バグラト5世 (ジョージア王)
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初期の治世
バグラト5世は、ジョージア王ダヴィト9世(在位: 1346年–1360年)と、王妃シンドゥフタル・ジャケリの一人息子として誕生した。生年は不明であるが、1355年に共同王の地位に就いた可能性が高い。1360年、父ダヴィト9世がゲグティ宮殿にて崩御したことを受け、王位を継承した。同年、東西ジョージアの統治権を示すため、クタイシにおいて戴冠式が行われた[1]。儀式はカトリコス総主教シオ1世が執り行い、式典には教会や貴族の要人たちが出席した。バグラト5世は、統合ジョージア王国の君主として第21代の「アブハズ人、カルトヴェリ人、ラン人、カフ人、アルメニア人の王、シルヴァン・シャー、シャーハーン・シャー」として即位した。
年代記作家ヴァフシティ・バグラティオニはバグラト5世について、「神に仕える人々を敬う」キリスト教徒であり、平和を愛する慈悲深い統治者である一方、戦場では恐れを知らない人物であったと記している。容姿については、屈強で筋骨逞しく、端正な顔立ちをしており、戦士としてのあらゆる資質を備えていたとされる。バグラト5世は、不敗の将軍および弓術の名手としての名声から「ディディ」(大王)の称号を得た[1]。バグラト5世が即位した当時、ジョージアは腺ペストによる惨禍から緩やかに回復しつつある途上にあった[2]。
バグラト5世が権力を握った当時、ジョージア王国の領土はコーカサスの大部分に及んでいた。その版図は北西のニコプシアから、南東のシャキ地方に至るまで広がっていた。南側境界にはトレビゾンド帝国やチョバン朝の領土に沿ったマクリアリ渓谷が含まれており、王国の南東にはシルヴァンが位置していた。
スヴァン人の反乱
君主となったバグラト5世は、即位後まもなく最初の困難に直面した。1361年、ジョージアで日食が観測されたのと同じ年[注釈 1]に、山岳地帯のスヴァン人が王権に対して反乱を起こした。反乱軍は西ジョージアを荒らし回り、国内第2の都市クタイシを焼き払った。
バグラト5世はこの反乱に対し、迅速かつ積極的な軍事行動をとった。まず、ラチャの領主に、カヘティとヘレティの軍勢を率いてエツェリにて反乱軍と交戦するよう命じた。これにサメグレロ公ギオルギ2世が加わり、グリア、アブハジア、北アルメニアの諸侯の支援を得てエツェリの部隊を強化した。最終的にはバグラト5世自らが、レチフミ、メスヘティ、クラルジェティ、イメレティ、カルトリからなる連合軍を率いてスヴァネティに侵攻した。
反乱軍を殲滅して蜂起を終結させたバグラト5世は、スヴァン人たちに再びトビリシの王廷への帰順を強いた。バグラト5世は現地のエリスタヴィ(公)[注釈 2]を投獄し、代わってゲロヴァニという人物を地域の統治者に任命した。
対外戦と疫病の流行
国内の紛争が終結した直後、バグラト5世は初めての対外戦に直面した。チョバン朝領内から侵入したトルコ人がサムツヘで略奪を行ったため、バグラト5世は12,000人の兵を率いてペルサティ山を越えた。強行軍により3日3晩でアラクシ川に到達したジョージア軍は、退却中のトルコ軍を急襲した。ジョージア側の位置について誤った情報を得ていたトルコ軍は不意を突かれ、凄惨な戦闘の末に大敗を喫した。
バグラト5世は戦利品と捕虜を伴ってサムツヘに戻り、国内の政情を整えた。当時、サムツヘの領主クヴァルクヴァレ公が没したため、バグラト5世はクヴァルクヴァレ公の息子であるベカ2世をサムツヘの後継者として承認し、トビリシへ帰還した。
しかし、1365年頃に腺ペストが再流行したことで、これらの勝利の記憶はかき消された。「数えきれないほど」の犠牲者が出て、1366年には王妃エレネも病没した[4]。バグラト5世自身はこの危機を生き延び、疫病が数年で終息すると、破壊された国家経済の復旧に尽力した。この混乱の最中、広大な国境地帯であったシャキ地方の支配権を失い、同地はシーディー・アフマド・オルラートによる独立したアミール国となった。
安定と中央集権化
