シェイクスピア別人説
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シェイクスピア別人説(シェイクスピアべつじんせつ)は、「ストラトフォード・アポン・エイヴォンのウィリアム・シェイクスピアなる人物によって書かれたとされている作品は、実のところ他の作者もしくは“ウィリアム・シェイクスピア”という共有のペンネームを用いた作家集団によって書かれたものではないか」という話題を巡って18世紀以来続けられてきた学術的な議論である。
当然のことながら一般にシェイクスピアの作品はシェイクスピア自身によって書かれたものと認められているが、懐疑派は「本当の作者」の候補としてフランシス・ベーコンやクリストファー・マーロウ、第17代オックスフォード伯爵エドワード・ド・ヴィアーなどを含む多くの人物の名を挙げている。
なぜシェイクスピア別人説が起こるのか
シェイクスピアに関する、事実に基づいた、信頼に値する情報は少ない。ジョン・ミッチェルは、著書『シェイクスピアはどこにいる?』[1]において「シェイクスピアの生涯について知られている事実は、便箋1枚の片面にそのすべてを書き尽くすことができる」とさえ述べている。ミッチェルは同書の中で、マーク・トウェインが『シェイクスピアは死んでいるのか?(Is Shakespeare Dead?)』(1909年)で記した同じ趣旨の皮肉を引用している(トウェインは、シェイクスピアの確実に知られた事実だけを並べて貧相な伝記を書き、壮大なシェイクスピア研究の歴史総体を風刺してみせた)。
例えば、
- シェイクスピアの個人史には所々大きな空白部分がある。
- シェイクスピア自身によって書かれた手紙が存在しない。
- 詳細に書かれたシェイクスピアの遺言書が現存するが、そこには本や戯曲や詩、その他いかなる書き物についても言及されていない。
- 自分の芸術に関する持論を1つも表していない。
- 署名が4通りもあり、どれ1つとして似た書体ではない。
- そして、シェイクスピアの人となりについてはほとんど何も知られていない。
従って、彼の書いたものから少なからず推測することは可能だが、謎めいた人物像を明らかにする程の具体的な情報は欠如している。
シェイクスピアに関する情報は不足しているが、没してから長い歳月が経過していることや、当時の中流階級の人物に関する伝記的事実は政治家や上流階級のようには記録されなかったことなどから考えれば、これはむしろ当然のことであるというのが従来の研究者達の共通理解である。また、そもそもこれはシェイクスピアに限った話ではなく、エリザベス朝演劇を担った舞台関係者達についての情報はおおむね断片的なものであり、他の時代の劇作家についても事情は同じようなものだということも基本事項である(シェイクスピアに関する資料を同時代の大衆演劇関係者のそれと比較すれば、絶対量は少なくても相対量は多いとさえいえる)。
それに対して反ストラトフォード派(定義は後述)は、シェイクスピアに関する情報の不足を残念なこととは思わず、むしろこれこそが注目に値することだと考える。シェイクスピアについての入手可能な情報から判断する限り、従来「ウィリアム・シェイクスピア作」とされてきた作品群を書くだけの能力を、本当にシェイクスピアが有していたかどうかは疑わしいというのが彼らの主張である。さらには、同時代のよく知られた別人の方が本当の著者と考えるにふさわしいという見解とそれを裏付ける証拠を示し、シェイクスピアは単に「本当の著者」の正体を隠しておくために代理人として名前を貸していただけだと彼らは結論づける。
従来の見解


シェイクスピアに関して広く認められている従来からの見解は以下の通りである。ウィリアム・シェイクスピアは1564年にストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれた。その後ロンドンへ移り、詩や戯曲を書く一方で俳優も務め、内大臣一座(後に庇護者ジェームズ1世の即位に伴い国王一座(King's Men)と改称)と呼ばれる人気劇団の株主(共同経営の劇団主)となり、グローブ座とブラックフライアーズ座の2劇場を中心に活躍する。1613年頃にロンドンでの活動から隠退し、1616年に亡くなるまでの余生を故郷ストラトフォードで過ごした。生前に発表された15篇の戯曲の内14篇の扉にシェイクスピアの名前が掲載されている。「本当の作者」として候補に上げられている人物達の大半も死去した後の1623年、その戯曲が集められて最初の二折判著作集(ファースト・フォリオ)が出版された。
