ゴハンナ
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| ゴハンナ | |
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ジョン・ボルトビー画(1795年頃) | |
| 欧字表記 | Gohanna[1] |
| 品種 | サラブレッド[1] |
| 性別 | 牡[1] |
| 毛色 | 鹿毛[1] |
| 生誕 | 1790年[1] |
| 死没 | 1815年4月[2][3] |
| 父 | Mercury[1] |
| 母 | Herod Mare[1] |
| 母の父 | Herod[1] |
| 生国 | イギリス[1] |
| 生産者 | 第3代エグレモント伯爵[4] |
| 馬主 | 第3代エグレモント伯爵[4] |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 26勝[4][5] |
ゴハンナ(Gohanna、1790年[1] - 1815年4月)は、イギリス生産の競走馬、種牡馬である。1795年に名付けられるまでは "Brother to Precipitate" の名で出走していた[注釈 1]。各競馬場のヒズマジェスティーズプレート、ルイス競馬場のカウンティプレート3連覇など生涯で26勝を挙げたほか、「ポテイトーズの年」とも呼ばれた1793年のダービーステークスではワキシーに次ぐ2着に入った。
引退後はペットワースにて生産者でもある第3代エグレモント伯爵ジョージ・オブライエン・ウィンダムのもとで種牡馬となり、ダービーステークス勝馬のエレクション (Election) やカーディナルボーフォート (Cardinal Beaufort) などを送り出している。
なお、当時のイギリスでは、馬齢は5月1日に加算される規定となっていたが[注釈 2]、以下の馬齢表記は1月1日に加算される方式に統一する。

1790年、サセックスのペットワースにてエグレモント伯爵によって生産される[2]。ゴハンナの父マーキュリー (Mercury) はデニス・オケリー生産の競走馬で、競走生活の途中に伯爵に売却され、引退後は伯爵のもとで種牡馬となった[5]。マーキュリーはゴハンナのほか、ヒッポリタ (Hippolyta) やプラティナ (Platina) の両オークス馬の父でもある[6][7]。
母馬は "Herod Mare[8]" や "Sister to Challenger[4]" と呼ばれるヘロド産駒で、繁殖牝馬として1787年から1807年に死亡するまで12頭を産んだ[8]。そのうち初仔のプレシピテート (Precipitate) はゴハンナの全兄に当たり[8]、キングズプレートなど9つのレースを制した後、種牡馬となり、1803年にはアメリカ合衆国に輸出されている[4][9]。
ゴハンナは、体高15ハンド2インチ、額にダイヤ型の星を持つ鹿毛馬であった[4]。その馬格について、ドルイド[注釈 3]は著書 "Silk and Scarlet" の中で、「ハンター種のようなスタイルであった」と評している[11]。ゴハンナという名は、伯爵が繁殖牝馬の放牧地として使用していた同名の丘に由来する[12]。
競走馬時代
1793年(3歳)
初出走は4月1日、ニューマーケット競馬場クレイヴン開催のスウィープステークスで、トップギャラント (Top-Gallant) の2着となった[13][14]。そして翌日に同開催のスウィープステークスでウォリック (Warwick) らに勝利した[15][16]。その後は同競馬場の第一春季開催に出走し、プリンシズステークスのファースト、セカンド、サードクラスの全てで勝利を飾った[4][15][17]。
5月16日にはエプソム競馬場のダービーステークスに出走する[18]。レースは11頭立てで行われたが、その内7頭をポテイトーズ産駒が占めており[19]、ドルイドが前述の著書で「ポテイトーズの年(Pot-8-o's year)」と記すような状況であった[11]。ゴハンナは一番人気に推され[4]、賭け率も10対11と2番人気(8対1)と比べても圧倒的であったが[20]、レースではワキシーに半馬身差の2着に敗れた[4][21]。最終的には上位4頭のうちゴハンナ以外はポテイトーズ産駒という結果であった[22]。
ダービーに敗れた後は秋まで競馬場には現れず[5]、10月、次戦となったニューマーケット競馬場ホートン開催のスウィープステークスでドルイド (Druid) らを破ると[15][23]、オークス勝馬シーリア (Cælia) とのマッチレースにも勝利した[2][15][24]。
1794年(4歳)
4月、ゴハンナはオートランズステークスのセカンドクラスに出走するもドルイドに敗れ着外であったが[5][25][注釈 4]、翌日のスウィープステークスではそのドルイドらに勝利し雪辱を果たした[5][26]。5月の第一春季開催では、5日にバザード (Buzzard) とのマッチレースが組まれていたが、エグレモント伯爵はこれを辞退し、対戦馬の所有者であるウィルソンに違約金を支払っている[27]。その後、同開催のクラレットステークスでテューサー (Teucer) を破って勝利した[28]。
第二春季開催のジョッキークラブプレートでは、ダービー以来となるワキシーとの再戦が実現したが、ここでも敗北を喫する[20][29]。しかし、鞍上のサム・アーナルはエグレモント伯爵に同馬が不調であったことを伝え、斤量に差をつけての再戦を提案した[4]。その提案はワキシーの所有者であるサー・ファーディナンド・プールに持ちかけられるが、プール自身は拒否するものの「紳士諸君がこの機会にワキシーを借りたいのであれば、お貸ししよう」と返答した[4]。これに飛びついたのはグラフトン公爵で[4]、翌日、ビーコンコースでの両馬によるマッチレースが実現し、結果はワキシーに比べ3ポンド減の条件で走ったゴハンナに軍配が上がった[15][30]。
