ゲンリフ・ヤゴーダ
ソビエト連邦の政治家
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ゲンリフ・グリゴリエヴィチ・ヤゴーダ[注 1](ロシア語: Ге́нрих Григо́рьевич Яго́да、ラテン文字転写の例:Genrikh Grigoryevich Yagoda、ユリウス暦1891年11月7日(グレゴリオ暦11月20日) - 1938年3月15日)は、ソビエト連邦の革命家、政治家。初代NKVD(内務人民委員部)長官。国家保安総委員(1937年1月に予備役編入)。

1936年からスターリンの指令を受け、大粛清の第一段階を指揮し、反対派・反革命分子の摘発に当たったが、粛清が手ぬるいとして1936年9月に解任された。1937年、後任のニコライ・エジョフに逮捕され、1938年3月13日の第三次モスクワ裁判でニコライ・ブハーリン、アレクセイ・ルイコフらとともに死刑を宣告され、処刑された。
生涯
生い立ち


1891年11月7日(新暦19日)、ヤゴーダはルイビンスクにて、ユダヤ人のの家庭に生まれた。出生名イェノホ・ゲルシェノヴィチ・イエグーダ (露: Енох Гершенович Иегуда)。
前年1890年にシンビルスクからルイビンスクに移住してきたユダヤ人一家の次男だった。彼の父グリゴリー・フィリッポヴィチ(ゲルシェン・フィシェレヴィチ)・ヤゴダ(露: Григорий Филиппович (Гершен Фишелевич) Ягода, 1859年-1939年投獄)は金細工師だった(グリゴリーの兄イサイもそうだった)[1]。時計屋ともいわれる[2]。
ヤゴーダの祖父はプロツク出身の退役兵フィシェル・ゲルシェヴィチ・ヤゴーダ(1825-1905)であった[3]。
グリゴリーの妻マリア(マサ=ハシャ)ガヴリロヴナ・ヤゴダ(旧姓マシン=ゾン、1863-1940)は、シンビルスク出身だった。ゲンリフの他に、一家には長男ミハイル(1889年生まれ)と次男レフの2人の息子と5人の娘がいた。
1891年、一家はルイビンスクのヴォルジスカヤ堤防の近くに住んでいた。1896年にシンビルスクに戻り、1902年までニジニ・ノヴゴロドに住んだ。退役軍人の家族であったヤゴダ一家は、居住区外であればどこへでも住むことが許されており、ルイビンスクに定住した最初のユダヤ人家族となった[4]。
ヤゴダ家はニジニ・ノヴゴロド・スヴェルドロフ家と親戚関係にあった。ヤゴダの父、ゲルシェン・フィリッポヴィチは、ニジニ・ノヴゴロドに住んでいたヤコフ・スヴェルドロフの父、ミハイル・イズライエヴィチ・スヴェルドロフのいとこであった。その後、ヤゴダはまたいとこであるイーダ・レオニドヴナ・アヴェルバク(ヤコフ・スヴェルドロフの妹ソフィア・ミハイロフナの娘)と結婚した。彼らには息子のガリク(1929年5月11日、モスクワ、2003年7月28日、アシュドド)がいた。
ヤゴダはシンビルスクとニジニ・ノヴゴロドのギムナジウムに通い、通信制で8年生の試験に合格し、統計学者として働いた。ニジニ・ノヴゴロド在住中に、ヤゴダはヤコフ・スヴェルドロフと出会った。ヤゴダは、統計を勉強し、薬剤師助手として働いた[5]。
1905年、ニジニ・ノヴゴロドの12月蜂起の際に、兄のミハイルが死亡した。
政治活動
ヤゴーダの経歴については、公式に刊行された自伝での経歴や、モスクワ裁判での尋問での供述での経歴、そしてそれ以外の調査による経歴で異動がある。1930年にヤゴーダの部下メール・トリリッセルはヤゴーダの経歴を調査し、中央委員会の要請で書かれたヤゴーダの自伝には虚偽があることが判明した。ヤゴーダは、1907年にボリシェヴィキ党に入党し、1911年に帝政ロシア政府によって追放され、その後十月革命に積極的に参加したと書いていたが、それらは嘘だった。実際にヤゴーダが党に入党したのは1917年の夏になってからで、それ以前はボリシェヴィキとは何の関係もなかった[6]。ヤゴーダは革命家としての経歴詐称を暴こうとしたトリリッセルを解雇している[7]。なお、エジョフも同類の経歴詐称をしていた。以下、記載に矛盾があるが、複数の情報源での確認までの暫定的な記載である。
