ジェームス・ブラウン
アメリカの音楽家 (1933 - 2006)
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ジェームス・ブラウン(James Brown、本名:ジェームズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア、1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウル歌手[4] 、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、レコード・レーベル・オーナー、社会事業家。ファンク、ブルース、ゴスペル音楽、R&B、ソウルなどの音楽性を持ち、アフリカ系アメリカ人で長きにわたり一般的な人気を博した。上記の通り、1933年生まれとあるが実際には1928年生まれの説もある[5]。
「ザ・スター・オブ・ザ・ショー」「ハード・ワーキン'」「ミスター・ダイナマイト」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル(GFOS)」「ミニスター・オブ・ニュー・ニュー・スーパー・ヘヴィー・ファンク」「ファンキー・プレジデント」など、いくつものニックネームを持っていた。シャウトを用いたソウルフルなヴォーカルと、革新的なファンク・サウンドを確立したことで知られる。
父はアメリカ先住民のアパッチ族で、母はアフリカ系アメリカ人とアジア人の系統である[6][7]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第10位[8]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第7位[9]。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第37位[10]。
生涯
生い立ち
ジェームズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、サウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。このことは、本人が自伝などでも書いているが、他にも1928年生まれという説がある。成人後に、ジェームズ・ジョセフ・ブラウンへと改名している。黒人以外の人種の血が混ざっていることは、ブラウン自身も、他の[誰?]著者による書籍でも言及されている[11]。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝するほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。15歳の時の車の窃盗を、16歳(成人扱い)で反省があれば8年。反省がなければ16年という、差別的な有罪判決を下され、1948年から教護院に収容された。
教護院での服役中に、ブラウンはボビー・バードと知り合った[12]。バードの家族は、ブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンは、オーガスタに戻らず、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念した。ブラウンは、音楽へ情熱を傾けることとなった。
1950年代(ミスター・ダイナマイト)
ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコード[注 1]と契約を結ぶ。
シド・ネーサンは頑固な男だった。ブラウンが「プリーズ~」と歌い始めるとネーサンは腹を立て、スタジオから出ていってしまった。ネーサンの言い分は「こんなものは音楽でも何でもない。ただのクズだ」というものだった。それでもブラウンが音楽的な妙味を説明し、なんとか発表にこぎつけることができた。バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ(Please, Please, Please)」[注 2]は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェームズ ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ(James Brown with the Famous Flames)」とクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。
1958年の「トライ・ミー(Try Me)」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。
これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959年)、「Bewildered」(1960年)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、ルイ・ジョーダン、エイモス・ミルバーン、ワイノニー・ハリスらの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイル、楽曲の構造は変化し、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展、スライ・ストーン、Pファンク[注 3]、プリンスなどに強い影響を与えた。
