ジャラールッディーン・マスウード・シャー From Wikipedia, the free encyclopedia ジャラールッディーン・マスウード・シャー(ペルシア語: جلالالدین مسعود شاه、Jalāl al-Dīn Masʿūd Shāh、生没年:? - 1343年)は、イルハン朝の官僚・政治家。シャラフッディーン・マフムード・シャー・インジューの子。ワズィールとなり、父と同じくファールス州を統治した[1]。 生まれ シャラフッディーン・マフムード・シャー・インジューの子として生まれる。 父の死 1335年、イルハン朝の第9代君主アブー・サイード・ハンが崩御し、アルパ・ケウンが第10代イルハンに即位すると、家柄・身分・財産などで顕著な人物、とりわけ父のシャラフッディーン・マフムード・シャーが処刑された[2]。マスウード・シャーはタブリーズへ逃げ、イールカーニー派[注釈 1]のシャイフ・ハサン(大ハサン)のもとへ赴いた[4]。大ハサンはしばらくして後、チョバンの四男シャイフ・マフムードの子アミール・ピール・フセインとともにファールスの州都シーラーズへ行かせた[4]。マスウード・シャーはピール・フセインと共にファールスの政治を司った[5]。 ワズィールとなる 1336年、大ハサンはアリー・パーディシャーを排除すると、殺されたワズィール(宰相)のギヤースッディーン・ムハンマドの後任として、マスウード・シャーとギヤースッディーン・ムハンマドの甥シャムスッディーン・ザカリーヤとにワズィールの職務を分担させた[6][1]。 1338年、チョバン派のシャイフ・ハサン(小ハサン)によってサティ・ベク・ハトゥンが女性ハンとして擁立されると、マスウード・シャーは引き続き、兄弟らと共にファールス州の統治を追認された[7]。 死去 1343年、ピール・フセインはマスウード・シャーの権力・名声が高く、彼の家族がこの地で尊敬を受けていたのを嫉み、これを殺した[5]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 大ハサンの曾祖父はフレグに仕えたジャライル部の将軍イルゲ(イールカー)・ノヤンだったため、イルカン(イールカーニー)派と呼ばれた。[3] 出典 1 2 渡部 1997, p. 201. ↑ 佐口 1979, p. 363. ↑ 佐口 1979, p. 370. 1 2 佐口 1979, p. 384. 1 2 佐口 1979, p. 385. ↑ 佐口 1979, p. 367. ↑ 佐口 1979, pp. 371–372. 参考資料 C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 6巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫365〉、1979年11月。ISBN 4582803652。 渡部良子「イルハン朝の地方統治 ファールス地方行政を事例として」『日本中東学会年報』第12巻、日本中東学会、185-216頁。 Related Articles