてガリレオは、「わたしに対して正当にもたれたこの大いなる嫌疑を猊下と誠実なあらゆるキリスト教徒の心からぬぐい去ることを願って、真摯な心と偽りなき信仰をもって、わたしは前述のあやまちと異端を誓絶し、呪い、嫌悪する」などと書かれた異端誓絶文を読み上げた[144]。ただし、この文章自体は検邪聖省が用意したもので、ガリレオが自ら書いたものではない[145]。この後にガリレオが「それでも地球は動く」と言ったという話は後世で有名になったが、状況的に、ガリレオがその場でこの台詞を言うのはあり得ないと考えられている[146][147]。
判決後
判決では、ガリレオは検邪聖省に投獄されることになっていたが、判決翌日の6月23日に、メディチ荘への軟禁に減刑された[147][148]。その後、ニッコリーニはガリレオがシエナに移れるように検邪聖省に申請した。6月30日にそれは認められ、7月上旬に、ガリレオの友人であるシエナ大司教アスカニオ・ピッコローミニのもとで軟禁された[147][149]。また、毎週悔罪詩篇を唱えることは、修道院にいる長女のマリア・チェレステが代わりに引き受けた[140]。
ガリレオに対する判決はすぐにイタリア中の異端審問官に伝えられ、大学にも伝えられた[150][151]。『天文対話』は禁書目録に載せられた。しかし、同書が完全に回収されることはなく、コピーや翻訳によって国内外に広まっていった[152][151]。
ガリレオは1633年の12月にアルチェトリの別荘に戻ることが許された[153]。当初は、「同居人を置くことも、客を招くことも、訪問客と会話することも一切禁止される」との命令であった[154]。そのため、長女のマリア・チェレステなど、限定された人物としか交流を持つことが許されなかった[153]。しかしこの条件はその後緩和され、エヴァンジェリスタ・トリチェリやヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニなどと交流できるようになった[149]。ガリレオはこのアルチェトリで『新科学対話』を執筆し、1642年に死去した[149]。
裁判の原因
聖書の記述
ガリレオの主張する地動説が聖書に反しているとされた根拠は、旧約聖書ヨシュア記第10章12、13節の記述にある[155]。
主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。
「太陽よ、ギブオンの上で動くな。
月よ、アヤロンの谷で。」
民がその敵に復讐するまで、
太陽は動かず、月はとどまった。
これは、『ヤシャルの書』に確かに記されている。太陽は天の中間にとどまって、まる一日ほど、急いで沈むことはなかった。[156]
ここでは、神によって太陽と月が止められたことが書かれている。すなわち、太陽と月は通常動いていると解される[29]。
聖書と地動説との矛盾について、ガリレオは『クリスティーナ大公妃への手紙』で説明している。そこではまず、聖書には誤りがなくても、それを解釈する人は間違いを犯す可能性があると指摘し、「聖書のなかには、言葉のむき出しの意味にとると、真実からかけ離れていると思われる多くの命題があります。これは庶民の理解力に合わせてそのように書かれているのですから、賢明な注釈者は真の意味を示し、そのような言葉が述べられた特別の理由を指摘すべきです」と述べている[157]。
さらにガリレオは同書において、ヨシュア記の記述はアリストテレスやプトレマイオスの体系(天動説)よりもコペルニクスの体系(地動説)のほうに一致していると述べている[158]。すなわち、天動説によれば太陽は地球の周りを東から西に回っているが、太陽を含む天球自体も動いており、太陽は天球にある黄道十二星座の中を移動している。したがって、太陽の固有の動きだけを止めて天球の動きを止めなければ、日没は逆に早まってしまうというのである[159]。一方、地動説のように太陽が中心にある場合、太陽を惑星の運動の根源と考えれば、太陽の動きを止めればすべての惑星の動きが止まるので、ヨシュア記で記されている通り、太陽がその場にとどまることができるという[160]。