1960年代(ファンク革命)
ブラウンとフレイムズの初期のシングルは、アメリカ南部およびR&Bチャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした 『ライブ・アット・ジ・アポロ(Live at The Apollo)』(1962年)まで待たなければならなかった。
ライブ・アルバムが成功した後、ブラウンは最初のファンク・ナンバーとされる1964年の「アウト・オブ・サイト(Out of Sight)」を嚆矢とし、1965年の「パパのニュー・バッグ(Papa's Got a Brand New Bag)」、「アイ・フィール・グッド(I Got You (I Feel Good))」等一連の16ビート楽曲を発表した[13] 。さらに「ナイト・トレイン(Night Train)」を制作した。これらの曲は、ギターの鋭角的なカッテングや、ポイント々でのホーンセクションの入り、崩れないベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルにバックにのり好調を保った。しかしながら、「アウト・オブ・サイト」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。
1967年ごろのJBバンドのドラマーには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット(Cold Sweat)」はクライドがドラムスを担当した傑作ナンバーだった。ワンフレーズで延々とグルーヴを続ける、ヴォーカルも打楽器と化すような革命が起こった。曲中でメイシオ・パーカーに名指しでソロを取るようシャウトしている。1968年の「アイ・ガット・ザ・フィーリン(I Got The Feelin')」や「リッキン・スティック(Licking Stick-Licking Stick)」、「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ(Give It Up or Turnit a Loose)」、また1969年の「マザー・ポップコーン(Mother Popcorn)」をはじめとする一連の「ポップコーン[注 4]」もの等を発表しながら1970年代を迎える。
ここで、予期せぬ出来事が起きた。1968年4月4日、キング牧師が暗殺されたのである。
JBは4月5日にボストン・ガーデンでコンサートを予定していた。混乱の恐れ、いや暴動を避けるために、市長や市会議員とともに相談し、当日のパフォーマンスを生中継することになった。放送直後に再放送もされ、ボストンはその週末を大きなトラブルなしに終えることができた[14][15][注 5]。8月7日、「セイ・イット・ラウド(Say It Loud - I'm Black And I'm Proud)」を録音、16日に即リリースし、26日、ダラス公会堂(Dallas Memorial Auditorium)のコンサートではオーディエンスとのコール・アンド・レスポンスが起こった。
JBの影響力はショウ・ビズの世界を超え、社会的にも「ソウル・ブラザー」として認知されていたと云えよう。以下に、「革命期」のメンバーリストを上げる。
1960年代の主要メンバー
- クライド・スタブルフィールド(Clyde Stubblefield) - ドラムス
- ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラムス
- ティム・ドラモンド - ベース
- バーナード・オーダム - ベース
- スウィート・チャールズ・シェレル ("Sweet" Charles Sherrell)- ベース、キーボード
- メイシオ・パーカー(Maceo Parker) - サックス
- メルヴィン・パーカー[注 6] - ドラムス
- セントクレア・ピンクニー - サックス
- ジミー・ノーレン - ギター
- ナット・ケンドリック - ドラムス
- ボビー・バード - ボーカル
- イボンヌ・フェア - ボーカル
- アナ・キング - ボーカル
- マーヴァ・ホイットニー(Marva Whitney) - ボーカル
1970年代(ファンキー・プレジデント)
1960年代末から1970年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。
1970年3月に、ジェームズ・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。給料に関するトラブルから、メイシオ・パーカー(テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。JBは、当時、彼と離れてシンシナティに居たボビー・バードに、以前一緒に録音したことがあるペースセッターズを連れてくるよう呼びかけた。そうして、ブーツィー・コリンズ(ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる[16]。彼らは「JBズ (The J.B.'s)」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。