この俳優の身元を特定するのに役立つ証拠としては以下のようなものがある。ストラトフォードのシェイクスピアは遺言書においてロンドンの劇団から俳優達への寄贈品を遺した。ストラトフォードの男と作品の著者は名前が同じである。1623年刊のファースト・フォリオの序詞において「エイヴォンの白鳥」("Swan of Avon"、ベン・ジョンソンの詩。シェイクスピアの美称として定着している)、あるいは「ストラトフォードの記念碑」(レオナルド・ディッグスの詩)といった表現が見られる[2]。従来の研究者は、後者のフレーズはストラトフォードにあるホーリー・トリニティ教会の墓標を表すものと推定している。その墓碑銘でシェイクスピアは作家と呼ばれており、ウェルギリウスとの比較や彼の作品に対する「生きた芸術」との評言もあり、1630年代頃までにはストラトフォードへの訪問者はこれを「記念碑」と表現していたのである[3]。
上記のような証拠から「シェイクスピアの名で発表された戯曲は、ストラトフォード出身でロンドンへ来てから俳優兼劇作家になったウィリアム・シェイクスピアなる人物によって書かれたものである」というのが従来の一般的な見解となっている。

著者に関する疑問
しかし作者の正体について疑問を抱く人々は、ストラトフォードのシェイクスピアは単に匿名作家の代理を務めただけであるということを示す証拠もまた少なからぬ資料から得られると断言する。曰く、シェイクスピアの正体を裏付ける歴史的証拠の多くは明らかに曖昧なものであったり情報が欠損していたりすること。シェイクスピア作品の著者にはシェイクスピア本人に備わっていたと考えられる教養を遥かに超える学識(法律や外国語、近代科学など)がなければならないこと。ストラトフォードのシェイクスピアが存命中であるにもかかわらず、作者が既に死んでいることを暗示する証拠が存在すること。同時代の人々が既に作者の正体について疑問を抱いていること。彼に書けるはずのない戯曲が存在すること。別の著者の存在を示す暗号化されたメッセージが作品中に潜ませてあるらしいこと。シェイクスピア作品の登場人物と有力な「真の作者」候補の生涯の間にはある類似性が認められること、などなど[要出典]。
この問題に関する術語
ストラトフォード派と反ストラトフォード派
"ストラトフォード・アポン・エイヴォン出身の俳優ウィリアム・シェイクスピア"が"シェイクスピア作品の作者"であることを疑問視する人々は自らを「反ストラトフォード派(anti-Stratfordians)」、従来の見解に疑いを持たない人々を「ストラトフォード派(Stratfordians)」と呼ぶ。ただし、「ストラトフォード派」とされる人々から見ればこの問題はとうの昔に結論の出たものであるため、彼ら自身が「ストラトフォード派」を名乗ってこの議論に参加している訳ではない。
反ストラトフォード派の分派
反ストラトフォード派の中でも真の作者が誰であるかについては見解が分かれており、それぞれの説にしたがって学派を形成している。これまでに多くの人物が有力な候補者として名を挙げられているが、特に支持者が多いのはフランシス・ベーコン、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアー、そしてクリストファー・マーロウの3人である(それぞれの支持者はベーコン派(Baconians)、オックスフォード派(Oxfordians)、マーロウ派(Marlovians)と呼ばれる)。
シェイクスピアか、シャクスピアか
エリザベス朝時代のイギリスでは表記法(スペリング)の規格が統一されていなかった。そのためストラトフォードのシェイクスピアの生涯を通じて書き記された彼の名前には、「シェイクスピア(Shakespeare)」を含む何通りもの表記揺れが見られることとなった。刊本において劇作家の名前の第1音節は一貫して「シェイク-(Shake-)」と表記されているのに対して、ストラトフォードの男について言及している公文書においては1文字足らずの「シャク-(Shak-)」と書かれていることが多く、中には「シェイグ-(Shag-)」「シャック-(Shax-)」などというものさえあるという点を反ストラトフォード派の研究者は指摘する[5]。そしてこれを典拠として彼らは、劇作家の「シェイクスピア(Shakespeare, Shake-speare、いずれも刊本の扉における表記)」とは別人であるということを強調するために、ストラトフォードの俳優シェイクスピアについては「シャクスピア(Shakspere、洗礼の記録はこのスペルで記されている)」ないし「シャクスピヤ(Shaksper)」と呼び習わしている。これに対してストラトフォード派の研究者は、まるでストラトフォードの俳優が一度も劇作家と同じ表記では名前を書かなかったかのような、事実に反する[6]謬見を与える印象操作であるとして、こうした慣例には反対している。名前の表記揺れがこうした論争の的となってきたという事実がある以上、本稿においては両派が用いている表記「シェイクスピア」で統一する。
