Wikiwand AI

ザ・レイプ・オブ・南京

アイリス・チャンによるノンフィクション著作 From Wikipedia, the free encyclopedia

『ザ・レイプ・オブ・南京』(ザレイプオブなんきん、原題:The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II)は、中国系アメリカ人作家アイリス・チャンが著した南京事件(南京大虐殺)に関する著作。原著は1997年に英語で発刊され、中国語、フランス語および日本語に翻訳された。なお、この本に先立って、副題が異なるが偶々同名の本、"The rape of Nanking : an undeniable history in photographs"(中国語タイトル:南京大屠殺)という本が同年1月に著者、史詠(Shi Young)、尹集鈞(James Yin)で出版されている。

概要

日中戦争中の1937年12月の南京陥落後に発生した「南京大虐殺」を、英語で書かれた作品として初めて本格的に取り扱ったものである。三部構成で、第一部では、日本、中国、そして、第三者としての欧米という三方向の視点から迫ろうとしている。第二部では、第二次世界大戦後の冷戦を背景に、南京大虐殺がアメリカやヨーロッパでどのように扱われていくようになったかを分析している。第三部では、「南京大虐殺」を半世紀以上にわたり人々の意識から遠ざけようとしてきた勢力について書いている。なお、タイトルのレイプ(rape) は文語的表現で、”the rape of ・・・”で「 ・・・の破壊・侵害」等を意味する[1]。

執筆の動機

チャンは少女時代より、両親から「南京大虐殺」の話を聞いていた[2]。しかし小学生の頃、図書館で「南京大虐殺」に関する書物を探したが何も見つからず、学校でその事件について教えられることもなかった。20年後に、この事件に関する記録映画を制作していたプロデューサーに出会い、この事件に再び向き合うことになった。1994年にサンノゼ市近郊で中国系団体「世界抗日戦争史實維護聯合會」が主催した集会に参加したときに、会場に展示されていた日本軍による残虐行為とする写真を目にして衝撃を受け、本書の執筆を決意したとされる。

調査

チャンはアメリカ国内ではアメリカ国立公文書記録管理局やイェール大学図書館などで資料を収集し、当時のアメリカ人ジャーナリストや南京安全区国際委員会のメンバーの遺家族などにも取材をおこなった。さらに中国取材旅行では、中国社会科学院歴史研究所や南京大虐殺紀念館などの協力を得て、資料収集や当時の生存者へのインタビューをおこなった[3]。また英語文献だけでなく、外国語(日本語、ドイツ語、中国語)の文献の収集も行い、事件の調査に2年間を費やした。ただし、日本国内での取材はおこなわず[4]、日本語やドイツ語の文献の調査は、英訳スタッフの翻訳に依存した。後に、これらの点が批判の対象になった[5]。これに関連し、著者が日本の研究成果を無視しているという批判もあるが、相当数の日本語文献を引用している[6]。

また、発見された「ラーベの日記」[7]を広く世界に紹介したことは、本書の重要な功績であるとされている。これは、南京安全区国際委員会の代表を務めたジョン・ラーベの日記である(参照:ジョン・ラーベ#日記)。彼は、日本軍が南京を占領した時期に南京市に滞在していたドイツ人のビジネスマンで、ナチ党員であり、南京安全区国際委員会の代表に就任し、日本軍の虐殺行為に抗議して、南京市民を保護する活動を行った。第二次大戦後、「ラーベの日記」の行方は長らく不明になっていたが、アイリス・チャンは詳細な日記の存在を知り、彼女自身の書くところによれば、その保管者に手紙で連絡を取り、ニューヨークの「南京 大虐殺殉難同胞連合会」の会長である邵子平とともに保管者に出版を奨め、その出版に至ったもので、この「ラーベの日記」を本書『ザ・レイプ・オブ・南京』で紹介した[8]。アメリカの関係者だけでなく、日本の歴史学者の笠原十九司や秦郁彦も、この日記が重要な歴史史料であることを認めている[9]。また、やはりナチ党員であった、カルロヴィッツ社の南京駐在員のドイツ人、クリスチャン・クレーガーの日記の存在も紹介している。

反響と批判

アメリカ合衆国

  • アメリカではワシントン・ポストが紙面で大きく本書を取り上げ、チャンの主張を詳細に紹介している[10]。また、ニューヨーク・タイムズで絶賛され[11]、同紙のベストセラーリストに10週間掲載された。
  • 『ニューズウィーク』や3大ネットワークなど、全米の主要なマスメディアも本書を好意的に評価した。他、ハーバード大学教授のウィリアム・C・カービー[12]やハーバード大学フェアバンクスセンターのロス・テリル[13]、ピューリッツァー賞受賞ノンフィクション作家であるリチャード・ローズ[14]らが賞賛している。

批判

なお、批判については、たしかに本書には誤りも多いものの、総じて対象となる事件の本質にかかわるものでなく、何よりも著者であるチャン本人が取材で集めた事件被害の経験者らの証言集・口述集である点に値打ちがあることを無視してはならないという主張がある。