その後、ジョージアには約14年間にわたる平和な期間が訪れ、文化的・経済的・政治的な発展を遂げた。バグラト5世はシャキの喪失を補うべく、隣接するイスラム国家であるアラン、モヴァカニ、ドヴィンを貢納国とした。内政面では王権の中央集権化を進め、諸侯に対する支配を強化した。1372年にはアレクサンドレをイメレティのエリスタヴィに、1375年(一説には1384年)にはヴァメク1世をオディシ公に、それぞれ王自らの権限で任命した。
1373年、トルコ人がジャヴァヘティに侵攻した際、バグラト5世は再び軍を率いて対峙した。アラスタニにおける決定的な戦闘でトルコ軍を撃破したが、この戦いでクサニ公クヴェニプネヴェリ1世と、アラスタニの領主ギオルギ公が戦死した。
国際関係

キリスト教世界との交流
バグラト5世の治世下において、ジョージア王国はかつてのギオルギ5世(在位: 1314年–1346年)の時代に享受していた国際的な名声を失っていた。当時のジョージア王国は、シルヴァン、アラン、チョバン朝、そして南西に接するトルコ系諸勢力といった、キリスト教国家に敵対的なイスラム諸国に包囲されていた。
このような状況下で、トレビゾンド帝国はバグラト5世にとってビザンツ世界や西欧世界への唯一の外交的架け橋となった。そのためバグラト5世は、かつてジョージアの保護下にあったトレビゾンド帝国と緊密な友好関係を維持した。バグラト5世の最初の王妃エレネは、トレビゾンド皇帝バシレイオス1世(在位: 1332年–1340年)の娘とされている。また、1366年にエレネが病没した後に迎えた2番目の王妃アナは、皇帝アレクシオス3世(在位: 1349年–1390年)の長女であった。バグラト5世はトレビゾンド帝国全土で深く尊敬されており、同時代の歴史家ミカエル・パナレトスは、バグラト5世を「驚異的な軍事指導者」と評している。
また、バグラト5世は教皇グレゴリウス11世が率いるカトリック世界とも外交関係を保持した。1370年、バグラト5世はテッサロニキの大司教と25人のフランシスコ会宣教師からなる使節団を受け入れた。1373年にはさらなる宣教師がこれに続き、1382年にはトビリシとアハルツィヘに2つの修道院が設立された。これらは東方、特にコーカサスにおけるローマの影響力拡大の一環であったが、バグラト5世はこの改宗の試みを受け入れる姿勢を見せることで、将来的な経済協力を視野に入れた西欧とのネットワーク構築を図った。
コーカサスにおける覇権
四方を敵に囲まれながらも、バグラト5世のジョージアは依然としてコーカサスにおける支配的な地位を占めていた。シルヴァンとアランを除き、南コーカサスのほぼ全域がジョージア王国の版図に含まれていた。アルメニア人コミュニティからも、バグラト5世は「勝利を収めた強力な君主」として多大な敬意を集めていた。
さらに、北コーカサスの山岳地帯の大部分は依然としてトビリシの形式的な宗主権を認めており、その勢力圏は東方のレズギ人の居住地にまで及んでいた。
ティムールの侵攻
トビリシの陥落(1386年)
侵攻の背景
バグラト5世がジョージア国内の復興と国際的影響力の回復に尽力していた頃、中東に新たな脅威が登場した。1363年から1370年にかけて、ティムールという名の若い将軍が、トランスオクシアナからホラズムに及ぶ帝国を築き始めた。野心的なイスラムの軍事指導者であり、チンギス・カンの後継者を自認していたティムールは、かつてのモンゴル帝国の再興を野望に掲げていた。
1380年代、ティムールはかつての同盟者であったジョチ・ウルスの有力なハン、トクタミシュと対立した。1385年にトクタミシュがタブリーズを占領したことを受け、両者の戦争が勃発した[5]。ティムールが南コーカサスへ初めて進出したのは、トクタミシュに対する「防衛の盾」を構築するという戦略的意図によるものであった。1386年、ティムールはカルスとエルズルムを占領した。ティムールの公式記録である『ザファル・ナーマ』(勝利の書)は、この遠征をキリスト教王国へイスラム教を広めるための「ジハード」(聖戦)と位置づけ、宗教的正当性を付与した。ティムールがジョージアへ侵攻する可能性を察知したバグラト5世は、トビリシに要塞を築き、強力な防御施設を建設した[6]。