全ての反ストラトフォード派に共通の論点


反ストラトフォード派の中でも、支持する「真の作者」候補ごとにそれぞれの学派が形成されていることは前述の通りであるが、いくつかの論点はそれら全ての学派の間で共通している。
シェイクスピアの教養
基礎教育
シェイクスピアの父や妻は公文書へ署名をする際に自分の名前を書くのではなく記号を記すことで代えていることから、彼らは読み書きができなかったのではないかと反ストラトフォード派の人々は推定している[8]。娘のジュディスについても同様であるため、シェイクスピアは娘に読み書きを教えていなかった(17世紀の中流階級の女性が非識字であるのはごく普通のことである)とも彼らは考えている。しかし、もう1人の娘スザンナは自分の名前を書くことができたという事実もある[9]。これに対しストラトフォード派は、いくつかの署名が現存していることや、台本が読めなければ俳優を務められるはずがないということから、シェイクスピア自身には読み書きの能力があったと主張している。
反ストラトフォード派はさらに、シェイクスピアによって書かれた書簡が1通も現存していないばかりか、シェイクスピアの書簡に言及した記録さえ1つも発見されていないという事実も指摘する。シェイクスピアほど文才に長けた人間ならば多くの手紙を書いているはずであるが、当時既に名声を得ていたシェイクスピアから手紙を受け取った人間の誰一人としてそれを保管しておかなかったばかりか、シェイクスピアから来信があったと書き残しさえしなかったという事実は、反ストラトフォード派の立場に立たなくとも不可解なことではある[10]。
専門教育
反ストラトフォード派は、戯曲を書くのに必要とされる教育をシェイクスピアが受けていた証拠がないという点をしばしば指摘する。一方、シェイクスピアは14歳までストラトフォードのキングス・スクール(エドワード6世校、King Edward VI School Stratford-upon-Avon)に出席する権利を与えられており、そこでラテン詩人やプラウトゥス(Plautus)のような劇作家について学んだであろうというのがストラトフォード派の立場である。ただし、当時の学籍簿は紛失しているので、シェイクスピアがこの学校に出席していたかどうかは明らかではない[11]。

シェイクスピアが大学に通ったという証拠もないが、これはルネサンス期の劇作家としては珍しいことではない。伝統的に学者達は、シェイクスピアはある程度独学で学んだのだろうと推測している。仲間の詩人であり劇作家のベン・ジョンソンが、シェイクスピアよりも低い身分の出身でありながら桂冠詩人にまでなったことがよく似た例として挙げられる。シェイクスピアと同様、ベン・ジョンソンは大学を卒業していないばかりか恐らく入学さえしておらず、それにもかかわらず後年オックスフォードとケンブリッジの両大学から名誉学位を授与される程の碩学になっている。
しかしシェイクスピアと異なって明らかな独学の形跡がジョンソンには見られるので、この類似性は疑われるようになっている。ジョンソンに関しては彼自身による署名と注釈の付けられた蔵書が発見されているが[12]、シェイクスピアによって所有ないし貸借された形跡のある本は見付かっていない。さらに、ジョンソンは独習のために大きな図書館へ通っていたことも明らかになっているが、シェイクスピアが独学を積んでいたことを示しうる具体的な証拠は1つも存在しない。また、彼の戯曲の種本となった文献のいくつかは、シェイクスピアと同時代人でストラトフォード出身の出版業者リチャード・フィールド(Richard Field)の書店で売られていたものの可能性があるという説をデヴィッド・キャスマンが提示しているが[13]、これも確証を欠いた推測に過ぎない。
ストラトフォード派は、シェイクスピアの作品が必ずしも並外れた教養の持ち主でなければ生み出しえないものだとは見なされてこなかったと述べる。ファースト・フォリオの献辞においてベン・ジョンソンがシェイクスピアのことを"And though thou hadst small Latine, and lesse Greeke," すなわち「ラテン語を少し、ギリシア語はもっと少し」(しか知らなかったけれども、その作品はきわめて偉大である、と続く)と評しているのは誰もが知るところであり、シェイクスピアの教養に関する話では必ず引用される事実である。
