ジャン=バティスト・ド・ラ・サール
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パリ近郊のサン・シュルピス教会の神学校 (Séminaire Saint-Sulpice) と、ソルボンヌ大学を卒業して司祭になる。近代教育の先駆者で、当時、西欧では上流階級の子女だけが家庭教師からラテン語による教育を受けるのが一般的だったのに対し、平民の子供を一堂に集めて学級に分け、日常用語(フランス語)で教育を行うという、現代の学校教育のシステムに通じる革新的な教育法を実践した。また青少年教育に尽力した。
- 寺子屋的な個人指導を廃し、学年(年齢)毎のカリキュラムを設定した。
- 教師による体罰を禁止した。
- 貧しい家庭の学費を免除した。
- これにより、ラ・サールは現代の義務教育の基礎を作ったとも言われる。
当時の迫害はすさまじかった。聖職者でありかつ貴族でもあるラ・サールが、街の子供に対し平民の教師と共に教育を施す光景は、教会や一門から見ると、今でいえばストリートチルドレンや行儀の悪いブラザーとつるんでいるようにしか見えなかったようである。
まず、ラ・サールはその件で、ラ・サール家を出なければならなかった。ラ・サールに共感した貴族の子弟アベー・クレモン(Abbe' Clement)が学校を建てるというので融資に応じた件では、返済もされず逆にその父親から未成年をだましたと訴えられて敗訴したため、パリから落ち延びて長らく隠棲しなければならなかった。
さらには、死の床についたときにさえ司祭職をはく奪されるという不名誉を受けた。しかし、ラ・サールの死に際して街の人々は、「聖人が死んだ」と触れ回ったという。
その偉業は、ラ・サールの死後から19世紀になってようやく教会にも理解されるようになり、聖人に列せられた。また20世紀半ば、すべての教育者の守護聖人であると宣言された。