  • 秦郁彦によれば、本書の出版直後には、『ニューズウィーク』『ワシントン・ポスト』『ニューヨーク・タイムズ』が「扇情的な見出しを打って持ち上げた」のに対し、「情熱は買うが歴史書としては不適切」、「中共も同じ事をチベットでやった」などの例外的な批判が少数見受けられた程度であったとされる[要出典]が、その後、日本について詳しいとされる研究者から批判されるようになった。
  • カリフォルニア大学のジョシュア・A・フォーゲルは「きわもの的書物」と表現で、歴史的事実の誤認があると主張している[15]。
  • スタンフォード大学歴史学教授のデイビッド・M・ケネディは、本書の副題The Forgotten Holocaust of World War II(第二次世界大戦における忘れられたホロコースト)が旧日本軍の行為とホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を同視するものであるが、「南京での出来事が、ユダヤ人大虐殺との比較に値するかどうかはおそらく、別の問題であろう。また、チャン氏が断言するようにそれらの出来事が完全に忘れられてしまったのかどうかも明らかではない」と主張している[16]。
  • ワシントン・アンド・リー大学東アジア史教授ロジャー・B・ジーンズは、本書を「不完全な歴史(half-baked history)」と評した上で、「当時の南京の人口を大きく水増しし」、「東京裁判を無批判に受け入れている」と主張[17]、セントオラフ大学歴史学教授ロバート・エンテンマンは「チャン氏が提示する日本の歴史的な背景はありきたりで単純で、固定観念にとらわれており、しばしば不正確である。」とし、「チャン氏は、なぜ大虐殺が起こったのか正確に説明していない」と主張している[18]。
  • サンフランシスコ・クロニクル記者のチャールズ・バレスは、(1)「チャン氏が日本で調査を行わなかったので、現代の日本が戦争にどのように向き合っているかに関する彼女の記述が、批判を受けやすいものになった」点、(2)「彼女が主に活動家なのか、歴史家なのか」が不明であり、(世界抗日戦争史実維護聯合會を含む)「中国および中国系アメリカ人の団体のチラシ配布の代行者であるように見える」点、(3)また、日本の外務大臣が日本軍による30万人を越える虐殺を認識していた「確固たる証拠」としてチャン氏が引用した電報は、「実はイギリス人の通信員による外電であり、南京だけでなくほかの地域での死者を含むものである。」点などを主張している[19]。
  • ジャーナリストのティモシー・M・ケリーは「不注意による間違い」「まったくのでたらめ」「歴史に関する不正確」「恥知らずの盗用」の4項目に分けて主張しており、デイビッド・バーガミニ著『天皇の陰謀』からの盗用があると主張している[20]。ただし、『天皇の陰謀』はそれ自体が大ヒットし、よく知られた作品で、チャンは先行研究として使っただけだとの受取り方も強い。
  • 当時の斉藤邦彦駐米大使も「不正確で一方的な見解だ」と主張した[21]。山田正行は、斉藤は公刊を前提にした質問には発言内容の激しさや強さを控えていたとし、本人自身が文書に残せない内容のものとの自覚があったのだろうとしている[22]。

