1812年、現在のコンスタンチノフカに20世帯が定住し、ノミコソフがサントゥリニフカ村を設立した。
1869年に鉄道が開設されるとベルギーの投資家が周辺の土地を購入し、いくつかの企業を設立したことにより集落は発展した。
1895年から1899年の間にガラス工場や化学工場、ボトル工場、治金工場鏡製造工場が建設され、人口も3,100人にまで増加した。
1917年〜1923年のロシア内戦時には最前線となり、白軍と赤軍との間で激戦が行われた。
夜のコンスタンチノフカ市街
ソビエト連邦時代には都市型集落となり、人口は2万5,000人に到達。産業も5ヵ年計画により発展し、コンスタンチノフカはソビエト連邦のガラス生産の23%を占めるガラス産業の中心地になった。1939年のニューヨーク万国博覧会に展示されたガラスの噴水もコンスタンチノフカで生産され、それは街の市章に描かれている。また、ガラス産業だけでなく治金業も大きく発展した。
第二次世界大戦時にはドイツ軍に占領され1943年9月5日にソ連軍が奪還した。戦後、コンスタンチノフカには20以上の工場が建てられ市の産業は回復した。1989年にコンスタンチノフカの人口は10万8,000人にまで到達した。
日中のコンスタンチノフカ市街
1990年代から2010年代にかけソ連崩壊による経済低迷により自動車工場や治金工場、ガラス工場は倒産し閉鎖された。そして新たな工場が建設されることもなく工業地帯はスクラップの略奪により荒れ果てた[1][2]。
2014年4月28日、親露派武装勢力によって占領された市議会
2014年のウクライナ東部におけるロシアとの紛争では、4月28日に親露派武装勢力により市議会と警察署が占領された[3]。その後、5月4日にウクライナ軍は対テロ作戦を行いテレビ塔付近で銃撃戦が行われた[4]。7月5日にウクライナ軍はスラビャンスクを親露派武装勢力から解放すると、そのまま攻勢を開始し、7月8日にウクライナ軍はコンスタンチノフカを解放した[5]。
2022年のロシアによるウクライナ侵攻でこの都市は大きな被害を受けた。2023年3月24日にロシア軍はS-300ミサイルでコンスタンチノフカを攻撃し、3人の女性を殺害した。4月2日には住宅と幼稚園を攻撃し6人が死亡した[6][7]。
2023年9月6日にコンスタンチノフカで起きた爆発の映像
9月6日、市の中央市場で爆発が起こり16人が死亡、33人が負傷した。しかしOSINTの研究者とニューヨークタイムズは、この攻撃をウクライナ軍のロシア製地対空ミサイルシステムから発射されたミサイルが軌道を外れたことに伴い起きた悲劇的な出来事だったと指摘した。ヴォロディミル・ゼレンスキー大統領は爆発直後にロシアのテロリストによる攻撃だと主張し、ウクライナ保安局はAFPに対し、「攻撃はロシア軍が地対空ミサイルシステムのS-3000を使って行ったものだ」「攻撃は現場で回収されたミサイルの破片によって証明されている」と述べた[8]。
2024年2月25日にロシア軍のミサイル攻撃により破壊された鉄道駅
2024年2月25日の夜にはロシア軍の大規模攻撃により市内の鉄道駅が破壊され、35軒の住居、教育機関、行政ビル、寺院、郵便局、キオスクが損傷を受けた[9][10]。
2024年7月、ロシア軍はコンスタンチノフカから北東方向に約10kmのチャシブ・ヤールと南東方向に約20kmのトレツク近郊に到達している[11][12]。
2024年8月9日にロシア軍のミサイル攻撃により破壊された商業施設
2024年8月9日、ロシア軍はコンスタンチノフカの複数の商業施設や十数台の車両に対しミサイル攻撃を行い、14人が死亡し43人が負傷した[13]。
2025年4月〜5月、ロシア軍はポクロウシクとコンスタンチノフカ間の戦線を突破し、コンスタンチノフカから西方向へ約10kmのところまで前進した。[14]また、8月にトレツクとチャシブヤールを事実上占領するとコンスタンチノフカは最前線の街となり、ロシア軍も同市を次の攻略目標と定め攻撃を強めていった[15][16]。
2025年7月、ウクライナメディアのKyiv Independentは「4ヶ月前のコンスタンチノフカの通りは戦場から戻った兵士がコーヒーやピザを店に買い求め、市民もいつものように働き、生活していたが現在のこの街の通りには燃え尽きた軍用車や民間車が散らばり対ドローン用のネットが道路に建設されている」「ロシア軍は間違いなくこの街にやってくるが問題はいつ、彼らがやってくるかだ」と報じた[17]。
2025年11月上旬、ロシア軍はコンスタンチノフカ南部市街地郊外に到達し、街をめぐる戦いが始まった[18]。