以上に述べた、聖書の記述が地動説と一致するというガリレオの説明自体はさして重要でなく、ガリレオは、地動説を批判する人々のように聖書を文字通りの意味にとらえたとしても地動説を擁護しうることを示したものとみなされている[161][162]。しかし、聖職者でないガリレオが聖書の記述を解釈し、地動説への支持を表明したということが広まると、批判を受けるようになった[163][164][140]。
イエズス会との対立
ガリレオ告発の背景には、イエズス会士との対立があったとも考えられている。
ガリレオが『星界の報告』を出版した1610年の時点ではガリレオがローマ学院で天文観測するなど、両者の関係は良好だった[165]。クリストフ・グリーンベルガーのように、地動説の支持に傾いている学者もいた[166][167]。ただし、1616年の裁判以降はガリレオの支持に回ることはしていない[168]。裁判によって教会の立場が表明されたことで、イエズス会士はそれに従わなければならなかったからだと考えられている[169]。ガリレオを研究したジョルジョ・ド・サンティリャーナは、1955年の著書において、イエズス会士の中でも特にベラルミーノの影響を強調し、1616年の裁判でも「当然、歴史的な責任は、ベラルミーノ一人の肩にかかる」と述べている[170]。しかし、ベラルミーノは当時ガリレオに好意的で裁判後には証明書も書いていたこと、ベラルミーノは枢機卿の1人でしかなく全権を握っていたわけではないことなどから、この見解には反論もある[171]。
ガリレオとイエズス会士との関係性が悪化したのは1618年から始まる彗星論争であった。1618年秋の夜空に現れた3つの彗星について、イエズス会士のオラツィオ・グラッシとガリレオとの間で論争になり、グラッシが『天文学的・哲学的天秤』でガリレオを批判すると、ガリレオも『偽金鑑識官』でグラッシを批判するなど、論争は過熱した[172]。ここでの対立によりガリレオとイエズス会士との関係が悪化し、後の1633年の裁判につながったと考えられている[173]。
1633年の裁判の際にも、イエズス会士のうち何人かはガリレオにとって不利になる行動をとったと考えられている[174]。ガリレオが1634年に書いた手紙によれば、イエズス会士グリーンベルガーは、「もしもガリレオが、イエズス会の支持をその手に留めて置く術さえ知っていたら、彼は、相変わらず世間的な名声をほしいままにしており、その不幸のすべてを免れて、何でも好きな主題で著述し、地動説についてさえ、書くことができたことだろう」と言ったとのことである[175][176]。
ガリレオ自身、自分が有罪になったのはイエズス会士との関係に原因があると考えていた[177][178]。親しかったウルバヌス8世が変心した理由がわからなかったため、その原因をイエズス会に求めたのであろうと推定されている[179][180]。ただし、イエズス会が全体としてガリレオと対立し、それが裁判に影響したという証拠はない[174]。ガリレオと彗星論争で対立していたグラッシは、1633年に書いた手紙で、「ガリレオの裁判のことはたいへん気の毒に思う、自分はいつでもガリレオのことが好きだった、彼のほうでそれほどに思っていなくても」と書いている[181]。
ウルバヌス8世と当時の情勢
もともとガリレオに好意的だったウルバヌス8世が『天文対話』とガリレオを批判するに至った理由については、『天文対話』の内容以外に、当時のウルバヌス8世周辺の人物や国際情勢が関係していたといわれている。
ウルバヌス8世が教皇になったときは三十年戦争のさなかで、ウルバヌス8世はフランスを支持していた[182]。当時はドイツとスペインが手を組んでおり、ハプスブルグ家の力が強くなるのを牽制するためである[182][183]。そのためウルバヌス8世は、プロテスタントであるスウェーデン国王グスタフ・アドルフとフランスが協調することも支持していた[182]。こうした教皇の態度は、スペインやドイツの支持者の不興を買った[182]。