また、作品から窺われるシェイクスピアの古典の素養は、そのほとんどがたった1つのテキスト、当時多くの学校で教科書に使われていたオウィディウスの『変身物語』に由来するものである[14]ということも明らかになっている。ただしこの説明は、シェイクスピア作品の著者には外国語や近代科学、法律に関する知識も備わっていたはずではないかという疑問に答えるものではない[15]。
シェイクスピアの遺言書

ウィリアム・シェイクスピアの遺言書は長く明晰であり、成功した有産者の財産が事細かにリストアップされている。しかし、反ストラトフォード派はこの遺言書が個人的な書類や書簡、蔵書(当時、本は高級品であった)に関して一切言及していない点に着目した。しかも、初期の詩や自筆原稿、未完成の作品はもちろん、ストラトフォードの男が所有していたはずであり非常に高価であったと思われるグローブ座の株式に関しても触れられていないのである[16]。
とりわけ反ストラトフォード派が疑念を抱いているのは、シェイクスピアが死去した時点で18篇の戯曲がまだ単行本化されていなかったにもかかわらず、遺言書においてそれらの作品に関する記述が見られないことである(これは、フランシス・ベーコンが2通の遺言書において、自分の死後に刊行されることを望む著作について明記していることとは対照的である[17])。未刊行作品を出版することで残された家族に印税が入るよう取り計らうことにも、自分の作品を後代に残すことにもシェイクスピアは無関心であったのだろうか、と反ストラトフォード派は疑義を呈する。シェイクスピアが本当にそれらの作品を書いたとして、彼が著者個人の権利を全て放棄して劇団に全ての原稿を渡してしまったなどとは、反ストラトフォード派にとってはにわかに信じられないことである。
しかし正統派の学者は、この考え方をルネサンス期イギリス演劇界における知的財産権への無理解に基づいたものだとして退ける。シェイクスピアが著作権を劇団に譲渡したというのは、この時代においてはむしろ一般的なことであり、一旦劇団に作品を提出した時点でその作品はシェイクスピア自身も株主である国王一座の団員による共有物となるのが慣例だったのである[18]。事実、ファースト・フォリオの献辞が寄せられているのはシェイクスピアと同僚だった劇団の共同経営者かつ著作権管理人として全集の編纂者を務めたジョン・ヘミングス(John Heminges)とヘンリー・コンデル(Henry Condell)である。
上演されなかったシェイクスピア作品の帰属がどうなっていたかは不明だが、そもそもシェイクスピアの生前に上演されなかった作品があるとすれば、それはどの戯曲であるのかということも明らかにはなっていない。
シェイクスピアの階級
成人するまでストラトフォードに住んでいた片田舎の皮手袋製造業者の息子が、世界を股に掛け活気に満ち溢れた高貴な人間達の生涯を独力で描き切ったとは考えられないというのも反ストラトフォード派の主張である。チャールズ・チャップリンは簡潔にこうまとめている。「天才の作品のうちにも、どこかしらに卑賤の出自が顔を出すものだ。しかし、シェイクスピアの作品にはそうした兆候がまったく見出せない。シェイクスピア作品を書いたのは、それが誰であれ貴族的な人物だ」[19][20]。正統派研究者の答えは、この時代、上流階級の典雅な世界は大衆受けのよい舞台設定だったため多くの戯曲において取り入れられているではないか、というものである。確かにクリストファー・マーロウ、ジョン・ウェブスター、ベン・ジョンソン、トマス・デッカー(Thomas Dekker)他、ルネサンス期のイギリス人劇作家の多くが低い身分の生まれでありながら貴族社会を描いてはいる。