日本

  • 歴史学者の秦郁彦は、序章での「日本軍が数週間の間に一般市民約26万人から35万人を虐殺し、女性2万人から8万人を強姦した」とする被害者の人数の記述が不正確だと主張し、さらに、虐殺の例として「生きたまま穴に埋める」「性器を切り取る」「臓器を切り裂く」「火あぶり」「鉄のフックを使って舌の部分で人をつるす」「腰まで人を埋めて猟犬がその体を引き裂くのを見物する」、「女性の臓器を取り出し」「胸を切り取り」「生きたまま壁に釘で打ちつける」、「他の家族が見ているところで、父親に娘の強姦を強要し、息子に母親の強姦を強要する行為もあった」と同書は描写するが[23]、これら「中世の魔女裁判も顔負けのこの劇画的シーンを彼女がどこから仕入れたのか、注を引いてみると、簡単に「著者による生き残りからのインタビュー」としか書いていない」と、その典拠と証言が不確実であると主張している[5]。
  • アメリカで原書が出版された1997年当初から、日本国内では東中野修道[24]をはじめとしたいわゆる「南京大虐殺」の「否定派」が、本書を激しく批判した。
  • 本多勝一や笠原十九司などの、「南京事件調査研究会」の研究者たちも、日本語版の出版に際し、誤りや確認できない部分に関して、訂正を求めたとされる[25]。
  • 中国政府などによる「反日」工作の書であるとする見方[3][26]もある。
  • 立命館大学歴史学教授の北村稔は、チャンが「日本では南京事件研究は逼迫させられており」「(南京事件の研究者たちは)職や生命を失う危険がつきまとう」「安全を危惧する中国政府は自国の研究者たちの日本訪問を滅多に許さない」と本書で書いていることについて、「為にする虚偽の記述」と主張している[27]。北村は、チャンの記述とは異なり、実際には、日本では南京事件について多数の研究が行われ、多数の著作が刊行されていると主張する[27]。しかし、実際には南京事件について証言した東史郎のもとには発煙筒が投げ込まれる、右翼による街宣といった嫌がらせや死ね・赤報隊と称して殺すといった脅迫の手紙・電話があり、東史郎の本を出版した出版社を金属バットをもった男が襲撃するといった事件が起きている[28][29]。また、南京事件をめぐるものではないが、日本の右翼テロについては、先の赤報隊による朝日新聞記者の殺害事件や本島長崎市長が銃撃される事件が起きており、チャンも、本書でこれら東史郎や本島市長の事件について、その理解にやや疑問があるが例として取り上げている。巫召鴻は、社会心理学者の中山治の「この種の問題が誹謗中傷のドロ試合でお手上げだ」とする著述、国際政治学者の藤原帰一の「論争当事者が自分の判断は疑わず記憶の戦いになって偏見の補強しか招いていない」といった著述等にみられる、研究者の距離をおこうとする姿勢、柏書房の最初の本書出版中止のプレスリリースにある「右翼の脅迫もどきの」といった言葉を取り上げて、要するに、激しい圧力と身にかかる危険を覚悟しなければならない事実があることを示しているとする[30]。実際に、後の2004年、漫画家の本宮ひろ志が、その漫画『国が燃える』で、南京虐殺を存在する前提で扱ったところ、否定派・懐疑派から激しい非難攻撃を出版社の集英社とともに受け、一時休載、出版社は、掲載誌に釈明記事を載せ、単行本として発行する際には21ページにわたる関連部分を削除・修正することを表明する事態に追い込まれている[31](参照:国が燃える#南京大虐殺の描写問題)。
  • 「ザ・レイプ・オブ・南京」の日本語版の翻訳者である巫召鴻は日本における良識的な学者、研究者が自説を発表するときに、極度に慎重な姿勢に閉じこもり、結果的に否定派の横行を黙認しているという現実から見て、チャンが指摘する日本における南京大虐殺などについての激しい圧力の存在が事実であると主張している[32]。
  • また、巫は本書への批判の多くが、批判者の理解不足や悪意からくる誤解や歪曲であると主張している[33]。
    • たとえば、藤原信勝・東中野修道の『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』では、『ザ・レイプ・オブ・南京』第二節「六週間の暴虐」で紹介されている富永正三の体験談に触れ、富永正三が所属していた歩兵第232連隊は当時存在しないし、陸軍士官学校の卒業名簿に富永正三がないので、陸士卒としての富永正三なる人物は存在しないと書いている[34]。しかし、巫は、232連隊は1939年に発足しており、チャンはこの話を必ずしも南京でのこととしているわけでなく、この頃の日本軍の性質がどういうものであったかを物語る富永の体験談として読めばよく、また、チャンは富永を別に陸軍士官学校出と言っているわけでなく何らかの見習士官訓練コースを受けたことを言っていることが英語原文からは分り(←藤原・東中野からの批判は邦訳が出ていない段階でなされている)、このような不十分な解釈で一部をあげつらい全てが覆ったと信じているかのような藤原・東中野の姿勢を批判している[35]。なお、富永正三は、最後は第39師団で歩兵第232連隊第10中隊長を務め、戦後は中国帰還者連絡会の会長も務めた人物である[36]。
    • T.M.ケリーは、本書の「1944年3月に連合国が戦争犯罪審査委員会を設立した」という記述に対し、「国連憲章が発効したのが1945年10月だから、そんなことはありえない、チャンはここでも事実に反することを書いている」と断定しているが[37]、巫はこれに対し、連合国は国連憲章発効以前にも、様々な国際活動をしており、ケリーの理解不足であると述べている[38]。なお実際に、戦争犯罪審査委員会は、実質的な活動に入ったのは1944年に入ってからのようであるが、1943年にロンドンで設立が宣されており、1943年設立と通常はされている(1948年まで存在)[39]。
    • また、巫は秦郁彦らが歴史学の権威をもって、本書を否定しようとする姿勢に対して、「歴史学という学術の体系が人間に対する歴史一般の取り扱いをどこまで委託されうるのか」、「政治的な問題の原因となり続ける歴史の出来事を歴史学の学術の議論だけ評価することはできないのではないか」という疑問を投げかけている[40]。
  • 大阪教育大学の山田正行は、ヴォルテールの精神で相手の発言権を擁護し、たとえ問題があってもまず自分の頭でそれを確認して自分で評価しなければならないと主張している[41]。

