グレン・ホール
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| グレン・ホール | |
|---|---|
|
1960年代シカゴ・ブラックホークス時代 | |
| 本名 | グレン・ヘンリー・ホール |
| 原語名 | Glenn Henry Hall |
| 愛称 | ミスター・ゴーリー |
| 生誕 |
1931年10月3日 サスカチュワン州 ハンボルト |
| 死没 |
2026年1月7日(94歳没) ストーニープレーン |
| 身長 | 5 ft 11 in (1.80 m) |
| 体重 | 190 lb (86 kg; 13 st 8 lb) |
| ポジション | ゴールテンダー |
| キャッチ | 左手 |
| 所属したチーム | |
| プロ選手期間 | 1951年 – 1971年 |
| 1975年殿堂入り | |
グレン・ホール(英語: Glenn Hall, 1931年10月3日 - 2026年1月7日)は、カナダサスカチュワン州ハンボルト生まれのプロアイスホッケー選手。ポジションはゴールテンダー。
NHLの18シーズンでほとんど試合も賞も欠かすことなく、負け越しでシーズンを終えたのはわずか4回、歴代4位の通算84回のシャットアウト、[1]不滅のNHL先発ゴールテンダー連続試合出場記録を持つ鉄人であり、[2]屈指のゴールテンダーの一人である。
サスカチュワン州ハンボルトでのマイナーホッケーを経て、1949年から1951年までオンタリオ州のデトロイト・レッドウィングス傘下のメジャージュニアホッケーチーム、ウィンザー・スピットファイアーズに所属し、1951年にレッドウィングスと契約した。
1952年のプレーオフ中にレッドウィングスに昇格した後はプレーしなかったが、1952年の決勝でレッドウィングスがモントリオール・カナディアンズを破った後、彼の名前はスタンレーカップに誤って「グリン・ホール」と刻まれた。1952年12月27日、モントリオール・フォーラムで行われたカナディアンズ戦でテリー・ソーチャック欠場の穴埋めとして召集され先発しNHLデビューを果たし、その後6試合に出場し、わずか1.67の平均失点に抑えた。
AHLインディアナポリス・キャピタルズ(1951-52年)とWHLエドモントン・フライヤーズ(1952-55年)で約4シーズンをマイナーリーグで過ごし、1955年にはレッドウィングスで2試合の出場にとどまった後、1955-56シーズンにテリー・ソーチャックがボストン・ブルーインズにトレードされた後、デトロイト・レッドウィングスの先発ゴールテンダーとなった。ホールはNHLルーキーシーズンを.925のセーブ率、平均2.10失点、12回のシャットアウトで終え、NHL最優秀新人に贈られるカルダー記念賞を受賞した。
その後もデトロイトでフルシーズンをプレーしていたが、ホールはNHL初の選手組合を結成する動きを見せたテッド・リンジーとともにシカゴ・ブラックホークスにトレードされた。その時点でホールはレギュラーシーズンで140試合連続で先発フル出場していた。ホールはブラックホークス在籍中も連続出場を継続し、1959-60年シーズンにはヴェジーナ賞の次点に加えてハート記念賞の最終候補者にも選ばれ、[3][4]1961年にはブラックホークスを1938年以来初のスタンレーカップ優勝に導き、カナディアンズの前例のない5連覇の記録を終わらせた。
怪我に見舞われながらも、レギュラーシーズンで502試合を連続出場し、プレーオフでもさらに50試合に出場したが、背中の筋肉を痛めてしまい、1963年11月8日に記録はついに途切れた。ホールはシカゴで10シーズンを過ごし、8回オールスターチームに選ばれ、そのうち5回はファーストチームに選ばれた。