1632年3月8日、ウルバヌス8世はスペインのボルジア枢機卿からこの件について直接抗議を受けた[184][81]。これに対しウルバヌス8世の側近も反論し、騒動となった[184]。この事件をきっかけに、ウルバヌス8世は自分の周りから親スペイン派を追い出そうとした。その中の1人に、『天文対話』の出版にも携わっていたチアンポリがいた。チアンポリはボルジア枢機卿の側近とも交流があったためである[184]。さらに同年4月に、チアンポリが教皇の文章を添削したことも教皇の怒りを買った[185]。ウルバヌスが『天文対話』を知ったのはこの時期であったため、チアンポリへの怒りが『天文対話』にも向けられることになった[81][186]。
結果としてチアンポリは同年8月に罷免された。そして同年9月にトスカナ大使のニッコリーニが謁見した際に、ウルバヌス8世はガリレオとチアンポリに対する怒りを爆発させた[187][188]。ニッコリーニが、『天文対話』は許可を得て印刷されたと説明すると、ウルバヌス8世は、ガリレオとチアンポリは余を欺いたのだと返している[186][189]。
原子論への言及
ガリレオ裁判の原因は地動説ではなく、ガリレオが主張する原子論によるものであるという説がある。これは、ピエトロ・レドンディが1983年の著書『異端者ガリレオ』などで唱えた説である[190]。
ガリレオは、物体は細かい粒子(すなわち原子)から成るという、デモクリトスから伝わる原子論に共感していた。そのうえでガリレオは、物体の形、大きさ、運動などは、その物体自身が持つ性質であるが、熱、色、味、匂いなどは、物体自身の性質ではなく、その物体に対峙している生物が感じる主観的なものだと考えていた[191]。これが、当時の、パンと葡萄酒がキリストの肉と血になるという実体変化(聖変化)の考え方と相いれなかったという[192]。
上記のガリレオの原子論に関する主張は著書『偽金鑑識官』にみられるが、この『偽金鑑識官』は検邪聖省から告発を受けている。ピエトロ・レドンディはこの告発状を発見し、ガリレオが批判されたのは原子論が原因であり、さらに1633年の裁判も原子論が真の要因であると主張した[193]。
レドンディの説は発表当時話題となり、その後も一部で支持されている[194]。しかし根拠が薄弱であるなどの反論も多くあり[195][196]、主流な考えにはなっていない[197]。
公証人文書の偽造疑惑
1616年の判決後の出来事を記した公証人文書は、地動説について「いかなる仕方においても、抱いても、教えても、あるいは擁護してもならない」とするものであった。この文書は1633年の裁判においてガリレオが有罪となる重要な証拠になった。しかしこの文書は1616年から1633年までの間に偽造されたものだという主張が19世紀後半以降に現れ、一時期は有力な説となっていた[198][199]。フランツ・ハインリヒ・ロイシュは1870年の時点で、公証人文書に疑念を呈していた[200]。また、エミール・ヴォールヴィルも偽造説を唱え、作成後に文書の最後の部分が削除されて別の語句が付け加えられたのだと主張したが、これについては1928年の調査で否定されている[201]。
この公証人文書は、前日に開かれた検邪聖省総集会の議事録と同じ紙に、同じ筆跡で書かれている[202]。この筆跡はアンドレア・ペッチーニのものと推定されているが、ペッティーニは1624年に死亡している[203]。しかしフランチェスコ・ベレッタは、公証人文書は1632年に、ペッティーニの筆跡をまねて検邪聖省総集会の議事録の余白に書き込んだものだと主張している[204]。偽造説の根拠として挙げられているのは、この文書には公証人や証人の署名がないことである[205][198]。
しかし、筆跡が同じことや、赤外線検査による年代測定により、この文書は1616年に書かれたものだという考えが主流となっている[53][205]。また、署名がないことについては、この命令自体が法定外での出来事であったため、その場で署名を求めることができなかったということもあり得るため、署名がないこと自体が偽造の証明にはならないとの反論がある[202]。