掲載写真に関する議論

秦郁彦
  • 秦郁彦は、雑誌『諸君!』1998年4月号に寄稿した論文「「南京虐殺」"証拠写真"を鑑定する」において、本書掲載の写真のうちの残虐写真とみられる11枚はヤラセ・スリカエ・偽造が多く、当時の南京事件の写真と言えるものはないと断定し[42]、その決定的な根拠として、本書の掲載写真の一枚が、日本の雑誌の写真の誤用であることが明らかであると主張した。つまり、本書で、日本軍の兵士が中国人の女性たちを護送している写真に、「日本軍が移動すると、彼らは何千もの女性を駆り集めた。彼女らの多くは輪姦され、あるいは強制的に軍事売春宿に入れられた(軍事委員会政治局、台北)」とキャプションをつけて、慰安婦連行の写真として掲載しているが、この写真は『アサヒグラフ』昭和12年(1937年)11月10日号掲載の写真「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群れ」であるので、誤用が実証されたと主張した。この写真は、南京研の笠原十九司も著書『南京事件』において「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」とキャプションをつけて掲載していた。笠原は、その後、中国国民政府軍事委員会政治部が、朝日新聞カメラマンが撮った写真を「悪用」もしくは「誤用」したものであったとして、掲載写真を差し替え、謝罪した(笠原十九司#写真の誤用問題参照)。ただし、巫召鴻は、これが中国側が宣伝のため日本側の写真を悪用・誤用したものであるなら、当然同様にそもそも日本側が日本軍宣伝のために中国側の写真を悪用・誤用した可能性もあり、なぜ秦はそれを考えないのかとし、また、この写真はかなりの重労働であるはずの農作業から帰る農民の写真であるにもかかわらず、写っているのが女性・少年・老人ばかりであるため、日本軍が潜伏した敗残兵狩り目的でしばしば集落の一般の青壮年男性を皆殺しにしたとの話を間接的ながら裏付ける有力な傍証と寧ろなりうることを示唆している[43]。
  • 1998年7月26日付サンフランシスコ・クロニクル紙の記事で、チャールズ・バレスは秦の論文を紹介したが、これに対して、チャンは「写真のキャプションには、写真がいつ、どこで撮影されたかについては何も書いていない。私の本は、南京大虐殺とのかかわりで、日本の中国侵略の恐怖を解説している。私の本での写真のキャプションは、『日本人は何千もの女性を駆り集めた。そのほとんどは輪姦され、あるいは強制的に軍事売春宿に入れられた。』となっている。この二つの文は否定できない事実を記している。」と反論した[44]。
  • 秦の前掲論文において、秦は本書の四十数枚の掲載写真のうち、「首切り」のものが7枚、「性犯罪」のものが4枚あったとして検討する写真のカテゴリーを限定し、これらはヤラセ・スリカエ・合成が多く、当時の南京周辺のものと言えるものはないと断定した[42]が、実際には秦が選別した写真以外にも、本書には首切りや性犯罪、あるいは虐殺の写真が掲載されている(マギーフィルムや村瀬守保の写真など)。これについて、巫召鴻は、秦は残虐行為などに係る写真を選別した結果、それら全てが出所不明だったという印象を与えているが、実際には残虐行為の写真のうち、出所不明であると思える写真を選別したものが秦の言う11枚の写真であったというべきであると指摘している[45]。
  • 秦の前掲論文において、秦が南京事件の写真としては誤用や偽造であると断定した11枚の写真のうち、何らかの考察や議論をしているものは、前述のアサヒグラフの写真を除き、3枚だけにすぎない。また、秦が検討した3枚の写真の内の1枚は、南京事件の写真として確実なものであるとする指摘がある[46]。多数の古参兵の見守る中で中国人捕虜らが新兵の銃剣訓練の練習台にされているとされる写真について、秦は、白いシャツの兵が多いのでこの写真は真冬の南京ではないと推定できるとしていた[47]。この写真自体は、漢口のW.A.ファーマーによって『ルック』誌に送られ1938年11月22日号に掲載されたものだが、ファーマーによれば日本兵が撮影し、現像のために上海に送られ、日本人経営の写真店の中国人従業員が余分に焼増し密かに持出したという[48](なお、これは南京の写真館から流出したとされる、南京裁判で証拠としても使われた16枚の写真とはまた別のものである。)。また、『ルック』誌以前に『チャイナ・ウィークリー・レビュー』の1938年8月13日号に掲載されていた[47]。ところが、1938年7月に応召、同月19日に南京に派遣され、愛用のカメラで南京市内を撮り、自身でも現像焼付していた帰還兵士のアルバムに、同じ光景を別角度から撮影したと確認できる写真が2枚あった[47]。したがって、問題の写真は別の人物が1938年夏に南京で同時に撮っていた写真とも考えられ、こうした残虐行為は南京陥落後半年以上経っても続いていたことになる。