1970年末からオリジナルJBズとともに、アフリカ(コート・ジボワール、ザンビア、ナイジェリア[注 7])からヨーロッパ(ロンドン、パリ[注 8]、ブリュッセル、フランクフルト、ベルリン)へとツアーに回った[17][注 9]。
'70年以降のヒットとしては1970年の「セックス・マシーン(Sex Machine)[注 10]」、「スーパー・バッド(Super Bad)」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ(Give It Up or Turnit a Loose)[注 11]」、1971年「ソウル・パワー(Soul Power)」などがある。ブラウンの「全盛期」を支えたJBズの主要なメンバーは、次の通りである。
1970年-1971年ごろの主要メンバー
- クライド・スタブルフィールド(Clyde Stubblefield) - ドラムス
- ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラムス
- ロバート・マッカロウ[注 12] - テナーサックス
- フレッド・ウェズリー(Fred Wesley) - トロンボーン
- セントクレア・ピンクニー(St. Clair Pinckney) - テナーサックス
- フェルプス・キャットフィッシュ・コリンズ(Phelps "Catfish" Collins)[注 13] - ギター
- ハーロン・チーズ・マーティン(Harlon "Cheese" Martin) - ギター
- ブーツィー・コリンズ(William "Bootsy" Collins) - ベース
- ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション
- ヴィッキー・アンダーソン(マイラ・バーンズ)(Vicki Anderson)[注 14] - ボーカル
- ダニー・レイ(Danny Ray) - MC
そしてブーツィー等が離れ、早くに出て行き戻ってはいたメイシオ・パーカー、早くから戻っていたフレッド・ウェズリー等も、また脱退することになる1975年ごろまでの、それまでの期間は、ポリドール時代のブラウンの「充実期」でもある。
1971年に「アイム・ア・グリーディ・マン(I'm a Greedy Man)」、「メイク・イット・ファンキー(Make It Funky)」、「エスケープ・イズム(Escape-ism)」、「ホット・パンツ(Hot Pants)」、1972年にはファンクの傑作[独自研究?]「ゲット・オン・ザ・グッド・フット(Get On The Good Foot)」等を発表した。1973年には「シンク(Think (About It))」、「ザ・ペイバック(The Payback)」、「マイ・サング(My Thang)」、1974年「ファンキー大統領(Funky President)」、「ホット(Hot)[注 15]」など、大ヒットには至らなかったものの、まずまずの作品を発表した。これら「充実期」の主要メンバーは次の通り。
1972年-1974年ごろの主要メンバー
- フレッド・トーマス(Fred Thomas) - ベース
- フレッド・ウェズリー(Fred Wesley) - トロンボーン、音楽監督
- ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラマー
- メイシオ・パーカー(Maceo Parker) - アルト・サックス ※1973年ごろ再加入
- セント・クレア・ピンクニー(St. Clair Pinckney) - テナー・サックス
- スウィート・チャールズ・シェレル("Sweet" Charles Sherrell)- ベース、キーボード
- ジミー・ノーラン(Jimmy Nolen) - ギター ※1972年ごろ再加入
- ハーロン・チーズ・マーチン(Harlon "Cheese" Martin) - ギター
- ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション
- マーサ・ハイ(Martha "High" Harvin) - バックボーカル
- ダニー・レイ(Danny Ray) - MC
- ボビー・バード(Bobby Byrd) - ボーカル、オルガン
- リン・コリンズ(Lyn Collins) - ボーカル
1974年には、またアフリカで公演している。ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者モハメド・アリ[注 16]と王者ジョージ・フォアマンとの対戦は、「世紀の一戦」「キンシャサの奇跡」と謳われた。この試合をプロモートしたドン・キングが同時に開催した[注 17]、ブラック・ウッドストック、アフリカのウッドストックと呼ばれた音楽フェスティバル『ザイール '74』に、JBおよびJBズも出演した。この模様は、映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』や映画『ソウル・パワー』で観ることができる[注 18]。