反ストラトフォード派のさらなる論駁は、政治や法律や外国語に関する詳細な知識が作品に散りばめられているが、上流階級の出身ないしは大学での高等教育を受けた者でなければこうした知識を得ることは不可能だというものである。正統派研究者は、シェイクスピアは出世して上流階級の近くにいたのだと応じる。シェイクスピアが所属していた国王一座はその名の通り国王ジェームズ1世の庇護を受けており、宮廷でも上演を行っていたため、貴族社会の生活の様子を観察する機会が充分にあったのだ。しかも、こうした上演活動を通じて得た報酬によってシェイクスピアはそれなりに裕福になっており、当時の多くの富裕な中産階級と同じように、紋章を授けられジェントルマンとして認められていたのだと。これに対する再反論として反ストラトフォード派が持ち出すのは、シェイクスピア同様に身分の低かったベン・ジョンソンがヘンリー王太子から『女王たちの仮面劇(The Masque of Queens)』(1609年)の執筆を依頼され庇護を受けるようになるまでにデビューから12年かかっているという事実である。サウサンプトン伯ヘンリー・リズリー(Henry Wriothesley)がシェイクスピアのパトロンになったのは長詩『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)を捧げられたことがきっかけだが、これがシェイクスピアの最初期の著作であることから考えると、貴顕の眼鏡に適ったのが早すぎるということである。
ジョナサン・ベイト(Jonathan Bate)は、その著書『The Genius of Shakespeare』において、こうした出身階級を巡る議論については全く逆のこともいえると述べている。すなわちシェイクスピアの戯曲には、オックスフォード伯やベーコンのような上流階級の人間が詳しく知るはずのない下層階級の生活や俗語も詳細に描かれているという点である。フォルスタッフ(『ヘンリー四世』『ウィンザーの陽気な女房たち』)、ニック・ボトム(Nick Bottom、『夏の夜の夢』)、アウトリュコス(Autolycus、『冬物語』)、サー・トービー(Toby Belch、『十二夜』)その他、シェイクスピアの登場人物の中でもとりわけ活き活きと描かれている者達は大抵下層階級ないしは下層階級に近しい者ばかりなのである[21]。しかし反ストラトフォード派の指摘する通り、シェイクスピアが貴族階級を描く時の著者の表現は人間的で多面的なのに対し、農民達の描写の仕方は全く異なっており、滑稽で珍妙な名前(ボトム(どん底)やベルチ(ゲップ)の他、『ヘンリー四世 第2部』のブルカーフ(牛の仔)、『尺には尺を』のエルボウ(肘?)など)を付けたり、ジョークの標的や暴徒として描いたりしていることもあるため[22]、作中の表現から読み取れる作者の身分は曖昧なものにとどまっている。
また17世紀には、シェイクスピアは宮廷の様子や作法などにも通じているとは見なされておらず、ジョン・ミルトンが長詩『陽気な人(L'Allegro)』において"sweetest Shakespeare, Fancy's child, / Warble his native wood-notes wild."と詠っているように、むしろ野性的な天然児と考えられていたことも指摘される。事実、ジョン・ドライデンは1668年に劇作家ボーモント&フレッチャー(Beaumont and Fletcher、合作を行っていたフランシス・ボーモント(Francis Beaumont)とジョン・フレッチャー(John Fletcher)のコンビ名)のことを、シェイクスピアよりも「ジェントルマンの会話を理解し模倣することにはるかに長けている」と評し、また1673年にはエリザベス朝時代の劇作家の大方について、「ベン・ジョンソンを除くと、彼らのうち誰一人として宮廷のことに精通していたようには見えない」とこぼしている。
"Shake-Speare"という名前のハイフン

反ストラトフォード派は、シェイクスピアの名前の中にハイフンを入れた"Shake-Speare"という表記がかつてはしばしば使われていたことを問題視し、これを偽名が用いられたことを示す証拠と考えている。ストラトフォード派は、ハイフン入りの表記だけが一貫して用いられていた訳ではないこと、このハイフンは単なる表記揺れないし誤植であるということを主張し、したがってさほど問題視するには値しないと答えている。
チャールトン・オグバーンは、ハイフンを常に使用しなければならない理由などないと述べ、そもそもこのハイフンは他の執筆者や出版業者が用いたものであってシェイクスピア自身が記したものではない(2篇の詩作品で自ら記した献辞においても使用していない)ということに注意を喚起した上でこの問題を考察している。オグバーンによれば、1623年のファースト・フォリオ以前に刊行されたシェイクスピアの戯曲の内、作者の名が載せられているものは32版ある(同一作品の再版なども含む)が、その中で名前にハイフネーションが見られるのは15篇であり、全体の約半分である。他には『恋人の嘆き』や『ソネット集』の扉、ファースト・フォリオの4つの序詞のうち2篇でハイフン入りの名前が見られる。また、詩の中でシェイクスピアのことを「イングランドのテレンティウス(共和政ローマの奴隷出身の喜劇作家)」と讃えたジョン・デイヴィスや、同僚の劇作家ジョン・ウェブスター、あるいは1639年に「シェイク-スピアよ、君を賞賛するために我々は沈黙するよりすべがない……」と書いた警句家などもハイフン入りの名前を用いている。こうした調査からオグバーンは、「ハイフン入りの名前は、ときおり見られる程度ではなく頻繁に、また明らかに意図的かつ意識的に使用されており、誤植などではない」と結論付けた[23]。