  • 秦の前掲論文において、上記検討した3枚の写真の内の1枚である、多数の生首の並んだ写真につき、「1930年に中国官憲によって処刑された匪賊の首」であることが判明しているとする。巫召鴻は、そう書くからには何らかの材料があるのだろうとしているが、秦自身は同論文では根拠を全く示していない[47]。なお、1984年に朝日新聞が南京に出征した宮崎県の元兵士の遺品の中にあった写真数枚につき南京事件の証拠となりうる可能性を報じたものの、その中の多数の生首が転がっている写真について、秦は、統一教会の新聞である「世界日報」の調査によって昭和初年(昭和初年は12月25日の昭和天皇即位に始まり7日間しかなかった。あるいは昭和初期の誤記か)に満州で銃殺された馬賊の首で市販されていた写真であることが立証された、そこで朝日新聞は訂正のお詫び記事を出したと、嘗て著述したことがある[49]。ただし、その写真は本作の写真とは全く別のものである。藤岡信勝は、『「ザ・レイプ・オブ・オブ・南京」の研究』で、おおもととなった史詠の著作で、この写真は1984年の朝日新聞記事の宮崎県の元兵士の写真の内の1枚とされているが、全く関係のない、別のものと断言している(そのためか、藤岡・東中野らはまた別のあらたな否定論拠を提示している。後述)[34]。
  • 秦の前掲論文において、上記検討した3枚の写真の内の1枚である、日本兵らしき人物の脇に下半身を脱がされている女性が立っている写真について、もともと秦は、服装が民間人のジャンパーのようだ、顔も日本人に見えないとした上で、佐々木元勝の著書『野戦郵便旗』をもとに、当時中国では、日本から輸入された写真なのだという噂があったことも含めて、この種のエロ写真が出回っていたことを紹介、単に感想めいたコメントを書いていたが、特段の断定は何もしていなかった[47]。秦が1998年に出した『現代史の争点』でもほぼ同様であった[47]。ところが、これが2005年の『諸君!』1月号に秦が寄稿した論文「『南京』で燃え尽きた本宮ひろ志とアイリス・チャン」という論文になると、既に1998年の『現代史の争点』で、これが中国が宣伝用に作った「ヤラセ写真」でないかを検証、軍服に肩章がないことなどから日本兵でなく中国人工作員と判定した、と主張が膨らんでいる[47]。渡辺久志は、中国人工作員とまで飛躍していることに困惑、また、戦場で日本兵は階級を分からなくするため肩章を外すのが普通だったとし、占領まもない時点で撮影したのであれば肩章がないことに不思議はないとしている[47]。
  • 秦が前掲論文で言及しなかった別の写真(『日寇暴行実録』にあったとされる、大勢の日本兵の見守る中で生埋めにされようとしている中国人らしき人物らの写真)についても、「近接した時間に同じ場面を」別の角度から撮影したと言える写真が、元兵士の遺品の中から発見された[50]。第36連隊は南京戦にも参加しており、元兵士は、退役後タクシー会社を経営していた為、元上官に占領地でのタクシー事業の創設を依頼され、正確な時期は不明ながら自身も陥落直後の南京及び周辺に視察に行ったことがあったという[50]。記事では、日本カメラ博物館の専門家の鑑定を受けて合成写真とする明らかな特徴は認められないとされ、さらに秦郁彦へもインタビューし、『日寇暴行実録』と同一の人物が複数いて其の写りようからは複数の写真による合成写真説はとても成り立たないこと、この時期の国民党側がこれだけの日本軍の服装を入手するのは困難であろうことから演技写真説も弱いことを、秦も認めた記事が、2008年9月に朝日新聞に掲載された[50]。
藤岡信勝、東中野修道ら
  • 秦の論文ののち、藤岡信勝、東中野修道らが、『「ザ・レイプ・オブ・オブ・南京」の研究』(1999年、祥伝社。以下、『祥伝社本』とする)などで、南京大虐殺の写真について、写真のトリミングや合成等によるとして捏造説をさらに展開した。巫召鴻は、両者の決定的論拠は秦の議論に置かれているとする[51]。しかし、渡辺久志は、写真捏造説は誤りであると主張している[52]。また、藤岡信勝、東中野修道らも、合成写真であるとしても、それらの元となった写真がある筈であり、その写真だけでも日本軍の残虐行為の証明になりうるのではないかという点については、口をつぐんでいる。
  • 藤岡信勝、東中野修道らの上記『祥伝社本』では、「民家を焼く戦車」というタイトル入れした章で、チャンが日本軍が郊外の家に火を放っているとする写真について、これをウソとしている。写真に写っているのは「九七式軽装甲車」で、これは1937年の型式制定・試作であり、実質製造は1939年以降であるから南京戦に参加した筈がなく、当時南京に存在したのは「九四式軽装甲車」であるとしている。「九七式軽装甲車」とする根拠として、写真の装甲車は「九四式軽装甲車」とデザインが明瞭に違うとする[34]。しかし、「九七式」は「九四式」の改良型であるため双方のデザインは酷似し、どういった点を明瞭としているのか不明瞭である。『草思社本』では後輪が大きいため「九七式軽装甲車」としている[53]が、「九四式軽装甲車」の後期改修型は既に後輪が大型化されている[54]。