モスクワ秘密警察の記録によると、1907年、15歳の時、ヤゴダははニジニ・ノヴゴロドのアナキストグループに加わった。1911年、ゲンリフ・ヤゴーダは銀行強盗のためにモスクワのアナキスト集団と連絡を取る任務を負った[8]。
後年のモスクワ裁判での取り調べでは、14歳でニジニ・ノヴゴロドの地下印刷所で植字工として働き、15歳の時には1905年の革命の激しい鎮圧の際にニジニ・ノヴゴロドのソルモヴォ地区の戦闘部隊の一員、16歳か17歳でニジニ・ノヴゴロドでボリシェヴィキに加わり、1911年に逮捕されて流刑に処されたと述べた[9]。
自伝では1907年には、15歳にしてボリシェヴィキに参加する。1911年にモスクワに上京するも1912年に逮捕され、シンビルスクに追放される。1912年夏、20歳のゲンリフ・ヤゴーダはモスクワで拘束された。ユダヤ人である彼はモスクワに住む権利がなく、ガルシュキンという名義で偽造されたパスポートを使っていたためであった。アナキスト党員である姉のローザの家に身を寄せていたため、彼は「革命組織に属する人物との関係」の罪で有罪判決を受けた。憲兵隊に対してヤゴダは正教に改宗し、旧首都で職を見つけようとしていたと説明した。裁判所は彼にシンビルスクへの2年間の流刑を言い渡した[10]。そこには、彼の祖父である時計職人のガヴリール・ルヴォヴィチ・マシン=ゾンが住んでいた家があった。
ロマノフ王朝300周年を記念する恩赦により、彼の流刑期間は1年短縮され、流刑地から帰還でき、1913年の夏にはサンクトペテルブルクに定住することができた。そのために彼は正教会に改宗している。
1913年、プティロフ製鉄所で働いた。同年、「統計問題」誌で働いた。1914年にイーダ・アヴェルバフ(後に弁護士、ロシア・プロレタリア作家協会総書記レオポリド・アヴェルバフの妹で、全ロシア中央執行委員会議長ヤーコフ・スヴェルドロフの姪)と結婚したとされるが、当時彼女は9歳だったため正確な事実ではないとされる。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシア帝国軍に徴兵され、戦闘で負傷した[11]。第5軍団第20狙撃連隊所属であった。除隊後、ペトログラードに戻った。
1917年、ヤゴーダはペトログラードで起こったロシア革命に参加した。革命後、ボリシェヴィキ党のペトログラード軍事委員となり、ボリシェヴィキの機関紙「ソルダーツカヤ・プラウダ」(兵士のプラウダ)紙の発行に携わった。、十月革命 (十月クーデター)後、「クレスチヤンスカヤ・ベドノター」(貧農)紙の編集長を務め、1917年11月から1918年4月まで新聞「デレーベンスカヤ・プールノタ」の編集長となった[12]。
チェキストからNKVD長官へ
1918年からウラジーミル・レーニンの創設した秘密警察チェーカーで勤務(1920年からとも)。1918年から1919年にかけては赤軍最高軍事監察局(労農赤軍最高軍事監察局総務局)の職員であった。ヤゴーダは、内戦中の1918年にツァリーツィンに駐屯していた頃からスターリンを知っていたが、当時はスターリンに取り入るようなことはなかった[13]。
1919年、スヴェルドロフとジェルジンスキーの目に留まり、モスクワへ転任。1919年から1920年にかけては貿易人民委員を務めた。1919年末から1920年末まで全ロシア・チェーカー特別局長を務め、任命状はI・P・パヴルノフスキーによって署名された[14]。チェーカー長官であったヴャチェスラフ・メンジンスキーの片腕として、グラーグ(ГУЛАГ;Главное управление лагерейの略称。収容所総局)の監督にあたり、次第に頭角を現す。
