キエフ・ルーシの装飾

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本項はキエフ・ルーシの装飾(キエフルーシのそうしょく)について述べる。

(留意事項)本項では、本項の対象とする期間(9世紀末から1240年まで)を指す場合には「キエフ・ルーシ期」を、領域(キエフ大公国及びルーシの諸公国の統治領域)を指す場合は「ルーシ」を用いている。また、物品にほどこされた模様・図柄等を対象とする。建築・室内装飾や、装飾用の物品そのものなどについては、他の項目を参照されたし。

キエフ・ルーシ期における装飾美術について、後世のロシア国家(帝政ロシアなど)においては、歴史学者や芸術学者が研究した例は稀であった。装飾に関する研究は、帝政ロシア期からソ連期にかけての古文書学者V.シェプキン(ru)によって、研究の方法論の下地が作られた。シェプキンは、装飾の起源や構成要素、主題、変化の性質などを示し、個別の要素から全体的な模様を形成していく仕組みを公式化した[1]。また、シェプキンは、キエフ・ルーシ期における、動物・植物をモチーフにした装飾の分布度合いは、その外観から明確に区分できるとみなした。また、植物モチーフの装飾は主に、キエフ・ルーシ期の特に古い時期のレートピシ(年代記)の装飾に用いられていると指摘した[2]

武具

キエフ・ルーシ期には、武器に対する装飾はそれほど多くなかった[注 1]。ただし例外的に、(両刃剣)の柄(持ち手。以下、本文節の「柄」は「絵柄」ではなく握る部分を指す。)にはしばしば象嵌(はめ込み細工)が施された[3]。特に注目される剣としては、以下のものが挙げられる。

  • 鍛冶屋リュドタの剣(ru)[注 2]:ウクライナ出土。柄は怪物をモチーフにした絵で装飾されている。刀剣そのもの製造はスカンジナビアの技術によるものとみられるが、柄の装飾にルーシの職人の技術が加えられている[5]。また、刻まれた文字に対する古書体学の見地からは、11世紀の文字だとみなされている[6]。なお、剣の名称は刃の表裏に刻まれた文字(銘文)によるが、個人名末尾は判読不明であるため、リュドシャとする説もある。
  • キーウの、民兵の埋葬地出土の剣:10世紀。
  • ドニエプル急流(ru)[注 3]出土の剣:10世紀。スカンジナビア様式の剣。
  • スラヴ(слав)と文字が刻まれた剣:11世紀[7]。断片のみ現存。 

なお、12世紀以降にはサーベル(片刃剣)が広く普及したが、一部のサーベルの柄(鉄製)にも、銀で象嵌を施したものがみられる。

装飾の施された斧としては、11 - 13 世紀に製造された、アンドレイ・ボゴリュブスキーの斧と呼ばれるチェカン(斧頭の一端は刃、一端はとなっている斧[注 4])が出土している。その。刃の片面には、ズベリヌィー・スチリ(ru)(動物意匠[9]、アニマル・スタイル[10]。キエフ・ルーシ期以前に黒海北岸等で繁栄したスキタイ人の用いたモチーフ[11])に類似する、動物をモチーフにした象嵌が施されている。また、その裏面には二羽の鳥が刻まれている。加えて、鳥の刻まれた面の、刃と槌の中間(柄に接続する部分)にはキリル文字аが刻まれており、аの頂点には、文字を囲むように彫られたズメイ(物語中の悪龍[12])を貫くための針が付けられている。キルピチニコフの説では、これはルーシのブィリーナ叙事詩)の内容と関連したものであるとされている。

また、ロシア・イヴァノヴォ州シェクショヴォ(ru)から出土した斧(ru)には、銀による象嵌と、リューリク朝を示す印章が刻まれている。刻まれた印章は刃が三本のものと二本のもの(三叉槍、二叉槍)があるが、このうち二叉槍は、S.ベレツキー(ru)の仮説では、スヴャトポルク・オカヤンヌィを示しているとされている[13][注 5]

装身具

キエフ・ルーシ期の装身具は、指輪、腕輪、首飾り(グリヴナズメエヴィク、バルムィ(ru)[14])、頭飾り(コルトリャスナヴィソチノエ・コリツォ)などが出土している。いくらかの高価な日用品が、上流階級にも、また庶民にも普及していたとみることができ[15]、キエフ・ルーシ期の、個人的な装身具に装飾が施される例は、武具に対しての施工よりも多くみられる。

このうち、宝石入り指輪(本項では以下「ペルステニ」と表記する[注 6])は、宝石を備え付ける銅製の厚い金属板(石座、シャトン(fr))を持ち、指にはめる輪の部分(腕、シャンク(en))は、3 - 5箇所に複雑な模様が付けられている[15]。輪の太さ(リング幅)の最も大きいものは9mmあり、輪の長さ(指輪サイズ)の最も長いものは60 - 65mmになる。考古学者の見地では、これらのペルステニと、ヴャチチ族の文化との間に関連性があることは確実であるとみなされている[17]。ペルステニの大部分は埋葬地から発見されているが、文化層(ru)(住民の生活区域の跡地)から発見された例もある。また、ペルステニの大部分は11世紀に制作されたものであり、それ以前のものはわずかである。なお、鋳造に用いた鋳型は未だ発見されていない。

14点のペルステニからはエナメル七宝細工の塗料)の痕跡が検出されている。色の内訳は、赤8点、緑2点、判別不明4点である。また、いわゆる「クニャージスキー / 直訳:クニャージの(ペルステニ)、の(ペルステニ)」と呼ばれている、印章が刻まれた指輪(印章指輪(ru)[18]、シグネットリング)も複数発見されているが、これらには、それほど精巧な装飾は施されていない。

他種の、装飾の施された装身具の例としては、1970年にキエフ・ルーシ期の都市リャザン(現ロシア・リャザン州スタラヤ・リャザン(ru)。以下スタラヤ・リャザン)跡地から出土した、銀製のコルト(頭飾りの一種)と腕輪があり、どちらも動物意匠で装飾されている[19]

この銀のコルトは、円周にそって植物の巻きつるが描かれ、中央部には、絡み合う帯状の模様の中に想像的な野獣が描かれている。これに類似した怪物は、12 - 13世紀のルーシの動物様式の特徴的なものであり、ウクライナ・チェルニーヒウ州チェルニーヒウで出土したコルトにも描かれている[20]。また、この銀製の腕輪には、装飾模様と野獣のような生物が描かれており、スラヴ神話の影響を受けた製品とみなすことができる。装飾の色彩は、模様・生物は銀色、模様・生物の下地は光沢のない黒である。縁取りにはギルディング(金箔加工)が施されている。制作においては、おそらく金属製の抜き型を用いることで、同一あるいは左右反転した絵柄を複数描くことを可能にしたとみられる。なお、彫刻自体は手彫りであるため、それぞれの絵柄の細部は異なっている。1970年出土のこの腕輪は、1966年にスタラヤ・リャザンで発見された腕輪と装飾が類似しており、同一の工房で制作された可能性が示唆される。

上記の2点以外にも、別のコルト、ポドヴェスカ(ru)(下げ飾り[21]。下げる箇所が首に限定されないペンダント。)、ネックレスなどの、装飾が確認しうる装身具がスタラヤ・リャザンから出土している。なお、スタラヤ・リャザンからの装身具の出土数は40点以上になる。

書籍

脚注

参考文献

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