なお、チャンの問題の写真には光の加減か白い線が入り、それが装甲車の砲身からの火炎放射のようにも見えることから、チャンが戦車の火炎放射砲による放火だと思い込んだとでも藤岡は考えたのか、「民家を焼く戦車」との言葉を章タイトルに入れている[34]。しかし、チャンはそのようなことを書いてはおらず、写真では家に火をかけたと思われる日本兵らしき人物が燃えさかる家の前に居て、単に「日本軍が郊外の家屋に火を放っている」とされているだけである。藤岡は、写真の日本軍装甲車と火事の間に関係はないと主張しているが、写真の装甲車のハッチは開いており、装甲車から降りて来た搭乗員とも考えられる上記人物は、燃えるのを見届けるかのように燃える民家の前に立ち、火を消そうとする様子もなく[34]、日本兵が火を放ったと考えることに不思議はない。さらに後の東中野修道・小林進・福永慎一郎共著による『南京事件 「証拠写真」を検証する』(2005年)では、東中野は自分らは「証拠写真」を一枚一枚食い入るように眺めた[53]としていながら、この写真に関する執筆者は、今度は自身らが装甲車が火炎放射している合成写真とでも見誤ったのか、火炎放射しているわけでもない写真について「装甲車は火炎放射器を持たない。したがって火を放つこともあり得ない」と的外れな主張を行っている[53]。この装甲車を九七式とした上で「まだ生産されていなかったから南京戦に参加したはずがない」という主張は、アイリス・チャンにも伝えられ、チャンはマスコミの電話インタビューに対し、引用した写真やキャプションについて偽造や変造はしていないと述べている[55]。『祥伝社本』では、「九七式軽装甲車」は1937年に試作が開始され、完成車の生産は1939年からで1942年までに1,127台が生産され、第一線に配備されたのは1940年11月30日、熊本の捜索第48連隊からとする[34]。ただし、アイリス・チャンの本書は南京攻略のみを対象としたものでなく、「占領下の南京」もわざわざそのための一章を設けるなど対象としている。問題の写真のキャプションは、「大虐殺では放火によって南京の三分の一が破壊された。ここでは、日本軍が郊外の家屋に火を放っている」と、市内の火災とは別の物であることを明らかにしている[48]。
  • 藤岡信勝、東中野修道らの上記『祥伝社本』の「中国人の首を刎ねようとしている日本兵」とタイトル入れした章で、中国人の首を斬ろうとしている日本兵の写真について、藤岡は日本兵が右足を前に出しているのがおかしい、これでは刀を振り下ろせないと事細かに解説、ここから写真を演出による捏造としている[34]。ところが、後の2007年に東中野らが南京事件研究会の分科会の成果として草思社から出した『南京事件 「証拠写真」を検証する』(以下、草思社本)では、逆に左足を出しているのがおかしいとしている[53]。体や顔が斜めを向いていて、現像や印刷の加減でところどころの画像が黒くつぶれ、それが影のようになった具合次第で、それぞれ右足が前のようにも見えたり、左足が前のようにも見えたりもする。いずれにせよ、日本兵は刀を構えているだけで、記念写真のポーズか、あるいは日本刀を振り下ろす際に刀を避ける必要があるのであれば前にある脚を引くのだろうというだけで、どうでもよいことだとして渡辺久志は、これらの批判を「為にする議論」と批判している[32]。
  • 藤岡信勝や上記研究会分科会は、『祥伝社本』の上記「中国人の首を刎ねようとしている日本兵」の章や『草思社本』で、日本兵がチャンチャンコのようなものを着ており、日本兵がそのようなものを着ることはなく、これは中国人の演技による演出だとするが、渡辺久志は、当時の日本軍将兵は占領地の余暇に比較的自由な服装でいたことを当時の『支那事変画法』の写真を紹介して証明している[32]。その他、『草思社本』は影の方向が一致しないことを指摘して、この写真を演出と合成によるものとする[53]が、影は地形に凹凸があれば二次元平面の写真画像に写した際には方向が変わって見える。若松みどりは、そもそも日本軍の百人斬り競争が日本で報じられ中国でも当時それが訳されて新聞『大美夕刊』の英字版・中国語版それぞれで報じられており、それが南京での百人斬り裁判の証拠になったほどで、そのような状態でこのような演出をわざわざする必要があったとは思えないとしている[56]。
  • 藤岡信勝、東中野修道らの上記『祥伝社本』の「揚子江岸の市民の虐殺死体」とタイトル入れした章では、村瀬守保撮影の揚子江岸で多数の死体が写った写真が紹介されているが、南京戦に従軍した将校の証言として、写真の死体はその将校が戦った中国兵の死体で、市民の虐殺死体ではないとしている。しかし、衣服が軍服かどうかはそれらの写真ではよく分からず、その将校の証言に客観的に裏付けとなるものが無く、さらに「死体の方向が一定であることから、揚子江で戦死ないし溺死した死体が流されてきた吹き溜まり」であるとしているが、写真の殆どの死体の方向は全くバラバラであり、証言内容と実際の写真内容とが一致していない[34]。なお、この中にチャンの本でも紹介された写真(『祥伝社本』のP.85写真3⃣の3)があり、この写真中の堤の脇の一部死体のみ方向が比較的そろっているものの、これらはチャンの本では、これら死体の山は波止場で投棄を待っているものとされている[48]。実際に、川べりまではまだ比較的距離があり、また、川を流れて来た死体ならば頭が川の流れに沿って向いている筈であるが寧ろ頭や脚が川や反対側の方角に向いていて、いずれにせよ漂着死体には見えない。なお、村瀬守保本人は、これらの写真の死体について民間人ばかりで、中には女子供の死体もあったとしている[57]。なお、先の将校の証言では、裸の死体があるが之は川に逃げこんだ兵の中に服を脱いで泳ごうとした者もいた為としており、裸の死体も混じっていた点については村瀬の証言も一致している[57]。