しかし、16世紀から17世紀の文書を調べてみれば、その調査の及ぶ範囲に限りがあるとはいえ、一般語を合成してできた固有名詞にはハイフンのあるものとないもの(例えば、"New-castle"と"Newcastle"など)が混在していることが分かる。同じ著者によって書かれた同じ文書の中でさえ、無秩序に両方の表記が採用されていることがある。シェイクスピアの初期作品ではないかとも噂された戯曲『サー・ジョン・オールドカースル』("Sir John Oldcastle")などにおいては、明らかにその傾向が見られる[24]。 オックスフォード派は、「シェイク-スピア」のハイフネーションに関しては不規則でも偶発的でもなく、顕著なパターンの下で使用されているという見解をもっている。
同時代人による証言
同時代の文学者による、シェイクスピアの正体についての疑問の声も多く残っている。
ベン・ジョンソンとシェイクスピアの関係は極めて屈折したものであった。彼はシェイクスピアと友人で、「私は彼を愛していた」との言葉を残し、ファースト・フォリオの序詞としてシェイクスピアへの頌歌を寄せている。しかし、その一方ではシェイクスピアが非常に冗長であるとも書いている。役者達が「1行の無駄もない」とシェイクスピアを賞賛しているのを聞いたジョンソンは、「1000行は削ってもよかったはずだ」「彼には溢れんばかりの才能があったが、ときには抑制が必要だったのではないか」ともいっている。
同じ著書の中で、彼はシェイクスピアが「シーザーになりきって」(おそらく舞台上で)いったセリフを嘲笑している。「シーザーは不当な行ないはしない、正当な理由のあるとき以外は」("Caesar never did wrong but with just cause"、『ジュリアス・シーザー』第3幕第1場)というものだが、こうした「馬鹿げた」ことをシェイクスピアはしばしば書いたとジョンソンは評している[25]。(実際にファースト・フォリオに収められている文面はこれとは異なり、「シーザーは不当な行ないはしないし、正当な理由なしに償いもしない」("Know, Caesar doth not wrong, nor without cause / Will he be satisfied")というもので、最後に別の語句が付け加えられているが、これは意味の通じるよう編纂者によって加筆されたものである。しかし、元の矛盾した言葉の方がシーザーの壮大な野心をうまく表しているかもしれないという解釈に基づき、再びつけ加えられた)。ジョンソンは自身の戯曲"The Staple of News"(1626年)において、直接シェイクスピアの名前は出さずに再びこのくだりを嘲笑している。反ストラトフォード派の中には、ジョンソンによるこれらのコメントを、シェイクスピアが真の作者であるということに対する疑念の現れであると解釈するものもいる[26]。
ロバート・グリーン(Robert Greene)の死後に刊行された著書『三文の知恵』("Greene's Groatsworth of Wit"、1592年。刊行者である仲間の劇作家ヘンリー・チェトル(Henry Chettle)の作という説もある)においては、シェイクスピアを模した"Shake-scene"(舞台を揺るがす者)なる劇作家のことを、イソップ寓話を引いて「我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラス」と呼んでおり、その後には露骨に『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公のセリフ"O tiger's heart wrapt in a woman's hide!"(「女の皮を被った虎の心よ!」)をもじって引用した「役者の皮を被った虎の心」なる皮肉が続く。グリーンの初期の著作"Mirror of Modesty"(1584年)の序文でも、「他の鳥の羽で自分を飾り立てたカラス」という同様の比喩で、自分の功績でもないことを自慢する人々を批判していることから、これはシェイクスピアを盗作作家として中傷したものと解釈される。