1920 年より、全ロシア臨時委員会幹部会メンバー、その後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国NKVD傘下の国家政治行政局理事を務めた。1923年9月には合同国家政治保安部 (GPU、OGPU)長官フェリックス・ジェルジンスキーの第二副官(第二副議長)となった。
1926年7月にジェルジンスキーが死去すると、それまで第一副議長を務め、秘密作戦局長でもあったメンジンスキーがOGPUを率いることになった。メンジンスキーは 1927 年 7 月に後者の職をヤゴーダに譲った。OGPU 議長 V. R. メンジンスキー の病気のため、ヤゴーダが事実上この機関を率いた。 アレクサンドル・コルパキディ によると、アレクセーヴィチ・アクロフがOGPUの第一副議長の職を辞任したため、この職は空席のままとなり、副議長のG. G. ヤゴダが主導的な役割を担うようになった。
ヤゴーダは1931年7月までOGPU責任者であり続けたが、その年、古参ボリシェヴィキのイワン・アクロフが第一副議長に任命され、ヤゴーダは第二副議長に降格された。アクロフは1932年10月に解任され、ヤゴーダは復職した。ヤゴーダの失脚後、彼の元同僚の一人は「我々はアクロフに対して激しい敵意を抱いていた…OGPUの組織全体がアクロフ体制へのサボタージュ (破壊活動)に専念していた」と回想している[15]。
1930年から1934年まで、全ソ連共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会の候補委員であり、1934年からは中央委員を務めた。1934年7月、フェリックス・ジェルジンスキーとメンジンスキーの不可解な死後(公式には二人とも「心臓性疾患」とされる)、チェーカーの後継機関のGPUと統合した内務人民委員部の初代長官に就任する。党内闘争において、彼はスターリンを支持し、1927年10月には反スターリン派のデモの鎮圧を主導した。[16]。スターリンの大粛清の執行者は、賭博と漁色にふける退廃的な悪徳の持ち主として名高い。
グラーグ(強制労働収容所)
OGPU副長官としてヤゴーダは1931年から1933年にかけて、グラーグの囚人の強制労働を用いて白海・バルト海運河の建設を猛スピードで組織したが、膨大な犠牲者が出た[17]。ヤゴーダは、元強制労働収容所 (グラーグ)の囚人で収容所長のナフタリ・フレンケルを指揮した。ヤゴダはフレンケルとともに囚人を動員して強制労働を課し、白海・バルト海運河を建設したが、12,000人から25,000人の囚人が過労などで死亡した[18][19]。
ヤゴーダの指導の下、グラグが設立され、ソ連の強制労働収容所のネットワークが拡大し、囚人を使って白海・バルト海運河の建設が始まった。マクシム・ゴーリキーをはじめとする36人の著名な作家が、この建設プロジェクトを宣伝するために動員された[20]。
モスクワ・ヴォルガ運河の建設もヤゴーダの監督下で開始されたが、失脚後に後任のニコライ・イェジョフによって完成した[21]。
ヤゴーダは、ベレズニキ化学プラントやその他の施設の建設のために囚人労働の利用を大幅に拡大した。1929年から1930年にかけて、OGPU収容所の囚人労働者の数は22,848人から155,000人に増加し、1930年11月以降はGULAGシステムとして知られるようになった[22]。
1933年8月4日、ヤゴーダは白海・バルト海運河建設への貢献でレーニン勲章を授与された[23]。ヤゴーダは公式に「タイガと北部の社会主義産業の創始者、組織者、指導者」という称号を保持した。ヤゴーダの収容所建設への貢献を称え、白海・バルト海運河の最後の閘門には高さ30メートルの赤い星の記念碑が建てられ、ヤゴーダの巨大なブロンズ像が収められていた[24]。
ソ連秘密警察毒物研究所
ヤゴーダは、スターリンが自由に使えるソ連秘密警察毒物研究所を設立した。後の見せしめ裁判で、ヤゴーダの上司ヴャチェスラフ・メンジンスキーが、ヤゴーダの2人の助手によって2週間かけて徐々に毒殺されたと告発された[25]。
