スウィートコーン (フォークデュオ)
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| スウィートコーン Sweet Corn | |
|---|---|
| 別名 |
スイートコーン スイート・コーン |
| 出身地 |
|
| ジャンル | フォークソング |
| 活動期間 | 1980年 - 2000年代初頭 |
| レーベル |
東芝EMI テイチク・コンチネンタル G.U.RECORD |
| 共同作業者 | 嶋田富美、武田千寿子、深田尚美、深野義和、松木司、ヤマトタケル(五十音順) |
| 公式サイト | Sweet Corn |
| メンバー |
木村弘美(ボーカル&ギター&フラットマンドリン) 蒲谷明子(ボーカル&ギター) |
| 旧メンバー | 親谷瑞穂(ボーカル&ギター) |
スウィートコーン(Sweet Corn)は、1980年代初頭から2000年代初頭に活動していた木村弘美と蒲谷明子の女性フォークデュオである。
オリジナル曲を二人のアコースティック・ギターの演奏[1]で歌うスタイルを主とするが、木村がフラットマンドリンに持ち替えたり蒲谷がキーボードを弾いたりして歌う曲があるほか、バックバンドを付けたりチェロやピアノの伴奏を加えたりすることもある[2]。オリジナル曲は二人の作詞・作曲を合わせて200曲以上(400曲以上だとの話も)あり[3]、共同作業者のアーチストなど[4][5]から歌詞提供を受けて作曲をオリジナルで行った曲もある。基本、曲の制作者がリードボーカルを担当するが、例外もある[6]。音楽ジャンルは主にフォークソングであるが、一部フォルクローレ[7]にも及ぶ。グループのサインも定型でデザインされている[8]。東京都内のライブハウス(詳細は後述)を活動の拠点としてライブ活動を行うとともに、全国のテレビ・ラジオ番組、コンサート、ライブハウス、学園祭等で活動してきている。
来歴
木村と蒲谷は小学校(武蔵村山市立第六小学校)からの同級生で、出会ったのは4年生のときである[12]。音楽を始めたきっかけは、共通の友達のお兄さんが色々なフォークソングを歌っている方たちのカセットテープを持っていて、それを聴いて自分たちでもアコースティック・ギターを持ってハモって歌ってみたいねということで始めたことからと述べている[13][14][15]。中学3年(武蔵村山市立第三中学校)のときにフォークソングクラブに入り、親谷瑞穂(現姓:漆原)を含む3人でグループを結成する。この頃から作詞・作曲を手掛け、最初に作った歌は『青春仲間』とのことだが[15]、木村と蒲谷はそれぞれ異なるタイプの歌を作っている[16]。高校はそれぞれ別であるが音楽活動を続け、1979年、親谷の提案で下北沢のレコード店『五番街』が主催する下北沢音楽賞にオリジナル曲で応募し入賞(作品賞)する[9][15][17][18]。1980年にキングレコードからリリースのオムニバスLP『いっしょに歌って!第4集』の収録に加わり、2曲を歌っている[9][17][19]。このときにグループ名を『スイートコーン』にする。グループ名の由来は、木村の母の実家(群馬県沼田市)に合宿に行ったときに、トウモロコシ1個を3人でかじっているシーンを撮影した写真があり、それが小川町のレコードショップ『五番街』の店長の目に留まったことによる[15][20][21]。
その後、親谷が脱退して二人組になる。三人組の時代は親谷がリーダー格であったが、二人組になってからは木村がその役を担う[15][22]。1981年、東芝銀座セブン フォーク&ロックコンテストで優勝を果たし[23]、各地でライブ活動を続け、1984年6月30日に東芝EMIから『ひとりがたり』でデビューする[9][17][24]。グループのキャッチフレーズは、『スイート感覚のフォークデュオ』[9]、『Last sentimental and fantastic duo』[25]である。前者のほうは2人のメンバー紹介を含むユーモラスな口上があり[26]、デモテープ『スイート・コーン1985』の曲間トークに収録されているほかラジオ番組[27]でも披露される。有線放送でDJも手掛ける[28]。ファンによって支援クラブが結成され[29]、1983年10月から本人達とファンの手によって情報誌Caminito[30]が発行される(No.1〜No.10及びMINI Caminito)。デビュー後もファンとの交流を大事にしており、ファンレターの返信は必ず書き、ライブ後の公園等での遊び(主はだるまさんがころんだ)や居酒屋での打ち上げ(飲食)は毎度のことで、初詣、花見[31]やキャンプ[32][33]なども企画される。1984年8月から、ニッポン放送のオールナイトニッポン2部の谷山浩子のオールナイトニッポンのコーナー『ザ・ベストスリー(後に、ザ・トップスリーに改題)』で、ファンの組織票によるリクエストで[34][35]、デビューシングルA面『ひとりがたり』、そのB面『燃えないロケット[36][37]』、未リリースのオリジナル曲『花うらない』がたびたび入選し放送で流される。本人達は放送局を訪問して谷山浩子と挨拶するも同番組への出演は無い[38]。1985年9月には日本放送協会のオーディションに合格し[17]、ラジオ番組に出演して[12][39]、アコースティック・ギターの生演奏で『花うらない』を歌唱している[12]。そのほか、参加アルバムでの歌唱やほかのアーチストの曲のバックコーラスを提供している。1986年、北海道放送HBCラジオのジングルに起用され、『Happy Endless HBC』のハーモニー[40]が同年4月から翌年に流される。また、アルバム制作の企画が検討され、ファンメンバーと収録曲の意見交換がなされる[41][42]。