ロンドンの劇壇がシェイクスピアに言及した文献として最も早いものとして知られる(と同時に、それによってしか知られていない)が、悪意に満ちたほのめかしがあるばかりで具体的にシェイクスピアのどこが盗作であり、何を非難しようとしているのかは明示されていない。高等教育を受けた当時の一流劇作家グリーンが、下層階級出身の俳優の分際で厚かましくも戯曲など書いて自分の領域に踏み込んできた得体の知れない作家のことが気に入らなかったのだろうという見解で大方の研究者は一致している(シェイクスピアの『冬物語』はグリーンの小説『パンドスト王』("Pandosto"、1588年)を種本としていたという説もあるので、これを盗作として憤慨していた可能性もある)。反ストラトフォード派にいわせると、これも当時からシェイクスピアが偽者であることを疑っていた人がいたという証拠である[26]。 ただし河合祥一郎は、「成り上がりもののカラス」は、シェイクスピアのことではなく俳優ジェイムズ・アレンのことだと論じている[27]。 ジョン・マーストン(John Marston)は風刺詩『悪行の鞭』("The Scourge of Villainy"、1598年)の中で、下層階級と肉体関係を結ぶことで「汚染」された上流階級のことを罵倒している。性的な比喩を散りばめながら、彼は問う。
Shall broking pandars sucke Nobilitie?
Soyling fayre stems with foule impuritie?
Nay, shall a trencher slaue extenuate,
Some Lucrece rape?. And straight magnificate
Lewd Jovian Lust? Whilst my satyrick vaine
Shall muzzled be, not daring out to straine
His tearing paw? No gloomy Juvenall,
Though to thy fortunes I disastrous fall.— ジョン・マーストン『悪行の鞭』
売春業者は貴族を誑しこんでしまったのか?
堕落の炎は忌まわしい不道徳まで広まるのか?
否、奴隷の身の上であれば罪を軽くされるのか、
ルークリースの陵辱の? そしてあら捜しをするのか、
淫らなジュピターの欲望の? 私の好色な下らぬ詩が
弾圧されるかたわらで 彼の鉤爪を
抑えもせずに? 暗鬱なユウェナリスでもあるまいが、
そなたの身代ゆえに私は破滅するだろう。
"gloomy"の語は、ローマ皇帝ドミティアヌスのお気に入りの俳優を痛烈に風刺した詩を書いたために祖国を追放された詩人ユウェナリスが後に暗い人間になったという伝承に基づく[28]。つまりマーストンの詩はある俳優に向けられたものであり、そのような下層階級の「奴隷」による「ルークリース陵辱」の罪が酌量されてよいものかどうかと問うているものと見なすことができる。すなわち、この詩は『ルークリース陵辱』を取り上げて、「売春斡旋業者」シェイクスピアがサウサンプトン伯のような「貴族を誑しこんで」庇護を受けるに値するのかと異議を申し立てているという解釈が可能である。
ルネサンス期イギリスの匿名出版
反ストラトフォード派は、シェイクスピアが「代理人」であったという可能性を示唆するために、社会的地位の高い人々による匿名ないし変名出版を巡って同時代のエリザベス朝時代の人々が交わした議論を例に挙げている。ロジャー・アスカム(Roger Ascham)は著書"The Schoolmaster"(1570年)の中で、ローマの劇作家テレンティウスによって書かれたものとされている戯曲の内2つは、テレンティウスのような「奴隷の異邦人」が書いたにしては格調が高すぎるので、テレンティウスとも親しかった「勇者スキピオと賢者ラエリウス」が真の作者に違いないとの所説を述べている[29]。同時代の作家について、前出のロバート・グリーンは「声望と威厳を守るために通俗的なパンフレットに手をつけることのできない者は、掲載用の名前のためにBatillus(アウグストゥス時代の無名の詩人)を見つけてくる。秘密の取引によって名誉を授けられたロバというわけだ」と書いている。このロバとはイエス・キリストがエルサレムへ入城するときに乗っていたためイエスとともに歓呼の声で迎えられたロバのことを指す。つまり、背に乗せて運んだ者(身分の高い真の作者)の受けるべき賞賛の分け前に与った下等な生き物(シェイクスピア)という通俗的な比喩である[30]。