メンジンスキーの死の翌日には、マクシム・ゴーリキーの息子マックス・ペシコフが亡くなっている。ヤゴーダは1928年以来、ゴーリキーを監視しており、監視役としてピョートル・クリュチコフをゴーリキーの秘書として雇っていた。ゴーリキーがスターリンや党幹部と会うたびに、ヤゴーダはクリュチコフに話された内容の詳細な報告を求めた。1932年のある日、ヤゴーダはクリュチコフに自動車の購入代金として4000ドルを渡した[26]。
彼はマックス・ペシコフの妻ティモシャに執着し、彼女が未亡人になったばかりの頃は毎日彼女を訪ねていたが、彼女の母親は二人が恋人ではなかったと言っている[27]。
歴史家アルカディ・ヴァクスベルクや他の研究者によると、ヤゴーダはスターリンの命令でゴーリキーとその息子を毒殺した[28]。
農業人民委員サボタージュ事件と大日本帝国スパイ事件
1933年初頭、彼はソ連農業人民委員部および国営農場人民委員部内部におけるサボタージュ事件、そして日本のために活動するスパイ・サボタージュ組織に関する捜査に関与した。
サボタージュ事件に関連して、農業人民委員部副委員のフョードル・ミハイロヴィチ・コナールとA・M・マルケヴィチ、および国営農場人民委員部副委員のモイセイ・ミハイロヴィチ・ヴォルフらの指揮の下、約100名の農業専門家が逮捕された)。
裁判では、14人の被告が証言を撤回した。40人が死刑判決を受け、残りの者は様々な懲役刑を言い渡された。スパイ事件の23人の被告のうち、21人が死刑判決を受けた。しばらくして、A. M. マルケヴィチは収容所から 違法捜査を指摘した文書の中で、次のように述べている。「ヤゴーダは突然私の話を遮って言った。『あなたは尋問を受けているのだということを忘れるな。ここは人民委員代理ではない。1か月後に我々が謝罪して、間違いだったと言うとでも思っているのか?中央委員会があなたの逮捕に同意したということは、我々があなたの有罪を完全に証明する、徹底的かつ説得力のある証拠を提示したということだ。』私の事件を担当した捜査官は皆、有罪の自白だけを求め、私の無罪を示す客観的な証拠はすべて無視した。」[29].
同時に、大日本帝国スパイ事件で処刑されなかった被告人2人のうちの1人であるA・G・レヴィスは、ソ連統制委員会の苦情処理局長M・I・ウリヤノワに陳述書を送付した。彼はまた、違法な捜査方法についても報告した。1934年9月15日に両方の陳述書を調査するために設置された政治局委員会(カガノヴィチ、ラザール・モイセーヴィチ、クイビシェフ、ヴァレリアン・ウラジミロヴィチ、クイビシェフ、アクロフで構成)は、陳述書が真実であると結論付けた。また、OGPUとNKVDによるその他の法律違反、すなわち逮捕された者への拷問や事件の捏造も明らかにした。委員会は、「違法な捜査方法の根絶、責任者の処罰、レヴィスとマルケヴィチの事件の再調査」を求める決議案を作成した。しかし、セルゲイ・ミロノヴィチ・キーロフの殺害により、この決議案は採択されなかった[30].。
ヤゴーダの寛容路線
1934年7月、ソ連のNKVD(内務人民委員部)が設立された。新設された人民委員部とその最も重要な構成要素である国家保安総局(GUGB)は、いずれもゲンリフ・ヤゴーダが長を務めた。NKVDの秘密政治局長であるゲオルギ・モルチャーノフはその時のヤゴーダの心境について、「1934年当時ヤゴーダは私に、懲罰政策においてより寛容な方向へ進む必要性を繰り返し指摘した。例えば1934年の夏にディナモ給水所で交わした会話を覚えている。その会話の中で、ヤゴーダは率直にそろそろ人を撃つのをやめるべき時だと私に告げた。」と証言した[31]。モルチャーノフは1937年10月9日に処刑された。
ヤゴーダの発言は、法の枠内で弾圧を行うという支配エリート層の一般的な政策を反映していた。当時、クリメント・ヴォロシーロフとラーザリ・カガノーヴィチも同様の発言をしていた[31].