1963年に初のヴェジーナ賞を受賞し、1967年にはデニス・デジョルディとヴェジーナ賞を分け合い、そのシーズン終了時、36歳でエクスパンション・ドラフトで保護対象外となりセントルイス・ブルースに指名された。ホールの英雄的な活躍は、ブルースのNHL初年度のスタンレーカップ決勝進出に貢献した。最終的にモントリオール・カナディアンズに4試合で敗れたが、ホールはプレーオフ最優秀選手としてコーン・スマイス賞を受賞した。1968-69シーズンにはジャック・プラントがチームに加わり、二人のベテランがゴールテンダーの役割を分担した。キャリア終盤に口周りの多くが縫われたことにより、初めて試合中にフェイスマスクを着用したが、プラントとホールは粘り強くプレーし、1969年にヴェジーナ賞を分け合った。
キャリアを通じて試合前に吐き気を催すことがあり、出場直前の数分間しばしば胃が痛んでいたが「試合前に気分が悪い方が、いつも自分のプレーが上手くなっていると感じていた。」と語った。あるチームメイトは、ホールの吐瀉物を受けたバケツが殿堂入りすべきだとさえ言った。
1966年にブラックホークスで、1969年にブルースで再び引退したが、毎回、戻るよう説得され、たいていはより多い給料を約束されたが、NHLゴールテンダーとしてのプレイを楽しんでいるとは言わず、15歳の時から引退するつもりだったと語っていたが、ホールは以下の2つの歴史的なゴールが達成された際、
- 1957年10月19日、シカゴ・ブラックホークス在籍時、モーリス・リシャールのNHL史上初の通算500ゴール達成時
- 1970年5月10日、セントルイス・ブルース在籍時、ボビー・オアの1970年スタンレーカップ決勝「フライング・ゴール」達成時
いずれもその失点を許したチームの氷上のゴールテンダーとして立ち会っている。
ホールは1971年に完全に引退し、ストーニープレーンの農場で世話をしながらパートタイムでアイスホッケー界に関わり続け、ブルースやカルガリー・フレームスでコンサルタントやゴールテンダーコーチとして働いた。
プレーと影響
ホールはNHLキャリアの多くの期間、ゴーディ・ハウのニックネーム"ミスター・ホッケー"("Mr. Hockey")とは対照的に"ミスター・ゴーリー"("Mr. Goalie")"と呼ばれており、NHLで数えるほどしか存在しない「ミスター」の敬称を持つ偉大な選手の1人であり、ゴールテンダーとして502試合(プレーオフを含む552試合)連続先発出場を(フェイスマスクを装着せずに)達成した記録は、スポーツ界で最も手の届かない記録の一つとされている。3度のヴェジーナ賞受賞の一方で次点は最多の6度あり、キャリアを通して安定した活躍をみせた。[5]
マイナー時代にホールは新しいタイプのゴールテンダースタイルを完成させた。ややぎこちないが、膝をほぼ揃えてパッドを氷上で広げる「逆Y字」(今日では「バタフライ・スタイル」と呼ばれる)の動きを披露し、膝をつき足を広げてネットの底を防ぎ、高いシュートにはグローブに頼って対処した。これによりホールはバタフライ・スタイルの先駆者の1人と見なされ、それはトニー・エスポジトやパトリック・ロワによってさらに発展し、現代では標準的なプレイスタイルとなった。
- 2002年にカナダ郵便公社の切手とメダリオンに選ばれた。[6][7]
- 2005年、サスカチュワン州ハンボルト市は、ハイウェイ5号線沿いのグレン・ホール公園に、ハンボルトでのジュニアホッケー時代からNHL引退までのホールのキャリアを詳細に描いた恒久的な記念碑を建立した。
- 1967年のカナダ建国100周年を記念して建設されたストーニープレーンのアイスアリーナは2008年にホールの名を冠した。[8]
- 2023年にシカゴ・ブラックホークスの殿堂[9]に続いてセントルイス・ブルースの殿堂入りを果たした。
- ホールの人生は受賞歴のある長編ドキュメンタリー映画『Mr. Goalie』で称えられ、2025年にオンタリオ州ウィンザーで初公開された。[10]