一方で、公証人文書は1616年に書かれたものだが、そこに書かれている内容が実際の出来事と異なっているとする主張もある。すなわち、このときガリレオはセジッツィから「いかなる仕方においても」等と命令されていなかったのに、公証人文書ではガリレオに厳しい内容に書き換えられたとする考えである[53]。この考えをとる研究者としてはジョルジョ・ド・サンティリャーナがいる[205]。しかし、この説についてもその後に反論がなされている[206][207]。田中一郎はこの説を否定する根拠として、1984年に新たに発見された資料にも公証人文書と同趣旨の内容が書かれていること、1616年5月のベラルミーノの証明書にも「擁護しても」という、2月25日の総集会で支持された禁止命令にしかなかった用語が用いられているので翌日にベラルミーノ邸で禁止命令が出されたことは確実と考えられることを挙げている[208]。
なお、公証人文書が正しいとすると、セジッツィ総主任の行動に疑問が出てくる。公証人文書によれば、まずベラルミーノがガリレオに意見の放棄を求め、「それに続いてただちに」セジッツィが禁止命令を出したことになっている。しかし法律上は、総主任の禁止命令は訓告を拒否したときに限られる[55]。したがって、ベラルミーノにガリレオが応答するのを待たずにセジッツィが発言することは通常ありえない。アンニバレ・ファントリは、公証人文書が偽造されたのならばガリレオが拒否したことを書くはずであることを、偽造説を避退する根拠の1つにしている[209]。セジッツィがわざわざ介入した理由は不明であるが、ベラルミーノの発言にガリレオが返答をためらったから[210]、ガリレオが拒否することをあらかじめ知っていたから[211]、セジッツィがベラルミーノの訓告だけでは生ぬるいと考えたから[55]、といった理由が推定されている。
裁判の影響とその後の展開
ガリレオ死後の教会の対応
教皇ウルバヌス8世は、ガリレオが死去した1641年の時点では考えを変えていなかった。サンタ・クローチェ教会の中に、ミケランジェロに匹敵するようなガリレオの立派な墓を建てるという話があったが、それを聞いた教皇は、バルベリーニに対し、「殿下がこのことを実行しようとするなら、それは世界に対してよくない例となる。なにしろ彼はあの偽りと誤りに満ちた意見のゆえにこの検邪聖省に引っ張られたのだから、しかもその意見によって当地の他の多くの人々の心を揺るがし、断罪された教説によってキリスト教世界にかくも広範な騒動を引き起こしたのだから」といったことを語ったという[212]。結局このときは墓の建立は認められず、検邪聖省が建立を認めたのはおよそ100年後の1734年のことであった[213]。
イタリア国外では、状況が異なる国もあった。たとえばイギリスにおいては、ジョン・ミルトンは1637年に幽閉中のガリレオを訪ね、1644年にガリレオを擁護する手記を書いている[214][215]。また、ガリレオの理論を広め地動説を支持したジョン・ウィルキンスは、1640年に著書『新惑星論』を出版し、1668年にはチェスター主教にもなっており、この時点ですでにガリレオに対する大きな反発は見られなかった[216]。
科学者への影響
ガリレオ裁判が科学者に与えた影響として、デカルトの例が挙げられる。デカルトは1633年に書いた手紙で、裁判結果を聞いた感想を「これはわたくしも大いに驚き、すぐに自分の書き物すべてを焼き棄てるか、少なくともだれにもみせるまいと決心しました」と綴っている[217]。そして実際に、当時すでに書き終えていた『世界論』の出版を取りやめた[218]。その著書には、地球が太陽の周りを回っていることが書かれていたためである[219]。しかしデカルトは、数年後には地動説に関する内容を再び書いており、自粛は限定的であった[220]。