この時期、JBファンクの影響を受けたクール&ザ・ギャング、BTエクスプレス、オハイオ・プレイヤーズらファンクの新興勢力が登場し、ブラウンはやや押され気味になった。 その後、1975年ごろから起こった「ディスコ・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ディスコ・サウンドの中のファンキーな部分のオリジナルであるにもかかわらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることはできなかった。1976年の「ゲット・アップ・オファ・ザット・シング(Get Up Offa That Thing)」や1977年の「ボディ・ヒート(Bodyheat)」などのヒットもあるが、1970年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎えた。しかし1979年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア(It's Too Funky in Here)」を含むアルバム『オリジナル・ディスコ・マン(The Original Disco Man)』は、佳作として後に評価されている。
1980年代(アイム・バック)
1980年、映画『ブルース・ブラザース』に出演[注 19]。1984年には、ヒップホップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ(Unity)」がスマッシュ・ヒット。久々に音楽シーンの注目を浴びた。1986年1月23日にはロックの殿堂入りした他、映画『ロッキー4/炎の友情』に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして同年、挿入曲「リビング・イン・アメリカ(Living in America)」が、またも久々のヒットとなる。
この時期、1986年に久々の来日公演(東京・大阪)を果たす。
さらに1988年には、フルフォースのプロデュースによる「アイム・リアル(I'm Real)」を発表した。ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師、我が父」として尊敬された。この時期、ブラウンの曲はラッパー、DJたちによって非常に多くサンプリングされた。
同年4月に妻への暴行、妻の乗った車への発砲事件を起こす。5月には薬物・武器所持で逮捕。9月は保険会社で銃による武装脅迫事件を起こす。駆けつけた警察とカーチェイスを行った末、車がガス欠となって逮捕され、実刑判決を受けた。
1990年代
1991年2月27日、6年の判決に対して3年弱の服役で釈放された。この年には、4枚組CDセットの『Star Time』を発表。この頃よりブラウンは、その功績を称えられ、いくつかの名誉ある音楽関連の賞を受賞している。1991年6月10日には「ジェームズ・ブラウン リヴィング・イン・アメリカ ライブ」が開催された。出演者はアイス-T、トーン・ロック、クール・モー・ディー、ヘヴィ・D、アン・ヴォーグ、M.C.ハマー、C+Cミュージック・ファクトリー、ベル・ビヴ・デヴォー、クインシー・ジョーンズらだった。
1992年2月25日、ブラウンは第34回グラミー賞にてグラミー生涯業績賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブルース財団賞特別功労賞を受賞した。また、1993年11月11日にオーガスタ市長のチャールズ・ディヴァニーは、オーガスタ9番街を「ジェームズ・ブラウン大通り(James Brown Boulevard)」と改名し記念式典を行った。また、C+Cミュージック・ファクトリーと、ソウル・II・ソウルのジャジーBがプロデュースを担当した新作アルバム『ユニバーサル・ジェームズ(Universal James)』も発表された。
2000年代

2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォード(アワード)に招かれる。ここではマイケル・ジャクソンが飛び入りで参加したが、この共演は約20年ぶりのことであった。その後、マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの音楽とダンスの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。同年にはケネディセンター賞も受賞した。2004年の曲「ガット・バケット」は、雑誌『モジョ』のコンピレーションCDに収録された[18]。
2004年12月に、ブラウンは前立腺癌と診断され手術を受けた。
2005年5月6日、ブラウンの72度目の誕生日にオーガスタ市は、7フィートのブロンズ像を贈呈した。像は本来その1年前に送られる予定であったが、その当時ブラウンが直面していた家庭内暴力事件のため、延期された。2005年7月6日にはLIVE 8の「Edinburgh 50,000 - The Final Push」に出演し、イギリスの歌手ウィル・ヤングと「Papa's Got a Brand New Bag」をデュエットした。また、その1週間前にはジョス・ストーンと『Friday Night with Jonathan Ross』に出演し、デュエットを行っている。