ジョージア侵入と包囲網
東コーカサスでの凄惨な略奪を経て、ティムール軍はジョージアの貢納州であったタバサランを荒廃させた。初冬の厳しい寒さにもかかわらず、膨大な軍勢は国境の町イェレヴァンを経由してジョージアへ侵入した。ティムール軍は、当時ジョージア支配下にあった北アルメニアを蹂躙した。
南部サムツヘ公国の領主ベカ2世は、激突を避けて即座に降伏・帰順を申し出た。これにより、バグラト5世は南方の防衛拠点と軍事的支援を失うこととなった。窮地に立たされたバグラト5世は、王妃アナとともに首都トビリシへ籠城した。一方で、長男の共同王ギオルギ7世をサムツェヴリシへ避難させた。ギオルギ7世はその後、ティムール軍の接近に伴いイメレティへ移動した。
ティムール軍は北上を続け、パルツヒシを通過しながら数十の村々を破壊した。ティムール軍はトリアレティやサバラティアノ全域に「恐怖と戦慄」を撒き散らし、多くの捕虜を連れ去った。ジョージアの農村地帯が破壊されたという知らせを受け、バグラト5世の筆頭将軍であったヴィルシェル3世公は、カトリコス総主教ギオルギ5世や避難民、家畜とともにベフシ要塞に立てこもり、決戦に備えた。
トビリシの陥落(1386年11月21日)
トビリシの城塞は、城塞は、包囲戦に備えて驚異的な速さで補強された。首都の守備隊は国内全土から集結した精鋭たちで構成されていた。しかし、巧妙な戦略家であるティムールは街を完全に封鎖し、外部からの救援ルートを遮断することで、包囲された王を救出するための援軍が来るのを阻止した[7]。ジョージア貴族の有力者たちは、各自の領地へ避難するために街を去り、バグラト5世の側には少数の忠実な臣下のみが残った。
やがてトビリシの要塞の周囲には破城槌が配置され、ティムール軍が布陣した。1386年11月21日、猛烈な冬嵐の中、ついに王城の城壁は崩され、侵略軍が首都へとなだれ込んだ。バグラト5世は解放の希望が潰えたことを悟り、自ら軍の先頭に立ってティムール軍に立ち向かった。『カルトリス・ツホヴレバ』(ジョージア年代記)によると、バグラト5世は攻撃に向かう直前、守備隊に対し次のように演説したと伝えている。
キリストの侵攻のために死ぬことは、征服者に屈服し、その法に従うよりも美しく、望ましい運命である。
続く戦闘は凄惨なものとなり、両軍に甚大な被害をもたらしたが、ティムール軍の方がより大きな損失を被った。ジョージア側は最後の生存者たちがトビリシの市街に立てこもって激しく抵抗し、戦闘はすぐには終わらなかった。ジョージア側は射手たちがイスラム兵に多大な損害を与えたため、ティムール軍は身を守るための拒馬や棍棒の準備を強いられた。
1386年11月22日、6ヶ月に及ぶ包囲の後、都市は陥落した[8][9]。最終的にトビリシの城壁は完全に粉砕された。街を制圧したティムール軍は、キリスト教の宗教的建造物を焼き払い、市民を虐殺し、数百人の捕虜を連れ去るなど、徹底的な破壊の限りを尽くした。バグラト5世は数人の兵士たちとともに最後まで剣を振るって戦ったが、ついに武器を手にしたまま捕らえられた[7][10]。バグラト5世は、王妃アナおよび息子ダヴィトとともに、アミール・ティムールの御前へと連行された。
捕囚とイスラム教への改宗
略奪の再開
ティムールの捕虜となったバグラト5世は、侵略軍の南コーカサス進軍への同行を強いられた。トビリシに強力な守備隊を残して出発したティムール軍は、カライアの砂漠地帯へ移動した。そこでティムール軍は破壊活動を一時中断し、「あらゆる気ままな楽しみ」にふけって時を過ごした。
その後、ティムールはカラバフで軍を再編し、ジョージアへの新たな略奪を命じた。この再攻撃の背景には、バグラト5世が当初イスラム教への改宗を拒んだことがあったとされる。ティムールの将軍が率いる破壊部隊は、軍事的抵抗のなくなったジョージア国内を蹂躙した。間もなくトビリシは再び壊滅し、下カルトリからは住民が姿を消した。破壊軍は軍事的な抵抗に遭わなかったため、ジョージアの民間人や宗教的象徴を容赦なく攻撃した。
