1829年8月19日にニューヨーク州ウースターで生まれた[1]。父はウィリアム・クッシング(William Cushing)、母はベッツィー・クッシング(Betsey Olmstead Cushing)で、10人きょうだいの6番目だった[1]。
1852年8月11日に長老教会の牧師だったオーランド・ベントン(Orlando Newell Benton、1827-1862)と結婚した[1][2]。1856年に長女が生まれたが生後すぐに亡くなった[1]。
オーランドは南北戦争に従軍し、重傷を負って1862年3月15日に戦場で亡くなった[1]。1864年に次女を、1865年に長男を亡くし、家族はオーランドの死後に生まれた次男のオーランド・ジュニアと二人だけになった[1]。
1873(明治6)年、宣教師として米国婦人一致外国伝道協会 (WUMS)からアメリカン・ミッション・ホーム(のちの共立女学校)に派遣され[2]、10月26日に横浜に着いた[1]。11歳の息子を米国に残して44歳での来日だった[2]。
1874年11月4日、WUMSから中国に派遣されていたメアリー・トゥルーが任地を替えて来日し、アメリカン・ミッション・ホームの教師となった。リディアとは旧知の仲で、再会を喜び、協力しあった[2]。岡見京、加藤(鈴木)まさ、菱川やす、櫻井ちからに大きな影響を与えた[1]。校長のメアリー・プラインとは教育方針をめぐって衝突した[2]。
ジョン・クレイグ・バラと再婚し、1875年7月16日、ヘンリー・ルーミスの司式で結婚式をした[1]。7月30日に夫婦で米国長老教会在日ミッションに加入した[1]。
ジョンはヘボン塾の男子部を受け継ぎ、のちにバラ学校と呼ばれるようになった[2]。リディアは夫を補佐してクララ・ヘボンの女子部を支援した[2]。
1876年春、ヘボン夫妻が横浜居留地39番の宣教師館から山手に転居し、ジョンとリディアがその後に入居した[1]。10月に宣教師ベル・マーシュ(Belle Marsh)が派遣され、1879年10月までバラ学校で教鞭をとった[3][4]。マーシュはバラ夫妻と居留地39番で同居していたが、リディアの指導法に不満を持つなど関係は良好ではなく、メリー・ジェーン・グリーン(ダニエル・クロスビー・グリーン夫人)やクララ・サンズとの交流、およびトーマス・ポートとの結婚を機に1879年にバプテスト教会に転籍した[4]。
1878年末、リディアは通称「お茶場学校」を開き、輸出用の日本茶の茶葉に火を入れるお茶場で働く日雇労働の女性たちの子どもを宣教師館に集めて世話をし、年長の子には讃美歌や聖書を教える活動をおこなった[1][2]。
1880年、バラ学校が築地居留地に移設されて築地大学校となり、ジョンが校長になった[2]。ジョンとリディアは4月に築地居留地に移り、お茶場学校は住吉町教会(現在の横浜指路教会)に引き継がれた[1][2]。
東京に転居後、リディアは重い肺炎にかかって闘病生活を送った[1]。このときの経験から、日本での看護学校設立を企画した[1]。
1882年9月、息子のオーランドが保養のために母のもとに来た[1]。築地大学校の教師に採用され英学を担当し[1]、のちに東京大学、一高、同志社でも教えた[1]。息子との再会の喜びも束の間、リディアは心臓を患ったジョンとともに一時帰国するため、1882年10月20日に横浜を出港した[1]。
リディアはアメリカの各地で日本での看護学校設立の必要性を訴えた[1]。日本への帰国を控え、1884年1月にフィラデルフィアの長老教会婦人伝道局で開催された祈祷週間に参加して注目を集め、看護学校設立に多くの賛同を得たが[1][5]、1月13日、肺炎のため54歳で急死した[1][2]。
葬儀は1月16日にフィラデルフィアで行われ、市内のモニュメント墓地に埋葬された。3月2日にジョンによって前夫オーランド・ベントンと子どもたちが眠るニューヨーク州オウィーゴ墓地に改葬された[1][2]。
看護学校設立の企画はトゥルーに受け継がれた[2]。1886年12月、トゥルーやアンナ・K・ディビスらの尽力で桜井女学校内に看護婦養成所が開校したが、伝道局の援助が続かず、二年後に閉鎖された[1]。トゥルーは看護学校設立の目的を果たせないまま1896年に死去した[1]。リディアとトゥルーのかつての教え子たちにより、1898年に衛生園看護婦養成所が開校されたが、1906年に廃校となった[1]。