スターリンの圧力の下、ヤゴーダはキーロフ暗殺事件、S・M・キーロフの「殺人犯」、クレムリン事件などの裁判の組織化に関与したが、地下反ソ連組織に対する捏造事件には抵抗した。歴史家オレグ・フレヴニュクによれば、捜査のスターリン主義的路線を実行したのはニコライ・エジョフであり、エジョフは「ヤゴーダの副官の一人であるヤーコフ・アグラーノフと共に内務人民委員(ヤゴーダ)とその支持者に対して陰謀を企てた」[31]。
キーロフ暗殺事件・第一次モスクワ裁判・トムスキーの遺書
大粛清の契機となった1934年のセルゲイ・キーロフ暗殺事件では、犯人のレオニード・ニコラエフと親交があり資金面で援助していたため、彼を利用しキーロフを暗殺させた説が今日に至るまで根強い。1936年、ヤゴーダは大粛清の第一段階を指揮しスターリン反対派の摘発に当たった。
1935年、ヤゴーダは「国家保安総委員」の称号を初めて授与された。
ヤゴーダは検察官アンドレイ・ヴィシンスキーと緊密に協力し、最初のモスクワ裁判を組織した。1936年8月にグリゴリー・ジノヴィエフとレフ・カーメネフが起訴され、公開裁判がモスクワで行われた。二人は処刑され、大粛清が始まった。
1936年8月22日、ミハイル・トムスキーは自分が反革命罪で起訴されることを知り、自殺した。スターリン宛の遺書の追伸で、彼は次のように記している。「1928年5月に私を右翼反対派の道へと駆り立てた人物を知りたいなら、妻に直接尋ねてください。そうすれば、彼女だけが名前を明かすでしょう。」
その後、トムスキーの妻と面会したエジョフは、トムスキーがヤゴーダのことを指していたことを知った[31]。この材料は、後にエジョフがヤゴーダを告発するときに用いた。
凋落
その取調べや拷問がスターリンの期待よりも「生ぬるく」、オールド・ボリシェヴィキを相手には“共犯者”の“自白”もままならなかったため、なかなか粛清を拡大させることができず、次第にスターリンに失望されていった。
1936年半ば、ヤゴーダは、見せしめ裁判に対する海外の世論の反発や処刑された被告人に対するソ連国民の同情の高まりを詳述した報告書をスターリンにみせた。スターリンは報告の内容に激怒し、ヤゴーダが見せしめ裁判を中止し、ミハイル・トゥハチェフスキー元帥の粛清計画を断念するよう自分に助言していると解釈した。スターリンは、キーロフ暗殺事件の処理と、カメネフとジノヴィエフと帝政ロシアの秘密警察オフラーナとのつながりの「証拠」を発見(捏造)できなかったことなどから、すでにヤゴーダの働きぶりに不満を抱いていた[32]。あるソ連当局者は、「ボス(スターリン)は何も忘れない」と語ったが、事実、スターリンは部下の過失を見過ごすことはしなかった[33]。
このほか、スターリンがヤゴーダを信用できなくなった理由として、ヤゴーダが反対派ブロックの存在をもっと早く報告しなかったことがある[34]。NKVDはすでに1932年にレオン・トロツキーやレフ・カーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフによってソ連反対派ブロックが結成されていたことを突き止めていた[34]。1936年、スターリンはOGPU/NKVDがトロツキー派とジノヴィエフ派の「ソ連反対派ブロック」の撲滅が遅れていると非難した。ヤゴーダが早く報告しなかった理由としては、1936年になって初めてこのことを知った、あるいは、反対派への同情から隠蔽していたと指摘されている[34]。
1936年9月25日、スターリンはアンドレイ・ジダーノフとの連名でソ連共産党中央委員会政治局員宛に次のような電報を送った:
"我々は、エジョフ同志を内務人民委員部長官に任命することが絶対に必要かつ緊急であると考えている。ヤゴーダは明らかにトロツキー派とジノヴィエフ派のブロックを暴露する任務に不適格であることが証明された。OGPUはこの件に関して4年も遅れた。党幹部全員とNKVD職員のほとんどがこのことを認めている。"[35]
1936年9月26日、ヤゴーダは内務人民委員の職を解かれ、通信人民委員に任命された。
