ミャンマーの華人
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ビルマ語において、中国人はタヨウッ(တရုတ်、တရုပ်)と呼ぶ。この呼称は少なくとも13世紀のパガン王朝時代にまで遡るものであり、突厥や大月氏、南詔の首府であった大理に由来しているとの説などがある[3]。とはいえ、中国人を呼び表す外称としてタヨウッが定着したのは19世紀以降のことであった[3]。
1940年代から50年代にかけては、パウッポー(ပေါက်ဖော်、「兄弟」の意味)という言葉が中国人を指す親しみを込めた名称として選ばれ、外交の文脈で用いられた。この語はビルマ人と中国人が太陽の神と竜神の娘から生まれた兄弟であるという伝説に由来すると言われている[4]。モン語では中国人のことはクローク(ကြုက်, /krɜk/)[5]、シャン語ではケー(ၶႄႇ, /kʰɛ˨/)と呼ぶ[6]。
歴史
プレ植民地期・植民地期
雲南省とミャンマーは2000 km以上にわたる国境を接しているため、ミャンマー華人の歴史は記録以前に遡れる可能性もあるものの[7]、華人の定着が進んだのは元代以降のことと考えられている[8][7]。19世紀、ビルマがイギリス領になったのちはイギリス領マラヤから多くの華人が移住した[7]。とはいえ他の東南アジアの諸地域とは異なり、植民地期ビルマにおける華人の経済的地位は比較的低く、ヨーロッパ人・インド系ビルマ人はより高い地位を占めていた[9]。
ビルマにおける華人の人口は1931年時点で19.3万人であり、国内人口の1.3%を占めた[7]。ビルマ人と華人の通婚も多く行われ[10]、1935年より華人は植民地議会に代表者も送っていた[11]。第二次世界大戦のため居住地を離れた東南アジア華人グループのうち、連合国救済復興機関に戦前住んでいた国への帰還を申請した人口がもっとも多かったのはビルマの華人であった[12]。
独立後
1950年代、ビルマ連邦は中華人民共和国を国家承認した最初の国のひとつとなった。しかし、国内の華人は外国人として扱われ、外国人登録証を発行された。この時期、国共内戦に敗北した中国国民党の残党勢力(泰緬孤軍)がビルマに逃げ込んだ[13]。第二次世界大戦後、インド系住民の多くがビルマを離れ、華人はそれまでインド系商人の営んでいた多くの産業を引き継ぐようになった[14]。慶福宮の1952年の資料によれば、華人はラングーンの人口の9.5%を占め、シノーダン(Sinohdan)、ラタ(Latha)、マウンカイン通り(Maung Khaing Street)の中華街に居住していた[15]。この時代には国民党系・共産党系の中国人学校が多く設立された[16]。とはいえ、ビルマ国内の華人は市民権・政府機関への雇用・事業規制や営業許可の承認・融資延長・送金の許可などに関して制限を受けていた[17]。
ネウィンによる1962年ビルマクーデターののち1963年には多くの企業が国有化された。この政策は特に完全な市民権を持たない住民に大きな影響を与えた[17]。さらには華人を含むビルマ国籍を持たない住民は土地所有・送金・営業許可の取得・医療行為などを禁じられ[17]、およそ10万人の華人がビルマを離れた[13]。一部の中国系住民による文化大革命に照応する動きなどが影響して、1967年のミャンマーにおける反中暴動をはじめとするいくつかの暴動が起こり[18][19]、多くの都市で華人の経営する商店に深刻な被害をもたらした。また、政府はこれに応じて中国人組織や中国人学校を禁止した[20]。しかし、ネウィン政権が主導したビルマ式社会主義の結果生まれた闇経済において華人は主導的な地位を手にした。1970年代から1980年代にかけ、政府の経済政策が緩和されると華人の経済活動は再び活発になり、ラングーンでは大規模な市場の半分以上が華人の店舗で占められた。華人の経済的伸長は、1988年の国家法秩序回復評議会(SLORC)による政権掌握を通じて経済政策がさらに開放されたことにより、さらに進んだ[21]。