  • 上記『祥伝社本』の「生首の陳列」とタイトル入れした章では、多数の生首が壁の前に横一列に整然と並べられた写真が掲載されている。先行した史詠らによる本書と同名の別書籍では生首ばかりでなく背景の壁も広く写っているが、『祥伝社本』ではこれを城壁らしきものとし、このような形の城壁は南京にはないと現地体験者によって証言されているとする[34]。『草思社本』でも同様である[53]。しかし、そもそも壁が城壁なのか、屋敷・蔵の壁か、大型の塀の壁なのか、史詠の書籍でもその画像からは判らない。また、その現地体験者が何者なのか、それはいつのことなのか(南京事件当時?、近年?)、なぜその体験者がそのようなことを断言できるのか、何ら根拠が記されていない。
  • 上記『祥伝社本』の「レイプの犠牲者」とタイトル入れした章では、本書でフィッチ家提供の写真として「日本兵は時々被害者にポルノ写真のポーズをとることを強いて、強姦の記念品とした」とのキャプションが入った写真が掲載されている。秦は、写っている男性について服装が日本兵らしくない、顔が日本人に見えないといった主張をしていたが、藤岡・東中野らは寧ろ日本人のように見えると考えているようである。藤岡は、この写真を中国人経営の遊郭における客と女の写真であるとする。根拠は、本書写真では若干見えていた他の人物の腕らしき部分が、秦が台湾で入手した『鉄証如山』(南京事件では「鉄壁の証拠が山のようにある」という意味)という本の写真では中国服の人物であることが判り、中国人経営者と思われるからとしている[34]。しかし、写真の場所が遊郭であり、中国服の人物が遊郭の店主であることの根拠は特段示していない。そもそも日本兵らが住民家屋に押し入って家人の前でさえ性暴行をはたらくことが問題になっていたのが南京事件である。『草思社本』も主張内容は『祥伝社本』とほぼ同様だが、「遊郭の経営者と想像してもおかしくない」という言い方で、はっきりした物言いは避けている[53]。
  • 上記『祥伝社本』の「タバコをくわえた生首」とタイトル入れした章では、タバコを咥えさせられた形で晒し物にされている一人の男の生首について、アイリス・チャンが引用した『Alliance for Preserving the Truth of Sino-Japanese war』(抗日戦争史実維護会)の「南京の外で、有刺鉄線のバリケードの上に置かれた中国兵の生首。吸いさしのタバコがジョークとして口に差し込まれている」とのキャプションとともに紹介されている[34]。これについて、藤岡は「男がどういう状況で誰に首を切られたか知る由もない」としている[34]が、実際には、この写真のおおもとの出所である『ライフ』誌1938年1月10日号の写真キャプションには、この人物が徹底した反日家であったこと、事件が陥落前後に起きたらしきことが分かる程度の情報は述べられている[53]。それをもとに藤岡らは調査した節もない。1998年6月、自由主義史観の主張者らはこれについて記者会見を行ったが、それはこの写真についての情報提供を呼びかけるものではなく、アイリス・チャンへの批判と、信頼性が高いと一般に考えられている『ライフ』誌の報道にもかかわらず「この生首がいつ、どこで撮られたものか分からないから証拠としては無意味だ」とする彼らの考えを主張するためのものであった[55]。『草思社本』では、『ライフ』誌1938年1月10日号の写真キャプションも紹介されているが、今度は洞富雄らの編集の『南京大虐殺の現場へ』において、和多田進が、1946年の南京裁判で使われた16枚の証拠写真の発見者が記憶をたどり当生首写真が16枚の証拠写真の中にあったと語ったと、報告していることに着目、実際には当生首写真は16枚の証拠写真の中にはないことで、これを発見者の記憶違いとは考えずに、当生首写真は1938年に既に外部に流出していて何者かが『ライフ』誌に持ち込んだものと独自に推論を発展させ、従ってこの『ライフ』誌写真の出所や提出は疑問だという結論にしている[53]。なお、『祥伝社本』の藤岡はこの写真が『ライフ』誌カメラマン撮影のものであることは疑っておらず、タバコを咥えていることをアメリカ人らしいジョークと述べ、何の根拠もないことだが、タバコを咥えさせたのは日本兵ではなく米国人カメラマンの仕業と決めつけている[34]。

