ギオチャンガ
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略歴
都督フマンの第四子として生まれた。フマンの六子 (六祖) はそれぞれに城を築いて分住し、ギョチャンガは他の五城から「近きは五里、遠きは二十里」の距離に位置するヘトゥアラ地方を拠点とした。[3]
六祖がそれぞれに拠点を構え始めた頃、近辺部落に有力な二つの氏族がいた。碩色納ショセナの九人の子はみな強悍であった。加虎ギャフの七人の子はみな軽捷かつ剛力であった。二者とも武力を恃んで各地を侵犯掠奪していたが、才智に富むギョチャンガと英勇を誇る子リドゥンは、寧古塔貝勒ニングタ・ベイレ (ギョチャンガの兄弟) を率いて出兵し、ショセナの九子とギャフの七子を討滅した。五嶺から東とスクスフ河から西の200里の諸部族が服従したことで、六祖の勢力は伸長した。[3]
一方、遼東巡撫・侯汝諒の奏文には「賊首」として名前が挙がっていることから、ギョチャンガは建州右衞都指揮使・王杲の明辺塞への入寇に関与していたとされ、その後改悛し入貢するようになったという。[7]
横死
→「明無端起釁邊陲害我祖父」を参照
明万暦11年1583旧暦2月、明朝は、辺境を度々侵犯し治安秩序を混乱させているとして、スクスフ・ビラ部グレ城主アタイの征討を決め、将軍に李成梁、先導にギョチャンガと子タクシ (ヌルハチ父) を任命した。ギョチャンガは明の官軍とともにグレ城に向かったが、アタイに嫁いだ孫娘の救出とアタイ招降のためにグレ城内へ入ったところを、同じくスクスフ・ビラ部に属するトゥルン城の城主ニカン・ワイランに煽動された明軍により、タクシともども「誤殺」された。
この事件は後に七大恨の第一条 (恨一) として、ヌルハチに明征討を決意させた。