ジャン・オーレル
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1925年11月6日、ルーマニア・ムレシュ県ラストリツァを走る寝台車のなかで生まれた。
1951年、アナトール・ドーマン製作のもと短編映画『L'Affaire Manet(マネ事件)』を撮る。数本の短編映画を演出。平行して、週刊誌『アール Art』に執筆をし、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーの時代、つまりヌーヴェルヴァーグ揺籃期の『カイエ・デュ・シネマ』誌の編集者となり、とりわけ7歳下のトリュフォーと親交を深く結ぶ。
IDHEC卒。1955年、その教育課程の一環で、アウグスト・ジェニーナ監督の遺作となる『フルフル Frou-Frou』の助監督についた。同作の撮影監督はアンリ・アルカン。同年、カルミネ・ガローネ/レンツォ・メルーシ共同監督の『La Fille de Mata Hari(マタハリの娘)』の脚本を書き、つづいてルネ・クレールやミシェル・ボワロン、ジャック・ピノトー、ジャック・ベッケル、ロジェ・ヴァディムらを支える脚本家へ。
1963年、第一次世界大戦についてのドキュメンタリー映画『14-18』で長編監督デビュー。1965年の米国アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネート。同作ではプロデューサーも務めた。
1979年、フランソワ・トリュフォー監督『逃げ去る恋』の脚本に参加、以来『隣の女』(1981年)、遺作『日曜日が待ち遠しい!』(1983年)と最晩年の3本に、いずれもシュザンヌ・シフマンとともに脚本参加。
人物
- フィクションの演出を試みたが、大きな成功は得られなかった。ドキュメンタリーの演出、とくに『14-18』(1963年)や『La Bataille de France』(1964年)といった2つの世界大戦はらくにできたようである[1]。
- 19世紀小説を数本映画化したが、むしろすぐれているのは『Staline』(1985年)やボリス・スヴァーリン(Boris Souvarine)の伝記の映画化であった[1]。