ジョン・ウォルシュ (出版者)
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生涯
ジョン・ウォルシュの生い立ちは明らかでないが、おそらくはアイルランド系だろうという[1]。1690年前後にロンドンで事業をはじめ[1]、1692年に国王ウィリアム3世お抱えの楽器製造者に任命された[1]。1695年には楽譜出版業を始め、イギリスの作曲家だけでなくヨーロッパ大陸の音楽を出版した[1]。1695年に楽譜出版業をはじめた[1]。彼の出版物はオペラ・歌曲・器楽・教育用の本などがあり、アンセムや讃美歌集のような宗教音楽は事業の大きな部分を占めていなかった[1]。
同じころにアムステルダムで楽譜出版業をはじめたエティエンヌ・ロジェとはロンドンでライバル関係にあった[2]:200-201。1700年に両者はコレッリのヴァイオリン・ソナタ集作品5の出版で争い、1705年ごろには作品1-4の出版でも争った[2]:200-201。
ウォルシュは海賊出版の常習者だった[3]:130。当時は著作権の考えが発達しておらず、とくに著作が外国でコピーされることを守る法律は存在しなかった。ウォルシュも他の出版業者も互いにコピーしあっていた[2]:132。ウォルシュは作曲家からだけではなく、劇場の写本家、楽団員、他の出版業者などから楽譜を得ていた[1]。
ジャンヌ・ロジェ(エティエンヌの娘)名義でヘンデルのソロ・ソナタ集(作品1)とトリオ・ソナタ集(作品2)が出版されたが、実際にはウォルシュがジャンヌ・ロジェの名前を騙って出版したものだった[3]:229-231。当時ウォルシュはヘンデルと業務提携関係にあったので、ロジェの名前を使うことでヘンデルとの衝突を避けようとしたものと考えられる[2]:206。ジョン・エルンスト・ガリアルドのフルートと通奏低音のソナタもロジェ名義で出版しているが、実際にはロジェ版をウォルシュがコピーしたものだった[2]:206-207。
1720年ごろにヘンデルのハープシコード小品集もジャンヌ・ロジェの名で出版されたが、実際にはこれもおそらくウォルシュが出版したものと思われる。この小品集はヘンデルの承認を得ずに出版したものと思われ、誤りが多い。これに対してヘンデルは1720年に王室から14年間の著作権を認められ、クルーアーから正式なハープシコード組曲第1集を出版した[3]:129-130。
ウォルシュはオペラやオラトリオの出版で大きな収益をあげていたが、ヘンデルには20-30ポンドしか払われなかった[2]:132。ウォルシュが『リナルド』(1711年初演)の出版で1500ポンドもうけたとき、ヘンデルはウォルシュに向かって、「今度は君が作曲して、私が出版しよう」と冗談を言ったという逸話がある[3]:131。しかしウォルシュが1500ポンドを得たという説は否定されている[1]。
1736年に没し、聖メアリー・ル・ストランド教会のヴォールトに埋葬された[1]。残した財産は3万ポンドとも2万ポンドとも報道された[1]。
ジョン・ウォルシュ(子)
ジョン・ウォルシュ(John Walsh、1709年12月23日 - 1766年1月15日)は、1731年に[3]:130同名の父の仕事をついでロンドンで楽譜出版・販売業と楽器製造業の仕事についた[4]。1731年には父をついで王室の楽器製造者に任命された[4]。
海賊出版の常習者であった父にくらべ、子のウォルシュははるかに誠実だった[3]:130。
ヘンデルの後期作品はほぼすべてウォルシュが出版し、1739年には14年間の独占的出版権を得た[4][3]:130。独占的出版権を得て最初に出版された楽譜が合奏協奏曲集 作品6だった[5]:281-282。ウォルシュの出版物の約半分がヘンデルの作品だった[4]。
1748年以降ウォルシュは捨子養育院長をつとめており、ヘンデルに捨子養育院で『メサイア』の慈善演奏会を開いたのはウォルシュの勧めによるものかもしれない[4]。
ウォルシュが没したとき、4万ポンドの財産を残したと報道された[4]。