ヤゴーダ同志 通信人民委員部は非常に重要な機関である。それは国防人民委員部でもある。あなたがこの人民委員部を立て直せると確信している。どうか通信人民委員部の業務を引き受けてくださるようお願いしたい。健全な通信人民委員部がなければ、我々は無力感を覚える。通信人民委員部を現状のまま放置しておくことはできない。直ちに立て直さなければならない。—1936年9月26日付、スターリンからヤゴーダへの書簡
NKVD長官の座はニコライ・エジョフに取って代わられた。
1937年1月、彼は通信人民委員の職からも解任され、全ソ連共産党(ボリシェヴィキ)からも追放された。1937年2月から3月にかけて開催された中央委員会総会では、彼は厳しい批判にさらされた。
1937年3月の中央委員会総会中にヤゴーダは後任のエジョフからソビエト全土の秘密警察の仕事ぶりを調査するよう依頼され、ヤゴーダ派のNKVD隊員は列車で目的地に輸送される予定であった。しかし、彼らは目的地の前の駅で列車に乗り込んできたエジョフ派のNKVDにことごとく逮捕された。ヤゴーダ自身もNKVD隊員の宿舎において逮捕され、激しく殴打され蹴り付けられる等の苛烈な拷問を伴った取調べが行われた。その結果ヤゴーダはスパイ行為以外の罪を「自白」した。
1937年3月、ヤゴーダはスターリンの命令で逮捕された。エジョフは、ヤゴーダがダイヤモンド密輸、汚職、1917年に入党して以来ドイツのスパイとして活動してきたと発表した。エジョフはさらに、ヤゴーダが自分のオフィスに水銀を撒いて暗殺しようとしたと非難した(これはエジョフの自作自演だった[36])。ヤゴーダはゴーリキーとその息子を毒殺した罪でも告発された。
4月4日、ソ連の新聞はソ連中央執行委員会幹部会議長ミハイル・イヴァノヴィチ・カリニン署名による以下の公式発表を掲載した。
1937年4月3日付ソ連中央執行委員会幹部会決議により、発覚した犯罪的性質の公的犯罪を鑑みて、G・G・ヤゴダの事件を捜査当局に移送する。…通信人民委員G・G・ヤゴダを解任せよ[37]。
ヤゴーダは1938年3月、「反ソビエト『右派・トロツキスト・ブロック』裁判」において、反逆罪と陰謀罪で有罪判決を受けた。彼はスパイ行為を否定したが、その他のほとんどの容疑は認めた[38]。
1938年3月13日、ニコライ・ブハーリン、アレクセイ・ルイコフらとともに第三次モスクワ裁判にかけられ、反逆や共謀など21件について有罪、銃殺刑を宣告される。必死の助命嘆願もむなしく、ヤゴダは裁判後、即座に銃殺された[39]。15日にかつては彼自身のダーチャだったコムナルカ射撃場で処刑され、同地に埋められた。
エジョフは、銃殺される直前のヤゴーダとブハーリンに他の死刑囚の処刑を見ることを強制し、さらにイスライル・ダギンにヤゴーダを殴打させている[40]。
ヤゴーダの家族も両親、妻などほとんどが逮捕された上、処刑もしくは強制収容所で獄死した(生き残ったのは息子のゲンリフ(1929年—2003年)のみで、大学卒業後イスラエルへ移住した)。ヤゴーダ派のNKVD隊員も粛清の対象となり、約3000人がこの時期に死亡したと言われる。
1988年、モスクワ裁判50周年を機に、ソ連当局はヤゴーダをのぞく20人の被告の罪を免除し、裁判全体が虚偽の自白に基づいていたことを認めた。ヤゴーダは名誉回復されなかった。
「祖国への裏切り者の家族」

ヤゴーダの父グリゴリーは1938年当時78歳だったが、「唯一生き残った息子だったが、重大な犯罪を犯したので勘当した」とスターリンに手紙を書いた。しかし、彼も妻も逮捕され、労働収容所に送られ、そこで死んだ[41]
彼には2人の兄弟がいた。1人は1905年のソルモヴォでの反乱鎮圧の際に殺害され、もう1人はドイツとの戦争中に連隊の反乱に参加した罪で銃殺された。妹リリヤは1937年5月7日に逮捕され、7月16日に銃殺された[42]
ヤゴーダの妻で検察庁捜査官だったイダ・アヴェルバフは1937年6月9日に「祖国への裏切り者の家族 (ChSIR)」として逮捕され[43]、1938年6月16日、NKVDの幹部数名と夫の姉妹であるE・G・ヤゴーダとL・G・ヤゴーダ=ズナメンスカヤと共に処刑された[44]。
