ルネ・ゴブレ
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1828年11月26日、パ=ド=カレー県エール=シュル=ラ=リス(英語版)で生まれた[1]。法律家となるべく教育を受け、第二帝政期に新聞『ル・プログレ・ド・ラ・ソンム(フランス語版)』を創刊した[1]。
1871年7月の国民議会選挙(英語版)でソンム県から出馬して議員に当選、急進派に属した[1]。1876年フランス代議院選挙(英語版)で落選したが、1877年フランス代議院選挙(英語版)ではアミアンから選出された[1]。
1882年にシャルル・ド・フレシネが組閣すると内務大臣を務め、1885年のアンリ・ブリッソン内閣では公共教育大臣と宗教大臣(英語版)を務めた[1]。続く1886年のフレシネ内閣でも留任し、ゴブレ法(フランス語版)など政府の教育政策を擁護して名声を得た[1]。しかし言動が率直すぎて顰蹙を買い、レオン・ガンベッタなど同じく自由主義派の政治家と言い争うことも多かった[1]。

1886年12月にフレシネ内閣が倒れると組閣したが、内閣発足時より不人気だった[1]。ゴブレ自身は宗教大臣と内務大臣を務めたものの、外務大臣の人選はなかなか決まらず、最終的にはエミール・フルーランス(英語版)が就任した[1]。ゴブレ内閣期にはフランスの役人ギヨーム・シュネブレ(英語版)がドイツ国境で逮捕されるというシュネブレ事件が起こり、フランスの世論が沸騰した[1]。フルーランスが穏健に対処すべきと主張した一方、陸軍大臣ジョルジュ・ブーランジェはドイツに最後通牒を突き付けるべきと主張した[1]。ゴブレはしばらく事態の発展を見守り、やがてフルーランスの主張を支持したが、ブーランジェ派の人気に対し打つ手がなく、1887年5月に予算案を否決されて総辞職した[1]。
1888年に急進派のシャルル・フロケが組閣すると外務大臣を務めた[1]。1889年フランス代議院選挙(英語版)でブーランジェ派の候補に敗れたが、1891年から1893年まで元老院議員を務め、1893年フランス代議院選挙(英語版)で代議院議員に返り咲いた[1]。この時期にエドゥアール・ロクロワ(英語版)、フェルディナン・サリアン、ポール・ペイトラル(英語版)とともに『ラ・プティ・レピュブリック(英語版)』紙で共和派の政策を論じた[1]。
1893年フランス代議院選挙(英語版)で落選すると政界を引退し、1905年9月13日にパリで死去した[1]。
出典
外部リンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ピエール・ワルデック=ルソー |
内務大臣 1882年 |
次代 アルマン・ファリエール |
| 先代 アルマン・ファリエール |
公共教育大臣 1885年 – 1886年 |
次代 マルセラン・ベルテロ |
| 先代 フェリクス・マルタン=フイエ(英語版) |
宗教大臣(英語版) 1885年 – 1887年 |
次代 ウジェーヌ・スピュレール(英語版) |
| 先代 シャルル・ド・フレシネ |
首相 1886年 – 1887年 |
次代 モーリス・ルーヴィエ |
| 先代 フェルディナン・サリアン |
内務大臣 1886年 – 1887年 |
次代 アルマン・ファリエール |
| 先代 エミール・フルーランス(英語版) |
外務大臣 1888年 – 1889年 |
次代 ウジェーヌ・スピュレール(英語版) |