フランスの物理学者ピエール・ガッサンディは、当初は裁判結果をしぶしぶ守ったが、1647年にはガリレオの聖書解釈を採用し、「聖書の意図は物理学者や数学者をつくることにあるのではなく、人びとを敬虔で信心深くすることにある」と述べた[221]。イスマエル・ブリョーは1644年、地動説の禁止はイタリアでしか通用しないと書いた[221]。ブレーズ・パスカルは1656年から1657年に書かれた『プロヴァンシアル』において、イエズス会士に対して、「諸君はガリレオに反対してローマの命令を勝ち取ったが、それは空しいものだ」「そんなことをしたって、地球が動かない証明になるわけではない」と反発した[221]。
さらに、17世紀半ばの天文学では観測面での進展が見られ、クリスティアーン・ホイヘンスやジョヴァンニ・カッシーニによる土星の衛星の発見、ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリとフランチェスコ・マリア・グリマルディによる月面図の作成など、太陽系の姿が明らかになっていった[222]。そしてアイザック・ニュートンの時代になると、学者内では地動説は全面的に受け入れられるようになっていた[223]。
教会への反発
1741年、検邪聖省は『天文対話』を含むガリレオ全集の出版を許可した[224]。この全集は4巻からなり、1744年にパドヴァ神学院の印刷所で印刷された[224]。ただし、『天文対話』が含まれる第4巻には、「これはある種の諸現象をより容易に説明するのに役立つ純粋に数学的な仮説としてのみ容認されうるのであり、そのようなものとしてのみ容認されなければならない」などと書かれた「序文」が付けられ、さらに、その目的のために、「カルメット神父の論文」も追加されていた[224][225]。
しかしこの頃には科学者を中心に地動説が受け入れられるようになっており、ガリレオ裁判はカトリック教会の誤りの象徴ともみなされるようになった[226]。そのため、ガリレオを擁護しカトリック教会を批判する言説も目立つようになった。ヴォルテールは1734年に『哲学書簡』で、「ガリレオを罰した連中は、なおさらまちがっていたのである。異端審問官たちは全員、コペルニクスの天球のひとつを見ただけで、魂の底まで恥じ入ったにちがいない」と記した[227]。また、ドゥニ・ディドロとジャン・ル・ロン・ダランベールが編纂して1765年に出版された『百科全書』には、「80歳(実際は69歳)の偉大なガリレオは、地球の運動を発見したために異端審問所の牢獄でうめいていた。無知が権力で武装するときほど人間の本性が堕落することはない」という記述がある[228]。ガリレオが「それでも地球が動く」と言ったという話が初めて登場するのもこの頃(1757年)であるが[229]、これも、当時の人々の願いが反映されたとする見方がある。すなわち、ガリレオは教会に対抗して真実を伝えた英雄であるという考えである[230]。
教会への批判が続く中、『天文対話』は19世紀に入っても、禁書目録に載せられたままとなっていた。『天文対話』を禁書目録に載せることは1633年の裁判において教皇の名のもとに決められたことなので、目録から外すことは教会が自らの誤りを認めることだと考えたためである[231]。
1820年、教皇庁神学最高顧問フィリッポ・アンフォッシは、ジュゼッペ・セッテレの著書『光学と天文学の原理』に対し、コペルニクスの説を支持しているという理由で、刊行許可を出さなかった[232]。これに対し検邪聖省は、セッテレの著書の印刷を妨げないように伝え、さらに1822年には、地球の運動と太陽の不動を論じる著作の出版と許可は教皇庁神学最高顧問によって拒否されるべきではないとする法令が教皇ピウス7世によって認可された[233]。そして、この法令の後の1835年に出版された禁書目録において、『天文対話』はコペルニクスの『天球の回転について』などとともにリストから除去された[234]。
裁判資料の公開
