コンスタンティネ1世 (ジョージア王)
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コンスタンティネはバグラト5世の長男として誕生。母親はトレビゾンド皇帝アレクシオス3世の娘アンナであった[2]。
1400年、コンスタンティネはジョージア侵攻を続けていたティムール朝に、大使として派遣された。コンスタンティネはティムールとの和平を結ぶよう異母兄ギオルギに求めたが、空振りに終わった。1402年、コンスタンティネはサムツヘ公国のイオアネ2世とともにティムールに服従したが、ジョージアとの戦争でティムール側に与することはなかった。1407年、ギオルギ7世の死により、コンスタンティネはジョージアの王位を継承。ティムールとの戦争で荒廃した国土の復興計画を開始した。またコンスタンティネは1411年までにシルバン・シャー朝のイブラヒム1世およびシャキ国のシディ・アフメド・オルラトと同盟を結び、黒羊朝のコーカサス進出に抵抗した。
1412年、ジョージア王国とシルヴァン・シャー朝の連合軍はチャラガンの戦いにて黒羊朝に決定的な敗北を喫し、コンスタンティネ、弟ダヴィト、そしてシルヴァン・シャー朝のイブラヒム1世が捕縛された。
捕囚中、コンスタンティネは横柄な態度を取った。これに激怒した黒羊朝のカラ・ユースフは、コンスタンティネと弟ダヴィト、そしてジョージア貴族300名の処刑を命じた。カラ・ユースフはコンスタンティネを、自らの手で殺した[3]。