2006年、ブラウンは世界ツアー「Seven Decades Of Funk World Tour」を行った。ショーは、聴衆から肯定的に受け入れられた。最後のショーは、オキシジェン・フェスティヴァルへの出演であった。8月22日、オーガスタ・リッチモンド郡競技施設局(Augusta/Richmond County Coliseum Authority)は、オーガスタ・リッチモンド郡市民ホール(Augusta-Richmond County Civic Center)をジェームズ・ブラウン・アリーナと改名することを票決した[注 20]。11月14日には、イギリス音楽の殿堂入りを果たした。ブラウンは、授賞式で演奏を行った幾人かの受賞者の内の一人であった。
死去

ブラウンは2006年12月24日、歯科医を訪れそこで肺炎の症状が判明し、ジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院に入院するが、翌日の午前1時45分、死去。73歳であった。代理人によると、死因はうっ血性の心不全であった。その死去はCNNやBBCなど世界の多くのメディアでトップニュースとして報じられた。
この時、ブラウンの医者として働いていたのはコンラッド・マーレーであった[19]。ブラウンは死の時点でツアー予定を残しており、最後まで"The Hardest Working Man in Show Business"であった。
12月30日にオーガスタで行われた葬儀には、約8,500人のファンやマイケル・ジャクソン、M.C.ハマーなどの友人、関係者が集まり、ブラウンの音楽界に残した業績、人生を讃え最後のお別れをした。ただ、元JBズのメンバーの参列はボビー・バードなど少数だったことは残念だった。他にもいくつかの都市で追悼イベントが開かれ、ドクター・ドレーやLLクールJら多くの有名人が参列した。
ブラウンは、4度の結婚を経験した。ブラウンは、最初の妻ヴァルマ・ウォーレンとの間に2人の子供、2番目の妻ディドレ・ジェンキンスとの間に3人の子供がいる。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった。
エピソード
- ミック・ジャガーは映像作品『ローリング'63〜'89』において、ローリング・ストーンズの活動初期に、ブラウンの派手なステージアクトを徹底的に研究したと発言している。
- セーター姿で「アイ・フィール・グッド」を歌い踊るのは、Ski Party (1965年、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ) 中、スキー場ロッジのセットでのこと。
- チャックDは「キング牧師の暗殺後、ジェームス・ブラウンの「セイ・イット・ラウド-アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」がリリースされた(最高にかっこよかった)」。・・・このフレーズで、彼は公立学校「3年生になる準備、1969年を迎える準備、さらにはその後の人生を迎える準備」ができたという[20]。
- 1981年、ピッグバッグが1stシングル「パパのニュー・ピッグバッグ(Papa's Got a Brand New Pigbag)[注 21]」を発表。彼らは結成前夜、みんなが集まると一般のバンドがストーンズ等の曲をジャムセッションするように、JBの曲を合わせていたという[要出典]。
- またトム・トム・クラブの、同年発表の2ndシングル「悪魔のラヴ・ソング(Genius of Love)」内でも、ドラムス、ヴォーカルのクリス・フランツが「♪ジェームス・ブラウン、ジェームス・ブラウン~」と歌っており、当時のニュー・ウェイブやダンス界隈での、JBに対するオマージュやリスペクトが感じられる[注 22]。
- マイケル・ジャクソンとプリンスはブラウンから大きな影響を受けている[21]。
- ブラウンのコンサートで、客席にいたマイケル・ジャクソンとプリンスがステージに飛び入り参加したことがある。先ずマイケルがステージに呼ばれ、歌と踊りを披露した。次にブラウンは、ステージからプリンスを呼んだ。登場したプリンスは、J.B'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来なかったという[独自研究?]。
- 「リビング・イン・アメリカ」の録音時、ブラウンが自身のボーカルを録音する際に先にバックコーラスを必要としたが、コーラスのシンガーが渋滞で到着していなかったため、スタジオにいたベーシストのT.M.スティーヴンスに急きょバックコーラスを録音させている。この時、スティーヴンスは歌唱経験がないために断っているがブラウンが了解して歌うことができた。
来日記録
1973年、1974年、1975年、1979年、1986年、1987年、1992年、1993年、1994年、1995年、1997年、1998年、2002年、2003年、2006年と、計15回来日している。また、返還前の沖縄で1968年に公演を行なっている。
日本での影響
- グッチ裕三はブラウンの大ファンで、ブラウンの音楽ソフトは全て持ってる、と豪語している。
- ドン勝本(R.I.P.、日本ディスコ界隈重鎮)も大ファンで、ブラウンの日本での代理人として指名された。
- 1970年8月30日、新宿コマ劇場で、和田アキ子は小野満とスイング・ビーバーズをバックに「パパのニュー・バッグ」をカバー[注 23]。
