1818年6月25日、コネチカット州ギルフォード(英語版)に生まれた[1]。父はハービー・リート、母はサリー・フォウラー・リートで、リート家は地元の名門だった[1]。クララは長女で、3歳の時に妹のサラが生まれたが、母は産後に20歳で亡くなった[1]。父は娘たちを連れてノースカロライナ州ファイエットビルに移住し、サラ・クックと再婚した[1]。異母きょうだいとして弟4人と妹1人が生まれた[1]。父は商人として成功し、ファイエットビル第一長老教会の筆頭長老として奉仕した[1]。クララもこの教会員で、ヘボンともここで挙式した[1]。
クララは学業を終えるとペンシルベニア州ノリスタウンのノリスタウン・アカデミーで助教になった[1]。開業医のジェームス・カーティス・ヘボンと出会い、共通の関心事である海外伝道について語り合い、結婚を約束した[1]。1840年10月27日に結婚式を挙げ、アメリカ長老教会シャム派遣宣教師として1841年3月15日にボストンを出港した[1]。
シンガポールで2年を過ごし、アモイに転任して長男のサムエルが生まれた[1]。念願の病院を建てて医療伝道が軌道に乗ったころにクララがマラリアにかかって重症になった[1]。マカオへの転地療法も効果がなく、本国への帰還を決め、1845年11月30日にマカオからニューヨークに向けて出港した[1]。
ヘボンは帰国後にニューヨーク市42番街で診療所を開き繁栄したが、幼い息子たち3人を次々に亡くした[1]。夫妻は1859年に病院経営を打ち切って日本への伝道に向かった[1]。このときヘボンは44歳、クララは41歳で、唯一の息子となった14歳のサムエルは知人に預けた[1]。
1860年春、クララは滞在先の成仏寺で英語を教え始めた[1]。日本初のミッション・スクールとも言える[1]。アメリカにいる息子サムエルに問題が起き、クララが1861年9月17日に一人で帰国したため、英語クラスは一時中断した[1]。1863年3月30日にクララが日本に戻り、横浜居留地39番の新居で9月から英語クラスを再開した。のちのヘボン塾で、在日ミッションでは「ミセス・ヘボンの学校」と呼ばれた[1]。ヘボン邸ではクララの英語クラスとヘボンの医学生指導、日曜学校が開かれて多くの男女生徒が通った[1]。クララの教え子には林董、高橋是清、益田孝、三宅秀、早矢仕有的らがいる[1]。
1870年9月、メアリー・キダーがクララの助手となり、授業を受け持って男女の生徒たちを指導した[1]。1871年11月、ヘボン夫妻が『和英語林集成』第2版印刷のために上海に向かうと、指導する女子クラスを自分の管理下に置いて、より完全なキリスト教教育を施したいと考えるようになった[1]。ヘボン夫妻が上海から戻った1872年7月、神奈川県権令大江卓が私費で用意した野毛山の官舎の一棟に女子生徒28名を連れて移った[1]。この女子クラスがフェリス女学院の前身となった[1]。フェリス初期の生徒である若松賤子、奥野久子(奥野昌綱の娘)、岡田鋼らはヘボン塾出身である[2]。
1872年10月から1873年11月まで、ヘボン夫妻は休暇のため一時帰国した[1]。この間にキリシタン禁制の高札が撤去され、キリスト教は政府黙認となった[1]。欧米の諸教会から宣教師が派遣され、私塾や各派の学校が多数つくられた[1]。クララは従来の私塾ではなく在日ミッションの事業として横浜の女子教育の拡充を目指し、1874年1月に全日制の学校を始めた[1]。
女子教育に特化する予定で開校したが、男子の入学希望者が多く、5歳から14歳までの男女25人の共学校として始まった[1]。クララが英語を教え、ヘボンが日本語で福音書を説き、ヘンリー・ルーミスやO・M・グリーンも別クラスで地理や世界史、算数、文法などを担当した[1]。
男子教育を強化する方針を立てた在日ミッションは、1875年8月に教育の専門家であるジョン・クレイグ・バラを迎え、男子部の改革が始まった[1]。1876年春、ヘボン夫妻が横浜居留地39番の宣教師館から山手に転居し、ジョンとリディア・バラ夫妻がその後に入居した[1]。男子部は「ミセス・ヘボンの学校」から独立して「バラ学校」と呼ばれるようになり、のちに築地大学校、明治学院へと発展した[1]。残った女子部はクララだけでは手が回らず、リディア・バラが支援した[1]。クララの健康不安もあり、ヘボンの要請で1876年10月31日にベル・マーシュ(Belle Marsh,1847-1896)が来日して女子生徒の指導にあたった[1]。マーシュは優れた指導力を発揮したが、1879年10月にアメリカ・バプテスト教会の宣教師トーマス・ポートと結婚してバプテスト教会に転籍した[1]。女子クラスは再びクララが担当した[1]。
女子クラスは住吉町教会隣接の建物に移転し、ヘボンの再度の要請で1880年1月、カロライン・T・アレキサンダー(Caroline Tuck Alexander,1854-?)が横浜に派遣された[1]。ヘボン夫妻が静養のため欧州に滞在した1881年3月から1882年1月まではアレキサンダーが責任者となり、校名が「ミセス・ヘボンの学校」から「住吉学校」になった[1]。1883年9月にアニー・B・ウエスト(Annie Blythe West,1860-1941)が横浜に来てアレキサンダーを支援した[1]。
1885年7月、アレキサンダーとウエストは頌栄女学校で教えることになり、東京に移転した[1]。アレキサンダーが週2回横浜に通い、残りの授業は日本人教師6人が分担した[1]。生徒が増え1888年末には270人を超える大きな小学校になった[1]。1890年2月からはオリエッタ・ケイス(Orietta W.Case)が校長となり、順調に学校の管理運営をおこなってクララを安心させた[1]。
ヘボン夫妻は最後の奉仕として新たな教会堂の建設を計画し、1892年1月、尾上町に赤レンガの新会堂を建て、住吉町教会をここに移して「指路教会」とした[1]。同年10月22日、高齢を理由にアメリカに帰国し、ニュージャージー州イーストオレンジに住んだ[1]。クララは1901年ごろから精神を病み、症状が悪化して病院を転々とし、見舞いに来た夫を識別できなくなった[1]。1906年3月4日、肺炎のため88歳で亡くなった[1]。
住吉小学校は1899年8月3日に公布された「私立学校令」の私立小学校の禁止、および「文部省訓令第12号」の一般教育における宗教教育の禁止によって閉校した[1]。