聖堂の破壊と殉教
全ジョージアのカトリコス総主教の座であるスヴェティツホヴェリ大聖堂をはじめ、ムツヘタの多くの聖堂が破壊・略奪の犠牲となった。
『カルトリス・ツホヴレバ』(ジョージア年代記)は、クヴァタヘヴィで行われた凄惨な事件を記録している。イスラム教への改宗を拒んだ多数の司祭、修道女、村人たちが現地の聖堂内に閉じ込められ、生きたまま火を放たれた。これらの犠牲者は、現在もジョージア正教会において聖なる殉教者として崇拝されている。ティムールの軍勢はさらに南下しながらウビサ修道院の大聖堂を破壊し、ルイシを荒廃させた後、カヘティに侵入して同様の破壊を繰り返した。
バグラト5世の決断と解放
遠征から帰還した将軍より勝利の報告を受けたティムールは、バグラト5世に対し「改宗しなければさらなる略奪を続け、王を殺害する」と最後通告を突きつけた。民衆をこれ以上の惨禍から救うため、バグラト5世はついに屈服を装い、改宗を受諾した。これにより、彼はジョージア史上初となる(名目上の)イスラム教徒の王となった。
ティムールはジョージア国内に長く留まらず、悪天候にもかかわらず進軍を続けた。1386年から1387年にかけての冬、ティムールはカルトリ、カヘティ、ヘレティで数多くの略奪を行い、現地の聖堂を破壊した後、越冬のために現在のアゼルバイジャンの北部へと向かった。ティムールはそこでキリスト教徒や異教徒の住民を虐殺した。この当時、王が不在となったジョージア王国は、イメレティへ避難していた王子ギオルギ7世が事実上の統治をしていた。臣民たちはギオルギ7世の即位を模索したが、ギオルギ7世は捕虜となった父バグラト5世の命を案じて拒否した[11]。
同時期、バグラト5世と王妃アナは、イスラム教への改宗を正式に宣言し、ティムールに数多くの贈り物を捧げて信頼を得た。贈り物の中には、かつての英雄ダヴィト4世建設王が所有していたとされる、精巧な細工の施された貴重な鎖帷子が含まれていた。ティムールはこの献上品を高く評価し、ついにバグラト5世、王妃アナ、王子ダヴィトの解放を決定した。バグラト5世たちは贈り物とともに自由の身となり、ジョージアへと送り返された。
二度目のティムール侵攻
ティムールはジョージア全土をイスラム化し服従させるため、新たな臣下となったバグラト5世に12,000人の精鋭部隊を託して送り出した。しかし、これはバグラト5世による罠であった。
バグラト5世は密かに息子ギオルギ7世へ使者を送り、ジョージア軍による待ち伏せを指示した。国境付近の険しい地形で、バグラト5世の手引きを受けたジョージア軍が急襲を仕掛け、油断していたティムール軍を殲滅した[11]。この混乱に乗じてバグラト5世は自軍への合流を果たし、再びキリスト教の王として立ち上がった。
1387年春、自らの権威を汚されたことに激怒したティムールは、直ちに軍を返して二度目のジョージア侵攻を開始した。トビリシは再び荒廃し、国内各地で凄惨な報復が行われたが、ジョージア軍は山岳地帯を拠点に頑強な抵抗を続けた。しかしこの時期に、ティムールの本領である東方のペルシアや中央アジアで反乱が勃発したという急報が届いた。後方の憂いを取り除くため、ティムールはジョージアの完全制圧を断念し、急ぎ軍をまとめて撤収した。これにより、ジョージア王国は滅亡の危機を脱した。
治世の終焉と死
ジョージアはこの惨禍からゆっくりと立ち直り、国内の再統一に着手した。かつて、バグラト5世がティムール侵攻に苦しんでいた1387年、その混乱に乗じてイメレティのアレクサンドレ1世が完全な独立を宣言していた。しかし1392年、アレクサンドレの跡を継いだギオルギ1世が没すると、バグラト5世は直ちに軍を進めてイメレティに対する宗主権を回復することに成功した。
『カルトリス・ツホヴレバ』(ジョージア年代記)によれば、「その後、王バグラトは自らの領有地を再び支配して賢明に統治し、その直後に信仰に忠実かつ悔い改めた状態で没した」という。王位は息子のギオルギ7世が継承した[11]。