- 1973年3月26日、大阪毎日ホールでのコンサートで、西城秀樹がブラウンの「Try Me」をカバーしている[注 24]。
- 1973年の来日公演は、ヤングジャパン(アリスやバンバン、海援隊等が所属していた。ポリスターも設立)が招聘[23]。
- 上田正樹とサウス・トゥ・サウスはJBの曲もレパートリーとしていたが、音源としては1974年の『8・8ロックデイ』[注 25]と『ワンステップフェスティバル』[注 26]での「Licking Stick[注 27]」が残されている。
- 1981年12月24日、RCサクセションの初武道館コンサートで、「プリーズ・プリーズ・プリーズ」でのマント・ショウのように「ステップ!」で踊り果てた忌野清志郎は、マントに包まれてステージ脇に連れていかれても舞い戻って観客を煽った[注 28]。また、1997年にJBと対談した際には、「俺の若いころにそっくりだ! 君はソウル・ブラザーナンバー2だ!」と言われたというが[24]、当時のJBは、誰にでも「ナンバー2」とサインしていた[要出典]。
- 1986年、JB来日時に前座を行ったF.O.Eは、本人とメイシオ・パーカーをフィーチャーし「Sex Machine」をカバー[注 29]。
- 1989年、バブルガム・ブラザーズは本人の名前をタイトルとしたアルバム『YAPPA J.B[注 30]』、シングル「やっぱ JB」発表。
- 1992年、日清『カップヌードルMISO』のCMで、JBは「ミソに感謝し」、「ミソんパ、グッガッ、カニんパ、ハイィー、ミソカニんパ」と「Sex Machine」にのってパフォーマンス[25]。
- 同年、オーサカ=モノレール結成。後に「マーヴァ・ホイットニー」のプロデュースも行った。
- 1993年、日本テレビ「ダウンタウンDX」の初期テーマ曲は、JBマナーのGOLD WAX「カルシウムが足りない[注 31]」。
- JBのナンバーを演奏する時には自身のバンドをCKズと名乗っていた横山剣 a.k.a Crazy Ken は、1997年 "ゲロッパ1600GT[注 32]" を発足し、上記GOLD WAXメンバーのサックス/フルート・プレイヤー中西圭一(ジャッカル)参入を経てクレイジーケンバンドへヴァージョンアップした。
- 2003年公開の井筒和幸監督作品『ゲロッパ![注 33]』は、JBおよび「Sex Machine」をモチーフとしている。
- 2007年、浜野謙太をリーダーとする在日ファンク発足。浜野はCMでJBダンスも披露。
- 2019年、クボタのCM(長澤まさみ主演)で、「Sex Machine」のオマージュ曲(ゲロッパ≒クボッタ)が流れた。
- 2025年、サントリーのスピリッツ『The Peel』のCMで、「I Got You(I Feel Good)[注 34]」が使用。
ディスコグラフィ
トップ10シングル
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主なアルバム
- Please Please Please (1959年)
- Try Me (1959年)
- Cold Sweat (1967年)
- セイ・イット・ラウド Say It Loud - I'm Black and I'm Proud (1969年。2015年、ユニバーサルレコーズ、UICY-77141)
- ザ・ポップコーン The Popcorn (1969年。2007年、ユニバーサルミュージック、UICY-93286)
- イッツ・ア・マザー It's a Mother (1969年。2007年、ユニバーサルミュージック、UICY-93288)
- エイント・イット・ファンキー Ain't It Funky (1970年。2007年、ユニバーサルミュージック、UICY-93289)
- スーパー・バッド Super Bad (1970年。2007年、ユニバーサルミュージック、UICY-93291)
- セックス・マシーン Sex Machine (1970年、PolyGram、314517984-2)
- Hot Pants[注 35](1971年、PolyGram。1992リマスター、Polydor、517 985-2)
- Sho Is Funky Down Here[注 36](1971年、Polydor。2019、NowAgain、NA 5181-CD-BK)
- Get On The Good Foot (1972年)
- The Payback (1973年)
- Hell (1974年)
- Hot (1975年)
- Gravity (1986年)
主なライブ・アルバム(パフォーマンス日順)
- Live at The Apollo(1963年)
- Live at The Apollo Volume II (Deluxe Edition)[注 37](2001年、Universal Music、314-549-884-2)
- L'Olympia Paris 1967[注 38](2019年、Eternal Grooves、EGRO-0033)
- Say It Live and Loud: Live in Dallas 08.26.68[注 39](1998年、CHRONICLES、31455-7668-2)
