グルゲン (イベリア王)
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| グルゲン გურგენი | |
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1006年に制作されたイシュハニ教会の碑文。「諸王の王グルゲン」と刻まれている。 | |
イベリア王 | |
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在位期間 994年 – 1008年 | |
| 先代 | バグラト2世 |
| 次代 | バグラト3世 |
| 死亡 | 1008年 |
| 王朝 | バグラティオニ朝 |
| 父親 | バグラト2世 |
| 配偶者 | グランドゥフティ |
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子女 バグラト3世 | |
| 信仰 | ジョージア正教会 |
グルゲン(ジョージア語: გურგენი、ジョージア語ラテン翻字: Gurgeni、1008年没)は、グルゲン・マギストロス、グルゲン2世マギストロスとも呼ばれる。史料によってはグルガン (Gurgan) またはグルゲン (Gourgen) と転写する場合もある。グルゲンはバグラティオニ朝出身の王(メペ)であり、994年から1008年までイベリア王国を支配した。「諸王の王」(მეფეთ-მეფე) の称号を帯びた。「マギストロス」はビザンツ皇帝バシレイオス2世から授与された称号である[1]。グルゲンは、後に統一ジョージア王国を成立させたバグラト3世の父でもある。
グルゲンはジョージア・バグラティオニ朝のカルトリ支系の一員であり、タオ=クラルジェティを本拠とした。グルゲンの父は、958年から994年までイベリア王として在位したバグラト2世である。
グルゲンはアブハジア王ギオルギ2世の娘グランドゥフティと結婚した。グランドゥフティは960年頃に息子バグラトを出産した。バグラト3世はグルゲンの近親者でありタオの有力な大公であったダヴィト3世クロパラテスの養子となり、後継者に指名された。
975年、まだ少年であった息子バグラトは、ダヴィト3世によってカルトリの公(エリスタヴィ)として据えられた。この時期、グルゲンは単なる名目的後見人ではなく、カルトリ統治の実務を担った。グルゲンは、ダヴィト3世クロパラテスおよび有力貴族イオアネ・マルシスゼの政治的支援の下で行動した。978年、バグラトはアブハジア王として戴冠した。グルゲンは引き続きカルトリにおける共同統治者として留まり、貴族勢力に対する息子バグラトの闘争を支援した[1]。
一時期、カルトリ貴族層の一部が対立勢力に転じた。これにより、グルゲンはカヘティ公国側に与した貴族によって拘束された。しかし、ダヴィト3世クロパラテスが強く介入した結果、グルゲンは解放された。
989年、バグラトは有力貴族であるクルデカリ公ラティに決定的打撃を与える計画を立てた。クルデカリ公はトリアレティ地方に広大な領地を有していた。グルゲンは軍を率いて、シャヴシェティの国境付近でバグラトの合流を待っていた。このときダヴィト3世は誤った情報を受け、親族が自身の領土を襲撃しようとしていると信じた。その結果、ダヴィト3世は突如としてグルゲンの軍を攻撃した。グルゲンは敗走し、ツェプティ要塞へ退却した[1]。この短期間の衝突において、グルゲンの父バグラト2世はダヴィト3世の側についた。その後、バグラティオニ家の一族は和解した。しかしその後、ダヴィト3世がビザンツ帝国への反乱を起こし、失敗した。続くビザンツ皇帝バシレイオス2世との講和条約により、ダヴィト3世が養子バグラトを後継者とする取り決めは破棄された[1]。
994年、父バグラト2世が崩御した。グルゲンは後継者となり、自らを「諸王の王」として戴冠した。この王国には、タオ、シャヴシェティ、メスヘティ、ジャヴァヘティ、アジャリア、およびタオ=クラルジェティの諸小領域が含まれていた。
1000年、タオ大公ダヴィト3世が死去した。グルゲンとバグラトはビザンツ皇帝バシレイオス2世と会見したが、ダヴィト3世の旧領がビザンツ帝国に併合されることを阻止することができず、両者は新たな国境を承認せざるを得なかった。この際、バグラトには「クロパラテス」の称号が、グルゲンには「マギストロス」の称号が授与された[1]。これらの称号は競合関係にあり、実際には息子バグラトの称号の方が高位であった。ジョージアの年代記『カルトリ・ツホヴレバ』によれば、これは父子の対立を狙った皇帝の策とされる[2]。しかし、この策は成功しなかった。アルメニアの歴史家ステパノス・アソギクによれば、皇帝による称号授与は、グルゲンにとって屈辱的なものであったとされる[3]。
1001年、グルゲンはダヴィト3世の旧領であるタオ地方の回復を目指し、行動を起こした。ビザンツ側はアンティオキアの軍司令官(ドゥクス)ニケフォロス・ウラノス率いる軍を派遣したが[1]、大規模な戦闘には至らず、最終的に双方の譲歩によって事態は収束した。その後、ビザンツ帝国は接収したタオ地方に「テマ・イベリア」を設置し、皇帝直属の官僚を派遣して統治を行った。