ガリレオの裁判記録は、バチカンに保存されていた。しかし、ナポレオン・ボナパルトが1798年からローマに侵攻し、1810年にはガリレオ裁判記録を含む異端審問所の資料がフランスに運びだされた[235]。これには、ガリレオ裁判の記録を出版してカトリック教会の蒙昧さを示すという目的があった[235]。そのため1811年からは裁判記録のフランス語への翻訳作業が始まり、裁判の要約である摘要報告書と、1616年の裁判記録が翻訳された[236]。しかしこの作業は、1814年にナポレオンがエルバ島に島流しになったことにより中断された。そのため、1633年の裁判記録は翻訳されなかった[236]。
1814年、ルイ18世はナポレオンが押収した文書をローマに返還することを決めた[237]。ガリレオの裁判記録も返還されることになったため、ローマ教皇庁のマリーノ・マリーニは王室担当大臣のルイ・カシミール・ド・ブラカ伯爵に手紙で何度か返還を求めた[238]。それに対しブラカは1815年2月に、ルイ18世が裁判記録を読みたがっているので、読み終わり次第引き渡すと答えている[238]。しかし翌3月にナポレオンが百日天下で戻ってきたことで状況は混乱し、裁判記録は紛失してしまった[239]。
1830年、ブラカ伯爵はフランス7月革命の際にウィーンに亡命し、そこで死亡した。その後の1843年、ブラカ伯爵夫人は書斎にガリレオ裁判記録があることを見つけ、ウィーンの教皇使節に連絡した[240]。こうしてガリレオ裁判記録はバチカンの秘密文書庫に戻された[240]。
ナポレオンの指示で翻訳されたガリレオ裁判記録は出版こそされなかったものの、一部の人の目にすることにはなった。しかし、一部文書のみの翻訳であったことと、翻訳のもともとの目的が教会を批判することであったため、ガリレオ側に偏った印象を与えることになったといわれている[236][241]。
バチカンに戻された裁判記録はしばらく日の目を見ることがなかったが、ローマ共和国時代に、共和国の大蔵大臣ジャーコモ・マンゾーニと、後の文部大臣シルヴェスト・ゲラルディは検邪聖省の文書庫に立ち入り、関連文書を写した[242]。この時の資料は、1870年に発表された[242]。一方、立ち入れられたことを憂いた教会側は、1850年、裁判記録を一部引用した著作『ガリレオと異端審問―ローマ考古学学会のための歴史的批判的覚書』を発表した[242]。同書の目的は、検邪聖省がガリレオを非人道的に扱ったという疑いに対して教会側から弁明することであった[243]。
フランスのアンリ・ド・レピノワはこの著書を批判し、裁判記録を調査する許可を得て1867年に『ガリレオの裁判と断罪―未刊文書による』という著作で裁判記録を公開した[243]。しかし、ここで公開された文書も全文ではなかったため、ドメニコ・ベルティはレピノワを批判し、同じく裁判記録を調査する許可を得て1876年に著書を出版した[243]。この批判に促されてレピノワは1877年に新たな著書を発表した[243]。また同年にはドイツ人研究者のカール・フォン・ゲーブラーがガリレオ文書を発表し、翌年には伝記を出版した[244]。
このようにローマ教会は、限られた研究者には裁判記録を見せていたのであるが、一般には開放していなかった。しかし、1880年から1881年にかけて、教皇レオ13世はバチカン秘密文書庫の開放を布告し、これにより文書が開放されることになった[245]。そして1890年から1909年に、裁判記録は『国定版ガリレオ・ガリレイ全集』に収録された[245]。
19世紀以降の議論

19世紀においても、ガリレオ裁判を宗教と科学の対立ととらえることが多かった[246]。特に、ジョン・ウィリアム・ドレイパーとアンドリュー・ディクソン・ホワイトの著書は科学と宗教の対立という観点を構築する点で重要な役割を果たした[247]。また、オーギュスト・コントらの実証主義者や、自由思想家、科学者らは、教会の反啓蒙主義にあらがう者の代表としてガリレオをとらえた[248]。また、この時代には裁判の様子を描いた絵画も多く発表され、そこでは教会と対立するガリレオの様子が描写されていた[248][249]。
