ダヴィト9世 (ジョージア王)
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貨幣鋳造と外国の支配
ダヴィト9世は、ジョージア王ギオルギ5世の子として、唯一知られている男子である。ダヴィト9世の母はトレビゾンド帝国の皇女であった可能性がある[2]。
ダヴィト9世は1346年に、父ギオルギ5世の死去により王位を継承した。しかし、父ギオルギ5世が残した王国の安定と繁栄は長続きしなかった。1348年に黒死病が王国を襲い、人口を激減させ、深刻な経済危機をもたらした[1]。
ダヴィト9世の治世についてはほとんど知られていない。ダヴィト9世の治世中、ジョージアは隣国アゼルバイジャンの実権を握っていたアヌシルヴァンや、短命に終わったガザン2世といったイルハン朝末期のハンたちのために硬貨を鋳造した。 ダヴィト9世の治世下で、ジョージアはラゼティの領土をトレビゾンド帝国に奪われた。一方でジョージア王国は、アラニアなどの臣属領を維持した[2]。
1349年から1350年にかけて、ダヴィト9世はジョージアへの侵攻を回避するため、イルハン朝のアヌシルヴァンに年貢40万ディナールを支払った[2]。アヌシルヴァンの硬貨の一部はトビリシで鋳造された[3]。カルス、ナヒチェヴァン、ガルニといったジョージア南部の領土の多くは、この時期にはイルハン朝に属していた[2]。イルハン朝最後の統治者であるガザン2世も、1356年から1357年にかけてトビリシで自らの名の硬貨を鋳造した[4]。
黒死病による人口激減や、モンゴル系勢力への巨額の貢納、さらには隣国による領土浸食といった困難な状況に直面しながらも、ダヴィト9世は国家再建の取り組みに従事した。トモグヴィ要塞にある1350年の碑文によれば、ダヴィト9世の命により城壁が修復されている。またダヴィト9世は、モンゴル支配時代に世俗の封建領主が教会領を没収した事実にも注目した。ダヴィト9世は、13世紀にダヴィト7世が有力貴族のオルボズレリ家に与えたザマやヘドゥレティの両渓谷の農民と土地を、ムツヘタのカトリコス総主教に返還させた。この所領には、ザマの溪谷の古い村であるケヒジヴァリなどが含まれていた。ダヴィト9世は土地の回収にあたり、オルボズレリ家に1200テトリの対価を支払った。
カルトリの歴史家ヴァフシティ・バグラティオニによれば、ダヴィト9世の妃はシンドゥフタルであった。シンドゥフタルはサムツヘ公クヴァルクヴァレ1世の娘と考えられている。ダヴィト9世の娘の一人であるグルシャリはクサニ公のイオアネと結婚し、もう一人の娘であるグルカン=ハトゥニはトレビゾンド皇帝アレクシオス3世の末子マヌエル3世と結婚した。この結婚は当然ながら政略的なものであり、ジョージアとトレビゾンド帝国の間の政治的同盟を強化することを意図していた。
ダヴィト9世は1360年にゲグティで崩御した。ダヴィト9世はゲラティ修道院に埋葬され、息子のバグラト5世が王位を継承した。

ダヴィト9世の既知の貨幣は存在しない[5]。 これは多数の侵攻により外国の貨幣がジョージア、特に首都トビリシで鋳造されたことによって説明できる[5]。
1349年から1356年の期間、モンゴルのイルハン朝の硬貨が、チョバン朝によって擁立されたイルハンの傀儡支配者アヌシルヴァンの名でトビリシで鋳造された[6]。
1356年にはジョチ・ウルスのハン・ジャニベクの硬貨がトビリシで鋳造された[7]。 1356から1357年にかけてはイルハン朝のガザン2世の硬貨が再びトビリシで鋳造されたが、この時はジョチ・ウルスの意匠に従ったものであった[4]。
1357年から1358年にかけて、ジャライル朝がイルハン朝に代わって南コーカサスを支配した[8]。 ジョージアでの鋳造はジャライル朝の権限下に入り、シャイフ・ハサンおよびその後継者シャイフ・ウヴァイスの名の硬貨がトビリシで鋳造された[7]。