サージ・パン
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サージ・パンは、1953年にヤンゴンで生まれた。4人兄弟姉妹で、父親は中国系の交通銀行に務めており、裕福な家庭に生まれ育った。セージ・パンは、1962年までヤンゴンのセント・ポールズ英語学校(現ボタタウン第6基礎教育高等学校)に通っていた[2][3]。
しかし、1962年ビルマクーデターにより、ネ・ウィン率いるビルマ連邦革命評議会が全権を掌握し、ビルマ式社会主義を採用して、国民資産の国有化を進めると、セント・ポールズ英語学校も国有化され、閉鎖された[3]。
1965年、サージ・パンは家族とともに中国・北京に移住した。当時、中国では文化大革命の真っ只中にあり、サージ・パンも紅衛兵に参加。下放(上山下郷運動)も経験し、雲南省の辺鄙な農村部で厳しい生活を送った[2][3]。
事業
1973年、サージ・パンは香港に渡った。日雇い労働者、港湾労働者。芳香剤の販売員として働いた後、ドイツ人が経営する不動産会社に入社。そこで10年間働いて不動産業のノウハウを学んだ後、1983年に不動産開発を主とするサージ・パン・アンド・アソシエイツ(SPA)を設立した。1988年までにSPAはバンコク、クアラルンプール、深圳、成都、大連、台湾に支店を拡大。また、この頃、サージ・パンは香港出身の妻と出会って結婚した[2][3]。
1988年、ミャンマー軍(国軍)がクーデターを起こし、国家法秩序回復評議会(SLORC)(のちに国家平和発展評議会〈SPDC〉)が全権を掌握した。SLORC/SPDC体制下で経済の自由化が推進されるのを見たサージ・パンは、1991年に帰国し、兄のマーティン・パン(Martin Pun)と共同でSPAミャンマーを設立。次いで1992年に不動産開発会社ファースト・ミャンマー・インベストメント(FMI)を、1993年にヨマ銀行を設立し、金融、不動産、病院、自動車販売、小売、農業などの分野に事業を拡大していった。また、海外にも拠点を持ち、香港、タイ、中国などで不動産・ゴルフ場開発を展開している。
フォーブス・アジアによると、2017年におけるサージ・パンの総資産は8億米ドルで、シンガポールの大富豪において35位にランクされた[4]。
国軍との関係
国軍関係者と縁故を利用することをよしとせず、ミャンマー企業グループの中では、比較的クリーンで、透明性が高いという評判を取っている[5]。その一因として、サージ・パンには前業で培った資産と華僑ネットワークがあり、国軍関係者との縁故を利用する必要がないことが指摘されている[3]。
しかし、SLORC/SPDCの第1書記で、首相も務めたキンニュンとは親しく、2004年にキンニュンが失脚した後、ミャンマーの経済界では縁故主義がひどくなったという持論を展開している[3]。また、サージ・パンは2000年にヤンゴンにパンライン・ゴルフクラブを設立したが、これがゴルフ好きが多い国軍関係者との人脈を築くのに役立っているとも指摘されている[3][6]。
2023年7月、サージ・パンが「反政府勢力にネピドーを攻撃する計画はないと聞いて安心した」と述べる動画が、ネット上で拡散され、大きな批判に晒された[7]。