逆に教会側からの反論もみられた。神父のアレクシス・アドルワンは1833年に、ガリレオは頑固、執拗、皮肉、大胆さゆえに有罪とされるべきだと述べた[250]。1904年、後のオルレアン司教のジビエ神父は、ガリレオはひどい扱いを受けたといわれるが、6か月幽閉されただけで長寿を全うしていると述べた[250]。さらに、ガリレオを有罪とした判決には教皇の署名はないので教会はこの事件にかかわっていないとも反論した[251]。フランスの神学者エルフェージュ・ヴァカンダールやピエール・オーバネルも同様に、教会の責任を否定した[252]。
一方で、裁判文書の公開を許した教皇レオ13世は、1893年に回勅『大いなる摂理の神』において、「まず第一に、聖書を書いた人びとはいろいろなことを叙述し、比喩によったり、あるいはこんにちに日常生活で使われているような普通の言語によったりしながら語ったということを考慮しなければならない」と述べた[253]。これはまさに、ガリレオが『クリスティーナ大公妃への手紙』などで主張していたことそのものである[253][245]。しかしそのレオ13世も、ガリレオを直接擁護することはしなかった[254]。
1941年、ローマ教皇庁科学アカデミーは、来る1942年のガリレオ没後300年に向けて、ガリレオの伝記を出版する計画を立てた[255]。学長のアゴスティーノ・ジェメッリは、この任務をピオ・パスキーニに担当させることにしたうえで、「この企画された書物は、教会はガリレオを迫害したのではなく、むしろその研究を大いに支援したということを効果的に証明するでしょう」と述べた[255]。ところが3年後に完成したその伝記は、ガリレオを弁護するものだとみなされたため、出版は許されなかった[256]。この伝記が出版されたのは20年後の1964年のことで、しかも本文は修正されていた[256]。
1962年、ローマ教皇ヨハネ23世により、カトリック教会の公会議である第2バチカン公会議が開かれた[257]。そして1965年、ヨハネス23世の後を継いだパウロ6世により、『現代世界憲章』が公表された[256]。当初、この憲章では教会がガリレオに対してなした誤りを認めようという提案があった[256]。しかし反対意見が多く、最終的には、「ここでわれわれは、ときにキリスト教徒の間にも見られたある種の精神的態度を嘆かずにはいられない。それは、科学の正当な自律性を十分に理解しなかったために生じたものであり、誤解や論争を引き起こすことで多くの魂を信仰と科学は互いに対立すると考える地点にまで追いやったのである。[258]」という文章を入れるにとどまった。同箇所には注釈として、1964年に出版されたパスキーニの(訂正済みの)伝記を参照するようにと書かれている[258]。
第2バチカン公会議の時点では、旧来のように教会の責任を認めない考えが教会内に根強く残っていた。しかしその後は、教会の責任を語らずにいることは時代錯誤とみなされるようになっていった[259]。
ヨハネ・パウロ2世の演説

1979年11月10日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はローマ教皇庁科学アカデミーで開かれたアルベルト・アインシュタインの生誕100年を祝う会でガリレオについて演説した[260]。「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」と題されたその演説では、ガリレオは教会内部の人間や機構の手によって苦しまなければならなかったことを述べた[261]。そして、第2バチカン公会議の採択をさらに推し進めるために、ガリレオ裁判の調査研究をいっそう深め、誤りを率直に認めることを望むと述べた[262]。
この演説がきっかけとなり、1981年にガリレオ問題調査委員会が設立された。委員会では聖書釈義部門、文化部門、科学・認識部門、歴史・法律部門の4つの専門調査部会が設けられた[263]。委員会の活動により、これまで非公開だった裁判記録の公開が始まった[264][265]。