イダ・アヴェルバフの母親でヤーコフ・スヴェルドロフの妹の小児科医ソフィア・ミハイロヴナは、アクブラク村に5年間追放された後1938年4月17日に再逮捕され、「祖国への裏切り者の家族」としてru:ITLで8年の刑を宣告された(彼女はChSIRのトムスク収容所で刑期を務め、1939年にコリマ労働収容所に移送され、1951年に亡くなった[45][46]。
イダ・アヴェルバフの父で蒸気船会社の所有者で大商人[46]だったミール=ショロム・ノソノヴィッチ[47]、またはレオニード・ニコラエヴィチ・アヴェルバフ[48]は1937年4月13日に逮捕され、1937年10月26日に「「第1カテゴリー」として処刑された[49][50]。
イダの兄で作家 レオポルド・アヴェルバクは1937年4月4日に「祖国に対する裏切り者の家族」として逮捕され[51]、1937年8月14日に処刑。 [52]
アヴェルバフとヤゴダの息子ゲンリフは処刑されずに大学卒業後、イスラエルに移住し、2003年7月28日に亡くなった[43]。
ヤゴーダと左翼反対派
トロツキーらの左翼反対派に所属し、1947年にイギリスに亡命した航空宇宙工学者のグリゴリー・トカティ (トカエフ)は、左翼反対派は警察の一部やヤゴーダと協力していたと証言している[53][54]。
ヤゴーダがNKVDから追放されたことで、我々は反対派の情報機関における強力な繋がりを失った。…さらにエジョフ率いるNKVDは、アヴェル・エヌキゼとボリス・シェボルダエフのグループ、ヤゴーダとイサーク・ゼレンスキーのグループに潜入し、政治警察の中央機関における反対派の繋がりを断ち切った。
シェボルダエフは1937年10月30日に、エヌキゼは同年12月20日に処刑された。ヤゴーダとゼレンスキーは右翼トロツキスト陰謀事件で告発され、1938年3月15日処刑された。
また、スターリンが農民を集団農場に強制して集団化を命じたときも、ヤゴーダは反対派であるブハーリンとルイコフに同情していた。ブハーリンは1928年7月の会話の中で「ヤゴーダとトリリッセルは我々の味方だ」と語っていた。しかし、ブハーリンら党内右派が権力闘争で負けつつあることが明らかになると、ヤゴーダは忠誠を翻した。ブハーリンの未亡人アンナ・ラリナは、ヤゴーダを出世のために思想を捨て去り、「犯罪的」で「惨めな臆病者」になったと評している[55]。アンナ・ラリナは夫ブハーリンが逮捕された1937年に逮捕され、以後20年間グラーグに収容された。
とはいえ、ヤゴーダはスターリンに忠実に職務を果たしており、1929年11月、ヤゴーダはトロツキーの同調者の一人である ヤコフ・ブルムキンを処刑し、また多くの人々をグラーグに送った[56]。
人物
人物評
1924年、ヤゴーダはソ連の政府首相アレクセイ・ルイコフとともにヴォルガ川の船旅に参加した。この時、同行を許されたアメリカ人ジャーナリストは、ヤゴダを「痩せ型で、やや日焼けした、引き締まった体格の、若々しい将校」と評し、「愛想がよく謙虚な人物で、粛清のテロと結びつけるのは難しい」と印象を語っている[57]。
対照的に、化学者のウラジーミル・イパティエフは1918年にモスクワでヤゴーダと会った際、「20代前半の若者がこれほど不愉快な人物であるのは異例だ。私を含め、誰であれ彼の手に落ちたら不幸だろうと思った」が、1927年に再会した時、「彼の容姿は大きく変わっていた。太って、ずっと老けて見え、非常に威厳があり、重要な人物に見えた」という[58]。
その他
スターリンの命令無しに動くことは決してなかったため、「コウモリ」というあだ名が付いた。
逮捕後のヤゴーダのモスクワの2つのアパートとダーチャ(別荘)からは、大量の女性服コレクション、3904枚のポルノ写真、11本のポルノ映画、165個のポルノ彫刻が施されたパイプとシガレットホルダー、ジノヴィエフとカメネフを殺害した2発の銃弾、トロツキー主義の著作も含む549冊の本が発見された[59][60]。
モスクワ裁判の犠牲者は1989年までに名誉回復されたが、ヤゴーダは大粛清の実行者であったためニコライ・エジョフとともに名誉回復はされていない。
栄典
「チェーカー・GPU名誉職員」記章2個、赤旗勲章2個、労働赤旗勲章、レーニン勲章を受章。