7月31日、ルイス競馬場のスウィープステークスでグアティモシン (Guatimozin) やロイヤリスト (Royalist) を破って勝利[15][31]。そして同日、サセックス産馬限定のデュークオブリッチモンドプレートに出走するが、同斤量のワキシーに敗れた[32]。更に2日後には、40ギニーのサブスクリプションレースを単走にて勝利している[33]。次戦はカンタベリー競馬場に移動し、ヒズマジェスティーズプレートを前走と同様、単走にて勝利[34]。10月はニューマーケット競馬場でヒロイン (Heroine) とのマッチレースに勝利した後[35]、翌日にもレースに出走するが、9ストーンを背負ったコリアンダー (Coriander) の2着に敗れた[36]。
1795年(5歳)- 1796年(6歳)

1796年5月17日[37]、ゴハンナはヒートレースにてワキシーと激しく争ったが、第1、第3ヒートを取られ戦いに敗れた[4]。
この年、初めてゴハンナという名が付けられた[38]。初戦のオートランズステークスではガブリエル (Gabriel) に敗れ着外に終わったが[39][注釈 5]、第二春季開催ではダーシャム (Darsham) とのマッチレースに勝利[40]。同開催中に1戦した後[41]、ルイス競馬場のデュークオブリッチモンドプレートは単走とし[42]、レディースプレートではギルフォードの2着に敗れるが、3着のワキシーには先着した[43]。その後はリッチフィールド競馬場とウォリック競馬場で開催されたヒズマジェスティーズプレートに出走し、両方のレースで勝利を収めた[44]。
6歳シーズンの初戦ではワキシーとの有名な勝負が行われた[5]。5月17日のギルフォード競馬場で実施されたヒズマジェスティーズプレートは4マイルのヒートレースで争われ、ワキシーとモノキュラス (Monoculus) が対戦相手となった[37]。ゴハンナは第1ヒートでワキシーに短アタマ差の2着、第2ヒートでは同着となるが、第3ヒートで半馬身差で2着となり、ワキシーに敗れた[5][20][37]。
8月4日にルイス競馬場で行われたヒズマジェスティーズプレートは単走で[45]、翌日のカウンティプレートはヒートレースにてワキシーの半姉であるケレンハップク (Keren-happuch) とバックナー (Bucknor) に勝利した[45]。8月31日、ソールズベリー競馬場のヒズマジェスティーズプレートではワキシーに敗れたが[46]、9月6日のウォリック競馬場での同プレートでは12ストーンの斤量を背負いディオゲネス (Diogenes) を下した[47]。
1797年(7歳)- 引退
1797年は、ギルフォード競馬場のオートランズステークスに出走するも最下位の6着に終わり[48]、アスコット競馬場のスウィープステークスはリトルデビル (Little Devil) の2着に敗れた[49]。また、ルイス競馬場のカウンティプレートでもプレイオアペイ (Play or Pay)に敗れている[50]。同シーズン唯一の勝ち星はエガム競馬場でのスウィープステークスであったが、これは単走による勝利であった[51][注釈 6]。
1798年は1戦のみの出走となり、ルイス競馬場のカウンティプレートでプレイオアペイを破って勝利した[52]。1799年は7戦し、ニューマーケット競馬場のサブスクリプションハンディキャッププレート、スウィープステークスはそれぞれヤングスピアー (Young Spear)、コモドール (Commodore) の2着に敗れた[53]。その後、7月のブライトヘルムストン競馬場のスウィープステークス[54]、8月のルイス競馬場のカウンティプレート[55]、トランペター (Trumpeter) とのマッチレースに勝利[56]。しかし、マッチレースの同日に行われたレディースプレートは3着に敗れた[56]。この年はもう1戦、カンタベリー競馬場のスウィープステークスに出走するが、ベリッシマ (Bellissima) の2着であった[57]。
最終シーズンの1800年は、エプソム競馬場の3マイルで行われたヒートレース[58]、ブライトヘルムストン競馬場のパビリオンステークスでは敗れるも[59]、キャリア最終戦となったルイス競馬場のカウンティプレートでは第3ヒートまでに2戦を制して、カデット (Cadet) 、ダッチェスオブリムズ (Dutchess of Limbs) の2頭を退け勝利し[60]、併せて同レースの3連覇も達成した[4]。
種牡馬時代
引退後は、ペットワースにて種牡馬として繋養された[2]。種付料は26ギニーから始まり、途中52ギニーに上がったが、最終的には21ギニーとなった[2]。
産駒からはカーディナルボーフォート、エレクションのダービーステークス勝馬2頭や、ゴランパス (Golumpus) 、ワンダラー (Wanderer) の兄弟などを送り出した[2][4]。エレクションはドルイドに「最上級に小さく繊細な」産駒と評された馬で[11]、種牡馬としてもクラシック勝馬を3頭出し[5]、1825年には英愛リーディングサイアーに輝いている[61]。ゴランパスは不出走であったが種牡馬としてカットン (Catton) を出し、また、ワンダラーは娘のペリ (Peri) がサーハーキュリーズの母となったことで、サラブレッドの生産に影響を与えた[5]。ゴハンナは生涯で151頭の勝馬の父となり、産駒の獲得賞金額は45,608ポンドに及んだ[2][4]。
ゴハンナはよく "multum in prvo[注釈 7]" と形容された馬であったが、産駒も皆父に似ていたとされ[4]、ドルイドはその特徴について「短い脚で大きなパワーを発揮し、体高は15ハンド1インチを超えれば平均を上回った。そして、広い額、小さな鼻、そして非常に飛び出た目を持っており、スピードとスタミナに優れていた」と述べている[11]。
1815年4月、シューストリングス (Shoestrings) という牝馬との交配直後に死亡した[64]。25歳没。