1992年、10年以上にわたる調査が終了したのを機に、ヨハネ・パウロ2世は同じ場所で再び演説した[260]。このときは、まずポール・プパール枢機卿による調査結果の報告があり、次いでヨハネ・パウロ2世の演説となった[266]。ヨハネ・パウロ2世はこの演説で、当時は太陽中心説と聖書は両立可能かということが問題とされており、それに対して神学者の多くはどう反応してよいか分からなかったが、ガリレオは神学者たちより鋭い感覚を持っていたと論じた[267]。そして、「神学者の大部分は、聖書とその解釈との間に明確な区別を認めていませんでした。だからこそ彼らは、実は科学研究に帰すべき問題を、信仰についての教義の問題の中に持ち込むという誤りを犯してしまったのです」と述べた[268]。続いて、プパール枢機卿の報告の中から、1633年の判決は変更不可能と思われていたこと、しかしその問題は1820年のセッテレの著書を認めたときに終結したことを取り上げ[268]、科学の精神とキリスト教信仰は両立しないという嘆かわしい誤解は過去のものになったと述べた[269]。
ヨハネ・パウロ2世の演説は、ガリレオ裁判における教会の誤りをローマ教皇が認めたとして話題となった[260]。
ヨハネ・パウロ2世の跡を継いで2005年に教皇となったベネディクト16世は、枢機卿時代の1990年に、ポール・ファイヤアーベントの発言を引用して、ガリレオ裁判の判決は妥当であったとの見解を示したことがあった [270][271][272]。そのため、教皇就任後の2008年1月17日に予定されていたローマ大学サピエンツァ校での講演が、同大学の科学者60名以上の抗議により中止になったこともあった[271]。しかし2008年12月21日、バチカンのローマ法王庁において「彼の研究は(キリスト教の)信仰に反していなかった」と発言し、ガリレオの地動説を公式に認めた[273][272]。世界天文年となる翌2009年には、ガリレオの誕生日2月15日に、ローマ教皇庁として初めてガリレオにミサを捧げ祝福した[274][272]。
研究の進展
ガリレオ裁判の記録としては、1984年にバチカン出版局から『ガリレオ・ガリレイ裁判資料集』が出版された。同書は今までの『国定版ガリレオ・ガリレイ全集』に収録されていない議事録が追加された[275]。ただし、1633年の判決文と異端誓絶文が欠けているため、完全なものではなかった[276]。1998年には検邪聖省の後身となる教理聖省の文書が公開され、研究者たちによって未公表の資料が発見された[276]。そして、これらの資料を加え、2009年には増補版となる『ガリレオ・ガリレイ裁判バチカン資料集(1611-1741)』が出版された[277]。この資料集の出版により、ガリレオ裁判に関する資料はほぼすべて公開されたと考えられている[278]。
裁判の研究ではドレイパーとホワイト以降、長らく科学と宗教の対立という観点で論じられていた[279]。しかし、1950年代以降はこうした観点からの主張は弱められている[247]。例えばジェローム・J・ラングフォードは1966年に、ガリレオは科学者であると同時に信仰者でもあったことを踏まえ、科学と教会は別々の領域にあって対立するものではなく、お互いが本来の領域を越えて他方の領域に入り込んだことによって問題が発生したと述べている[280]。リチャード・J・ブラックウェルは1990年代に、教会の権威は中央集権的で変化に抵抗するものであり、それが科学的権威と相いれなかったことを論じ、仮に教会の権威がより強まれば第2のガリレオ事件が起こりうると指摘している[281][282]。
科学と宗教の対立という構図に単純化してはならないとする見方も現れてきている。Rivka Feldhayは、当時の教会にはドミニコ会とイエズス会の対立があり、聖書の解釈についてドミニコ会は伝統に忠実で、イエズス会は新しい考えを吸収しようとする傾向にあったことを指摘している[283][284]。モーリス・フィノッキアーロは、当時のカトリック教会にもガリレオの意見に近い考えを持つものもおり、一方で科学的な面からガリレオに反対していたものもいたことを指摘し、保守的な見解と革新的な見解の対立であったと論じている[285]。