- Newport Jazz Festival 1969[注 40](JM-423)
- Live at Home With His Bad Self[注 41](2019年、Republic Records、B0030192-02)
- Live at Home With His Bad Self: The After Show[注 42](2019年、Republic Records、B0030985-01。LP)
- ライブ・イン・パリ '71 完全盤 Love☆Power☆Peace[注 43](2014年、Universal Music、UICY-77945/6)
- ソウルの革命 Revolution of The Mind[注 44] (Polygram、314517983-2)
- ゲット・ダウン・ウィズ・ジェームス・ブラウン~ライヴ・アット・ジ・アポロ Vol.4 Get Down With James Brown: Live at The Apollo Vol.IV[注 45](2016年、Universal Music、UICY-77940)
- Soul Train Live[注 46](2016年、aircut、ACCD8057)
- Zaire 1974: The Democratic Republic of Congo Zaire Africa[注 47](2017年)
主な編集アルバム
- James Brown The Singles[注 48]
- Vol.4: 1966-1967(2007年、Universal Records、B0009472-02)
- Vol.5: 1967-1969(2007年、Universal Records、B0010411-02)
- Vol.6: 1969-1970(2008年、Universal Records、B0012204-02)
- Vol.7: 1970-1972(2009年、Universal Records、B0012728-02)
- Vol.8: 1972-1973(2009年、Universal Records、B0013349-02)
- Vol.9: 1973-1975(2010年、Universal Records、B0014259-02)
- Vol.10: 1975-1979(2011年、Universal Records、B0015279-02)
- ルーツ・オブ・ア・リヴォリューション Roots of a Revolution[注 49](1989年)
- Soul Pride: The Instrumentals 1960-1969[注 50](1993年、Polygram、314 517 845-2)
- ファンクの誕生 Foundations of Funk: A Brand New Bag: 1964-1969(1996年、PolyGram、POCP-1611/2)
- Funk Power 1970: A Brand New Thang[注 51](1996年、PolyGram、3145 1684-2)
- メイク・イット・ファンキー Make It Funky: The Big Payback: 1971-1975(1996年、PolyGram、POCP-1617/8)
- イン・ザ・ジャングル・グルーヴ In The Jungle Groove[注 52] (1986年。2003年、Universal Records、UICY4172)
- Matherlode[注 53](2003年、Universal Music、B0000473-02)
主なベスト・アルバム
- Ain't That a Groove: The James Brown Story 1966-69 (1984年、Polygram Records、422-821 231-1 Y-1。LP)
- Doing It To Death: The James Brown Story 1970-73 (1984年、Polygram Records、422-821 232-1 Y-1。LP)
- Solid Gold: 30 Golden Hits - 21 Golden Years(1986年、Polygram Records、422-829 254-1 Y-2。LP2枚組)
- The CD of JB[注 54]
- CD of JB II
- Star Time (1991年、ポリドール、849 109~112-2。CD4枚組)
- 20 All-Time Greatest Hits! (1991年)
主なJBファミリーのアルバム
- ボビー・バード / アイ・ニード・ヘルプ I Need Help (Live on Stage)[注 55](1970年。2015年、Universal Music、UICY-77148)
- ボビー・バード / アイ・ノウ・ユー・ガット・ソウル -ベスト・オブ・ボビー・バード Bobby Byrd Got Soul: The Best of Bobby Byrd(1995年、Universal Music, 012 157 745-2。2015年、Universal Music、UICY-77150)
- ボビー・バード アンド ヴィッキー・アンダーソン / ホット・パンツ・アイム・カミング Hot Pants - I'm Coming, Coming, I'm Coming(1989年。2015年、Universal Music、UICY-77149)
- ボビー・バード / バック・フロム・ザ・デッド Back From The Dead[注 56](2005年。2023年、ウルトラ・ヴァイヴ、CDSOL46639)
- Vicki Anderson Mother Popcorn[注 57](2004年、Passion Music、CD SBPJ 24)
- マーヴァ・ホイットニー / イッツ・マイ・シング It's My Thing(1969年。2014年、Universal Music、UICY-78600)
- リン・コリンズ / チェック・ミー・アウト Check Me Out: If You Don't Know Me By Now(1975年。2014年、Universal Records、UICY-76599)
- Various Artists Funky Divas: James Brown's Original[注 58](1998年、PolyGram、537 709-2)
- JB's More Mess on My Thing(2020年、NOW AGAIN RECORDS、NA5189)
- The J.B.'s Funky Good Time, The Anthology(1995年、POLYGRAM、31452 7094-2)
- Maceo US[注 59](1973、74年。1991年、ブルース インターアクションズ、PCD-1358)
- スウィート・チャールズ / フォー・スウィート・ピープル・フロム・スウィート・チャールズ For Sweet People from Sweet Charles (1974年。2022年、Universal Music、UICY-79950)
- ハンク・バラード You Can't Keep a Good Man Down(1969年。2008年、Passion Music、CD SBCS 30)
- ビル・ドゲット / ホンキー・トンク・ポップコーン Honky Tonk Popcorn[注 60](1969年。2012年、STARDAY-KING RECORDS、PD 1078)
- ジェームズ・ブラウンズ・ファンキー・ピープル James Brown's Funky People[注 61]
- Various Artists ギミ・ユア・ハンド Gimme Your Hand J-B
主なその他のアルバム
- Various Artists Hip City[注 66](2000年、Harmless Recordings、HURTCD 024)
伝記映画等
- 『ジェームズ・ブラウン 最高の魂を持つ男』演 :チャドウィック・ボーズマン(2014年)
- 『ミスター・ダイナマイト -ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』(2016年11月30日、ユニバーサルミュージック、UIBY-15079)
主な映像作品
- 『ジェームス・ブラウン・ストーリー -1956-1976 "セックス・マシーン"』[注 67](1988年。1989年、パイオニアLDC、HMO45-3354。VHS)
- I Got The Feelin': James Brown in The '60s[注 68](2008年、Shout Factry、826663-10879)
- Live at Boston Garden April 5. 1968: Extended Edition[注 69](2014年、Shout Factry、SF-15542)
- 『ソウル・パワー -ザイール'74 伝説の音楽祭』[注 70](2008年、アップリンク、ULD-586)
- その他、'71のL'Olympia劇場やその前後ローマやボローニャでのコンサート、テレビ出演時のビデオ、ソウル・トレイン出演時の映像等、流通している模様。
著書・評論等
- ジェームズ・ブラウン、ブルース・タッカー『俺がJBだ! ジェームズ・ブラウン自叙伝 (ON MUSIC)』山形浩生・渡辺佐智江・クイッグリー裕子訳、JICC出版局、1993年。ISBN 4-7966-0601-7。
- 本人の著書。ブルース・タッカーがサポート。
- 浅野純 編『ジェイムズ・ブラウン -永遠のファンキー・プレジデント』ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ4月増刊号 第26巻第6号、2007年。
- 「レコード・コレクターズ」や「ミュージック・マガジン」でのアルバム・レヴュー等。
- ネルソン・ジョージ、アラン・リーズ『JB論 ジェイムズ・ブラウン闘論集 1959-2007』押野素子・佐藤信夫訳、スペースシャワーネットワーク、2013年。ISBN 978-4-906700-10-3。
- 本人へのインタヴュー・レヴュー集。
参考文献
- リッキー・ヴィンセント『ファンク 人物・歴史そしてワンネス』宇井千史訳、ブルース・インターアクションズ、1998年。ISBN 978-4-938339-39-5。
- bmr編集部(と呼ばれる丸屋九兵衛)編『灼熱のファンク・レジェンド - bmrレガシー』スペースシャワーネットワーク、2013年。ISBN 978-4-906700-72-1。