1987年10月半ばから1989年11月頭位まで活動を休止し、この期間にレコード会社をテイチクエンタテインメントへ移籍する[43]。同時にグループ名を『スイーツ』に変更するとの告知がされるも[44]、結局、カタカナ表記を『スウィートコーン』に変更するに留まる。1990年2月21日にシングルCD『ホワイト・ムーンライト』[45]をリリース(再デビュー)し、この曲はファッションセンターしまむらのCM曲に起用される。続いてオリジナルアルバム『お元気ですか』[46]をリリースする。同アルバムに収録されている『ローマの休日』は、西日本放送ラジオ『勇気が出るラジオ ワイド!まっぴるマン』のエンディングテーマに起用される。続いてオリジナルアルバム『SECOND WIND』[47]をリリースする。当初、同アルバムはカバー曲を含む企画であり、5曲ほどの収録も終えていたが、本人達とファンの意向によって全曲オリジナル曲に変更される[48]。収録済みだったカバー曲は、うち2曲をプロモーション用(非売品)のシングルCDに収録し、『SECOND WIND』に同封されているアンケートはがきを返送してくれた方の中から抽選で500名にプレゼントする企画がなされる[49]。この頃、映画のタイトルで曲を作ることに取り組んでおり[50]、その成果がシングルCDのC/Wに収録されている『太陽がいっぱい』と、『SECOND WIND』に収録されている『ローマの休日』に見られる。また、『SECOND WIND』の1曲目に収録されている『初恋 -Remember You-』は、宮商事「宮きしめん」のCMに起用される[51]。ほかのCM曲では、スカイホームの『セブンテーン・ララバイ』[52]、アイワールドの『I LOVE THE WORLD』の歌唱を担当している。1992年、公益社団法人日本青年会議所の主催する「地球の応援歌」コンテスト[53] SONG FOR THE EARTH ‘92 に『- MOVEMENT FOR TOMORROW - もうそろそろ(明日への行動)[54]』で応募して750点の作品の中から金賞(グランプリではない)に入選し、同年10月18日の受賞発表会(東京新宿ルミネアクトホール)で披露される。
暫くのブランクの後、1998年から順次、G.U.RECORDからヒーリングCD(インスツルメンタル)のHARVESTシリーズを5枚(ベスト版を含む)[55]、及びオリジナルアルバム『Memoir(メモワール) - The Folk Album -』[56]をリリースする。このオリジナルアルバムは、元々ヒーリングCDの延長としてボーカル入りで制作する企画が、収録を進めていくうちに本格的なオリジナルアルバムの制作に変わったものである[15]。また、同アルバムに収録されている『セカンドウィンド』[57]は、エフエム宮崎で持っていたラジオDJ番組『スウィートコーンのセカンドウィンド』[58]のテーマ曲として作ったものである。また同曲は、テレビ東京系『ともだち王』のエンディングテーマ及び文化放送で愛知学院大学のCMに、『ALARM』はテレビ東京系『わっ!!つNEW』のエンディングテーマにそれぞれ起用される[15][59]。
ライブハウス、学園祭[60]又はイベント[61]など、各所でのコンサート活動は、デビュー前から精力的に行ってきている[62]。東京地区での定期的なコンサートは、デビュー前に甚六屋(北千住)やイエローページ(池袋)を、デビュー前後を通してマーキー(江古田)を、それぞれホームグラウンドのようにして行われ、大型の企画はTAKE OFF 7(渋谷)、ルイード(新宿、原宿)などで開催される[63]。東芝銀座セブンでのミニコンサート(1部・2部制)は常連である。また、志村坂上・池袋の『五番街』でもしばしばミニコンサートが行われている[64]。その中でも特筆すべきは、1983年3月21日のマーキーでの『ドア前コンサート』[15][65]と、1984年8月5日の富士山の本八合江戸屋前で行われた『Mt. Fujiサマーコンサート’84』の出演である[66][67]。曲目はオリジナル曲のラブソング(一部にユーモラスなものを含む[68])のほか、著名なフォークソング[69](独自アレンジによる)を時折交えている。弾き語りを手掛けているファンメンバーの作品を借用して歌うこともある[70]。木村はオリジナルのクリスマス・ソングの創作にも力を入れており、クリスマス・コンサートで披露している[71]。前述のとおり、数多くのオリジナル曲を持っているので、コンサートで1度だけ歌ってお蔵入りする曲がある。逆に、オリジナル曲の多さを生かして同じ曲を歌わないでどこまでコンサートが続けられるかとのチャレンジ企画もなされる。また、オリジナル曲は自身で歌唱するためのものであるが、ほかのアーチストに贈ったものもある[72]。ステージではアコースティック・ギターの弦を切ることがしばしばあり、相方が弦の交換をしているときだけにソロで歌う曲を用意している[73]。レコード会社の移籍後、スウィートコーン出前ライヴと称して「20人以上集まるところなら、どこへでも行きます」[74]と活動を広げていたが、東京地区でのコンサートは、結果として1993年10月24日のマーキーでの開催が最後になる。その後、前述のアルバムのリリースや、ラジオ番組に何度かの出演、本人達のホームページでブログ相当の日記の掲載[75]があったほか、ファンクラブのお問い合わせ先として新たな事務所をアルバムのライナーノートに掲載していたが、本人達が姿を見せることはなかった。本人達の状況をファンに公にすることもなく、活動をフェードアウトするに至っている。