クロード・ミシェル
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フランス北部のナンシーで生まれた。父親のトマ・ミシェル(Thomas Michel: ?-1751)は彫刻家で、母親のアンヌ(Anne)は多くの彫刻家を輩出した、ロレーヌの「アダム家」の出身だった。 2人の兄、シジスベール・フランソワ・ミシェル(Sigisbert François Michel: 1728-1811)とピエール・ジョゼフ・ミシェル(Pierre Joseph Michel:1737-1787)も彫刻家になった。小さなクロードを意味する「クロディオン」と呼ばれるようになった。
1756年から、王立絵画彫刻アカデミーの彫刻科の学生となり、彫刻家の叔父のランベール=シジスベール・アダム(Lambert-Sigisbert Adam: 1700-1759)のもとでも修行した。1759年に叔父が亡くなった後、ジャン=バティスト・ピガール(Jean-Baptiste Pigalle)の弟子となった。1759年にアカデミーのコンクールに彫刻作品が1位となり、奨学金を得て王立特待生学校(École royale des élèves protégés)で3年間修業した後、1762年8月から在ローマ・フランス・アカデミーに派遣された[2]。
彫塑の技術に優れ、小さなテラコッタ製の塑像を制作し、人気を得た。1766年に初期の代表作とされるローマ神話の女神ミネルヴァを題材にした作品「Minerva」(高さ47.6㎝)を制作した[2]。
大理石彫刻の作品も制作し、1766年に第7代ラ・ロシュフーコー公爵から注文を受け、1768年にロシア皇帝エカチェリーナ2世の注文を受けて聖母像を制作した。規定の3年間の留学期間を終えた後もローマに滞在し、1771年3月にローマを離れた[2]。.
1773年に帰国すると、いくつかの作品を王立絵画彫刻アカデミーの展覧会に出展し、教員資格(agrégation)をえた。1773年から1774年の冬に2度目のローマ滞在をし、テラコッタのレリーフを制作し、ルーアン大聖堂などのための彫刻の材料となる大理石を入手した。
1774年にルイ16世が即位した後、彫刻家としての人気が高まり、パリに邸宅を建てる貴族たちから注文を受け、建築家アレクサンドル=テオドール・ブロニャール(Alexandre-Théodore Brongniart: 1739-1813)から依頼を受けていくつかのレリーフを制作した。
1778年に王室からの注文でルーヴル宮殿に展示される予定の27点のフランスの偉人を題材にした彫像を制作するプロジェクトの一人に選ばれ、モンテスキューの座像を制作したがこのプロジェクトは実現しなかった。1782年に彫刻家オーギュスタン・パジュー(1730-1809)の娘カトリーヌ・フロール・パジュー(Catherine Flore Pajou: 1764-1841)と結婚したが、その後離婚した。フランス革命による混乱により、1792年にナンシーへ移り、1798年までそこに留まった。
1795年から彫刻家の仕事を再開し、1801年までにはパリのサロンに再び出展をはじめた。
1814年にパリで75歳で亡くなった。