日本語版の出版延期問題

日本語版の出版にあたっては、原著出版直後に日本での翻訳権・出版権を得た柏書房[58]が、「解説書」を同梱で出版しようとした後に、柏書房は出版を中止した[59]。この出版中止について朝日新聞社の英字紙である「アサヒ・イブニング・ニュース」(1999年2月19日付)は「本の製作を中止したのち、柏書房が語ったところによれば、手紙のうちの一通は極右グループの構成員を名乗る男からのものであった。」と報じた。同趣旨の報道は「ロサンゼルス・タイムズ」でもなされた[60]。チャン自身も「そのような動きは、日本の右翼組織の脅迫によって動機付けられたものと疑っている」[61]と主張した。しかし、柏書房の芳賀啓編集長は、出版延期は右翼の脅しによるものではなく、著者本人による出版反対であると語った[62]。その理由について、柏書房は、チャンが事実誤認の訂正を拒否をしたためであると主張した。チャンが日本の歴史に詳しくないため、内容の本質に関わらなくとも初歩的なミスも多く、そこで出版に当たってそれらを訂正するか脚注で訂正解説をすることを企図、しかし、このほとんどがチャンによって拒否されたため、次にチャン本人には伏せて原本そのままの訳本とともに、解説本を別途作って合わせて出版することを企図した。しかし、これもをチャンの知るところとなり、チャンがこれも拒否したことにより、出版を停止せざるをえなくなったという。

アイリス・チャンの母親である張盈盈は、アイリス・チャンの思い出をつづる本でこの事情を次のように主張している。

柏書房は1998年春ごろに翻訳版の版権を取得したが、何人かの歴史家や教授に翻訳書の批評を拒否され、そのうちの少なくとも一人は「得体のしれない組織」から家族への脅迫を受けているのがその理由だったと聞いた。また本書の版権を取得したことについて、柏書房が脅迫されているという噂が流れた。そのような状況下で、1998年8月に柏書房がアイリス・チャンに本書の内容の訂正を求め始め、10月に訂正箇所のリストを送ってきた。アイリス・チャンがそれを精査したところ、その要求の主要部分は誤りの訂正ではなく、事件に関する解釈の押しつけであると判断されたために、単純なスペルミスなどの些細な10か所の誤りの訂正を認め、それ以外の訂正については断ることにして、その点を説明する覚書を柏書房に送った。その後、柏書房は一部の写真の削除や後書きの追加などを求めたが、いずれも同意できる内容ではなかったので、認めなかった。訂正要求についてアイリス・チャンは、たとえば盧溝橋事件における日本軍の役割の解釈など、柏書房側が訂正した解釈のほうに誤りがあると考えていた。

1999年の2月に、アイリス・チャンが日本の記者から電話でインタビューされ、柏書房が同梱で本書に関する批判書を添付しようとしている事実を知り、その点についてアメリカ側の出版社に確認を依頼していたところ、柏書房が出版を断念するという発表をした。この件について、柏書房の芳賀啓編集長はAP通信社の取材に対し、1999年2月の記事で、出版社が原作の書物を批判する書物を同梱することについて、元の書物の著者と相談する義務はないと述べたという。

なお、この時に訂正を求めるリストや批判書の制作の重要な部分を担当した人たちは、南京大虐殺について1970年代から調査研究している「南京事件調査研究会」という組織の加入メンバーであり、日本では南京大虐殺事実の積極的な肯定派と受け取られている人々である。彼らが、柏書房の芳賀啓編集長を通して著者のアイリス・チャンに訂正等を求めた理由として説明したものは、次のような論理であったという。

日本の保守的なグループは、南京大虐殺が全く存在していなかったと主張している。そのやり方は、南京大虐殺に関する記事の些末なミスをあげつらい、その錯誤をもって、全体の事実の否定を印象付けようとするものである。これに対抗するために、日本語の出版では、すべての誤りを除去したいのだ。

張盈盈は、この出版頓挫の出来事の経緯から、日本における右翼的な勢力の圧力が非常に大きいことをうかがい知ることができると述べている[63]。

なお、出版を望んでいた笠原十九司のよう歴史学者、虐殺実在派の本多勝一、梶村太一郎らは、出版頓挫の経緯について、単純な誤りの訂正すら断るようなチャンの頑な態度が原因と受け取っている[64][65]。しかし、チャンは後年の自殺前にも鬱に伴う被害妄想が見られていることから、鬱の発症影響も考えられ、実際にチャンの大学時代からの友人でジャーナリスト仲間であるポーラ・ケイメンは、1999年頃にはチャンが双極性障害で鬱の兆候を示していたことを報告している[66]。また、『ザ・レイプ・オブ・南京』の刊行後も南京事件被害者の取材を続けており、その凄惨な証言がチャンの精神を蝕んだとの説もあり、オリバー・オーガストはフラッシュバックで中国人が被害にあった写真が頭から離れなくなったと主張している[67]。(参照アイリス・チャン#鬱病と自殺) 同書は2007年12月に同時代社 (巫召鴻 訳)から出版された。邦題は『ザ・レイプ・オブ・南京 ‐ 第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』である[68][69]。

備考

2007年に公開されたドキュメンタリー映画『NANKING』の制作は、AOLの副会長だったテッド・レオンシス(英語版)が本書を読んだことが動機となっている。

脚注

参考文献

関連項目

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks