ジェノヴァ市電
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3社による開通からUITEによる統合まで
ジェノヴァ市内における最初の軌道交通は、1878年3月10日に開通した、プリンチペ広場(Piazza Principe)とサン・ピエール・ダレーナ(San Pier d'Arena)を結ぶ馬車鉄道であった。運営事業者は、前年にジェノヴァ市から認可を得たフランス軌道総合会社(Compagnia Generale Francese di Tramways)で、1週間後には新たな区間が開通し、以降も好評を得て延伸が繰り返され、ジェノヴァ市内に大規模な馬車鉄道網が築かれていった。これらの馬車鉄道の軌間はイタリア軌間とも呼ばれる1,445 mmであった[4][5][6]。
一方、1890年代以降、ジェノヴァには新たに軌道交通の運営に携わる企業が設立され、1891年にはスイス資本の電気鉄道・ケーブルカー会社(Società di Ferrovie Elettriche e Funicolari 、FEF)が、1894年にはベルギーとイタリアの合弁会社による東方軌道匿名会社(Società Anonima Tramways Orientali、TO)が立ち上げられた。両社とも馬車鉄道ではなくより近代的な交通機関である路面電車の建設を目指していた他、軌間についても狭く曲がりくねった道路が多いジェノヴァの条件に適したメーターゲージ(1,000 mm)で建設する計画であった[4][3][7]。
これらの2社のうち、先に路面電車路線を開通させたのはFEFで、1893年5月14日に最初の区間が営業運転を開始し、以降急速に路線網を広げていった。一方でTOについても1897年7月26日に最初の路線を開通させ、路線網を拡大させていった。そして1894年、ドイツ・ベルリンに本社を有していたAEGはFEFとTOの経営権を譲受し[注釈 1]、両社の路線網を傘下に収めた後、経営管理を1897年に統合させた[4][2][8][9][10][11]。
一方、それに先立つ1895年、AEGは傘下企業であり電気事業を営んでいたジェノヴァ電気工房会社(Officine Elettriche Genovesi、OEG)の子会社として、イタリア電気軌道連合(Unione Italiana Tramways Elettrici、UITE)を設立し、フランス軌道総合会社から馬車鉄道の運営権を譲受した。UITEは経営権を得た3社の路線網の統合を目指すため、フランス軌道総合会社が有していた馬車鉄道の改軌(1,445 mm→1,000 mm)を進め、路線網の電化を含め1902年までに完了した。そして、前年の1901年にUITEはSFEFとSATOを吸収合併し、ジェノヴァ市内に存在する全長約70 kmという長大な軌道交通の運営を担う事となった。また、1908年には当時世界最長の路面電車用トンネルであったチェルトーザトンネル(galleria Certosa)が開通している[4][8][12][13][14][15][16][17]。
また、1913年には将来の市営化を見据える形でジェノヴァ市が独自の路線(A号線)を開通させたが、運営はUITEによって実施された[18]。
- 1890年代の路面電車
- 1900年代の路面電車
第一次世界大戦後の動き
設立以降ドイツのAEGによる影響が大きかったUITEは、第一次世界大戦の勃発に伴うドイツ人関係者の撤退や一時的にイタリア政府の管理下に置かれた時期を経て1917年以降イタリアの実業家によって運営される企業となった。同社は継続して路面電車網の拡大を続け、1922年に長年公共交通機関の主力であった乗合馬車は姿を消した。一方、UITEは1928年以降ジェノヴァ市当局が株の過半数を獲得し、市が運営を指揮する形となった[8][4][19][20]。
その後、1930年代からはジェノヴァ市内中心部の路線変更を始めとした大規模な近代化が進められた。それに合わせて車両も近代化が進められ、1929年から1932年には設計者にちなみ「カステッジーニ(Casteggini)」と呼ばれた電車が、1939年以降は「ジェノヴァ(Genova)」もしくは「リットリーナ(Littorina)」と言う愛称で呼ばれた電車の導入が進められた。また、これらの車両の配置を目的とした新たな車庫の建設も行われ、新型車両の建設も実施された[1][3][4][19][21][22][20][23]。
- 1920年代の路面電車
- 1930年代の路面電車
第二次世界大戦から廃止まで
積極的な近代化が実施されていたジェノヴァ市電であったが、第二次世界大戦の勃発により中断を余儀なくされ、更に戦闘によって施設や車両は深刻な被害を受けた。そのため、終戦後にUITEは戦前から計画していた路面電車の置き換え計画を進める事を決定し、主要路線については復旧を進めた一方、それ以外の「二次路線」と見做された系統については路線バスやトロリーバス(ジェノヴァ・トロリーバス)へ転換された。これらの代替交通機関は路面電車と比較して運行の柔軟性や坂が多い丘陵地帯において有利であると見做され、更に残存した路線についてもモータリーゼーションの進展による事故の多発や施設の劣化が問題視されるようになった。その結果、1956年にUITEは路面電車網の全体を路線バスへ置き換える決定を下した[2][24][22][25][26][27][28]。
UITEの社員を始めとした反対の声は多かったが決定は覆らず、1964年以降残存路線の廃止が始まった。一方で1965年には運営事業者のUITEは兼ねてから市営化を進めていたジェノヴァ市に完全買収され、同市が運営するジェノヴァ交通輸送会社(Azienda Mobilità e Trasporti)となった。同事業者は更に路面電車の廃止を進め、同年11月10日までにレヴァンテ地区(Levante)に残されていた区間が廃止された。車庫との連絡線を有していたため最後まで残されたヴァル・ビザーニョ地区(Val Bisagno)の2系統(12号線・13号線)が、1966年12月26日から翌27日の終夜運転をもって営業運転を終了した事で、ジェノヴァから路面電車が姿を消した[1][2][3][4][29][30][31]。
- 1950年代の路面電車
- 「ジェノヴァ」と呼ばれた車両は1両が残存している(2017年撮影)
路線図
- 1901年(緑:UITE、赤:FEF、青:TO)