シャルル・デュクレール
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1812年11月9日、バニェール=ド=ビゴールで生まれた[1]。ランド県ダクス、サン=スヴェ(英語版)の学校に通った後、パリのコレージュ・ロワイヤル・ド・ブルボンに進学した[1]。1836年に『ル・ボン・サンス』(Le Bon Sens)紙の新聞社に入社し、後に編集者になった[1]。1840年に『ル・ナショナル(英語版)』紙の新聞社に転職した[1]。1846年よりルイ=アントワーヌ・ガルニエ=パジェス(フランス語版)とともに『Histoire politique et financière de la France depuis Henri IV jusqu'à nos jours』(アンリ4世から現代までの政治・金融史)を共著した[1]。
1848年のフランス革命により臨時政府(英語版)が成立すると、2月にガルニエ=パジェスの部下としてパリ副市長になり、3月にガルニエ=パジェスが財務大臣に就任するとその次官(sous-secrétaire d'État)に就任、5月にガルニエ=パジェスの後任として財務大臣に就任した[1]。4月の制憲議会選挙(英語版)でランド県から議員に選出され、議会で紙幣の導入に反対し、左翼による1848年5月15日デモ(英語版)に抵抗し、六月蜂起で労働者と政府の融和を試みた[1]。六月蜂起が鎮圧された後、政府が強圧的な政策を採用すると、デュクレールは財務大臣を辞任した[1]。1849年の国民議会選挙(英語版)に出馬せず、政界を引退したように見えたが、1851年にランド県での補欠選挙に出馬して落選した[1]。
第二帝政期では政治との関わりを断ち、スペインでエブロ運河会社での職を得たり、Sociedad de Crédito Mobiliario Españolの理事を務めたりした[1]。
1870年9月4日に共和政樹立が宣言(英語版)されたとき、デュクレールはバイヨンヌに住んでいた[1]。1871年2月の選挙(英語版)でランド県とバス=ピレネー県(現ピレネー=アトランティック県)から国民議会(英語版)議員に選出され、後者の代表として議員を務めた[1]。議会では共和左派に属した[1]。1875年3月に国民議会副議長に選出され[1]、同年12月に終身上院議員(英語版)に任命された[2]。1876年3月、元老院副議長に選出された[1]。元老院では1877年5月16日の危機(英語版)により成立した第2次アルベール・ド・ブロイ内閣に反対し、代議院解散にも反対票を投じた[1]。
1882年8月にイギリス・エジプト戦争(英語版)への介入をめぐり第2次シャルル・ド・フレシネ内閣が倒れると、デュクレールはその後任として組閣、外務大臣を兼任した[1]。しかしハノイ占領(英語版)、フランス領コンゴとフランス保護領マダガスカル(英語版)の設立のいずれにおいても毅然とした態度をとれず、さらに1883年初に旧王族の追放問題をめぐり閣内不一致になったため、1883年1月に辞任した[1]。
辞任後も共和派の歴代内閣を支持したが、1886年亡命法(フランス語版)(旧王族を海外追放に処する法律)の採決には棄権した[1]。1887年5月にルネ・ゴブレ内閣が予算案問題で倒れると、大統領ジュール・グレヴィから組閣を打診されたが、急進派の新聞がこれを猛批判した結果、翌日には組閣に失敗した[1]。1888年7月21日、パリで死去した[1]。
出典
外部リンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ルイ=アントワーヌ・ガルニエ=パジェス(フランス語版) |
財務大臣 1848年 |
次代 ミシェル・グッショー(英語版) |
| 先代 シャルル・ド・フレシネ |
閣僚評議会議長(首相) 1882年 – 1883年 |
次代 アルマン・ファリエール |
| 外務大臣 1882年 – 1883年 | ||