詩の中に見られる証拠
正統派の学者も反ストラトフォード派の学者も、自分の学説の論拠としてシェイクスピアの詩作品を取り上げている。
正統派の学者は、ソネット135番の最初の数行こそ別の作者(少なくともウィリアムという名でない人物)が存在したという説に対する強力な反証であると主張する。
Whoever hath her wish, thou hast thy Will(sic),
And Will to boot, and Will in overplus;
More than enough am I that vex thee still,
To thy sweet will making addition thus.— ソネット135番
他の女をさしおいて、あなたは自分のWillを手に入れた。
おまけのWillに、余りのWill。
あなたを邪魔してばかりの私など、
あなたの優しい心にはお荷物だ。
意志や心を表す"will"とウィリアムの愛称である"Will"をかけた語呂合わせは、"And then thou lovest me, for my name is Will"(「そうすればあなたは私を愛することになる、なぜなら私の名前が"Will"だから」)というオチの付けられるソネット136番でも続けられている。フィクション内における遊び心という訳であるが、"Will"という名前が織り込まれていることから以下の2つの可能性が考えられる。
- 著者の名前はウィリアムで、心の"will"と自分の愛称の"Will"をかけた語呂合わせを作中に入れてみたかった。
- 著者の名前はウィリアムではないが、そう思わせるために詩的意匠を凝らす必要があった。
オックスフォード派の人々が、シェイクスピア作品の真の作者は貴族であり、戯曲のような通俗的大衆演芸に手を染めていることを知られたくなかったために身分を隠しておいたのだと主張するのに対し、正統派研究者はそうした議論が詩作品に関しては当てはまらないと指摘する。というのも、シェイクスピアの『ルークリース陵辱』や『ヴィーナスとアドーニス』のように古典的主題を扱った長編物語詩作品は、「たんに人気があるだけ」の戯曲とは異なり、遥か以前から立派な芸術として認められていた貴族の文学だったためである。エリザベス朝時代の貴族にとって詩作の才能を備えていることはむしろ望ましいことであり、匿名で出版しなければならない理由がないということである。これに対するオックスフォード派の反論は、『ソネット集』の内容は物語詩と同様に、明らかに著者が筆名を用いざるをえなくなるような個人的かつ政治的な醜聞に触れているというものである。作者がこうした細工をして正体を隠していたことを示す明白な証拠として、彼らはソネット76番を提示する。
Why write I still all one, ever the same,
And keep invention in a noted weed,
That every word doth almost tell my name,
Showing their birth, and where they did proceed?— ソネット76番
なぜ私はいつまでたっても同じ一つのことばかり書き続けるのか、
そしてなぜ自分の想像力に喪服を着せてばかりいるのか?
まるであらゆる語が私の名を告げ、
自らの出生や来歴を語るかのようだ。
またソネット145番もシェイクスピアの妻アン・ハサウェイの名を織り込んだ語呂合わせを含んでいるとの説もある。これは1971年にアンドルー・ガー(Andrew Gurr)によって発表された学説で、ソネット145番に出てくる"hate away"('I hate' from hate away she threw,)の語はエリザベス朝時代の発音ではハサウェイとほとんど同じになるはずだというものであり、次の行に出てくる"And saved my life,"も同様に"Anne saved my life"のように聞こえるとも述べている。
正統派の研究者は、物語詩にせよソネットにせよ、シェイクスピアの主要な詩作品はいずれもペストの流行により劇場が閉鎖された直後に出版されている点が重要だと述べている。これは仕事のなくなった劇作家が他の収入を得る道を求めて執筆したものと考える根拠にはなるが、劇場が封鎖されていたのと偶然にも同じ時期に匿名の貴族が突然多くの詩を書き出した理由を説明するものではないということである。











