スタッフォード家
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| スタッフォード家 | |
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| 貴族 | |
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スタッフォード家の紋章は、紋章学の時代の初期(1200年頃 - 1215年)に採用されたもので、おそらくスタッフォード家の創始者と言われているハーヴェイ2世・ド・スタッフォード(1237年没)(ハーヴェイ1世・バゴット(1214年没)の息子で、その妻で相続人のミリセント・ド・スタッフォードとの間に生まれた)によって採用されたものである:金地に赤いシェブロン。 | |
| 国 |
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| 創設 | 11世紀 |
| 家祖 | ロバート・ド・スタッフォード |
| 最後の当主 | 第6代スタッフォード男爵ロジャー・スタッフォード |

スタッフォード家(House of Stafford)は、イングランド貴族の家系。一族の本拠地であるスタッフォード封建男爵領(Feudal barony of Stafford)は、イングランド、スタッフォードシャーのスタッフォード城を本拠地とする封建男爵領であった。その後、領主は勅令によりスタッフォード男爵(1299年)、スタッフォード伯爵(1351年)、バッキンガム公爵(1444年)に叙せられた。1521年に第3代バッキンガム公エドワード・スタッフォードが処刑され、死後に私権剥奪を受けた後、スタッフォードの城と荘園は王室に没収され、すべての称号は剥奪された。しかし、スタッフォード城と荘園は10年後の1531年、長男ヘンリー・スタッフォード(初代スタッフォード男爵、1501年 - 1563年)に再び与えられ、1547年には男爵に叙せられた。富と称号の多くを削られたスタッフォード家の子孫はスタッフォード城の所有権を保持し、4代男爵の未亡人は内戦時の1643年以降に議会軍によって城が破壊された時もそこに居を構えていた。6代スタッフォード男爵(1640年没)の時代になると、一族は貧困と無名に沈み、1639年には第6代男爵はチャールズ1世から「スタッフォード卿の遺産を一切相続しておらず、他のいかなる領地や財産も受け取っていない」という理由で爵位を放棄するよう求められるという屈辱を味わった[1]。翌年、第6代男爵が未婚で子孫を残さずに亡くなったことで、スタッフォード家の男系は断絶した。しかし、1661年に封建領有権が廃止された後も、スタッフォード荘園と城跡の後の所有者一族のもと、封建男爵領の名残は継続されたとみられる。
トニー家/スタッフォード家
スタッフォード家の系譜は、ストーン修道院の年代記に記されている。これは、1537年の修道院解散時に(初代領主によって創建された)ストーン修道院に掛けられた銘板に刻まれている詩であり、サー・ウィリアム・ダグデールにより『Monasticon Anglicanum』に記されている[2]。現代の一般的な資料には、その系譜は次のように記されている[3][4]。
- ロバート・ド・スタッフォード(またはロバート・ド・トニー、1039年頃 - 1100年頃)[3] - 1066年のノルマン・コンクエストの間、あるいはその直後にイングランドに来たアングロ=ノルマン貴族。征服王ウィリアム1世から、新たに征服した王国(主にスタッフォードシャー)の131の荘園を与えられた[5]。ロバートはスタッフォード城を本拠地とした。領有した131の荘園は1086年のドゥームズデイ・ブックに記されている。妻(アヴィス・ド・クレアとされる)との間に1男をもうけた。
- ニコラス1世・ド・スタッフォード(1138年頃没)[3][6] - ロバートの長男、第2代スタッフォード封建男爵[3]
- ロバート2世・ド・スタッフォード(1177/85年没) - ニコラス1世の息子
- ロバート3世・ド・スタッフォード(1193/4年没) - ロバート2世の息子
- ミリセント・ド・スタッフォード - ロバート3世の姉妹で女子相続人。ハーヴェイ1世・バゴット(1214年没)と結婚。ハーヴェイは「この相続人との結婚と彼女の封地を得る許可を得るために、獅子心王に非常に重い罰金を支払わなければならなかったため、彼女の荘園の一つであるドレイトンをセント・トマスの律修司祭に売却せざるを得なかった」[7]。ミリセントの次男は「Broomshull」(スタッフォードシャーのアトックスター近郊のブラムシャル、バゴット家の領地[8][注釈 1][注釈 2][注釈 3])のウィリアム・スタッフォードで、ドーセットのフックのスタッフォード家、ウィルトシャーのノース・ブラッドリー教区のサウスウィックのスタッフォード家、ウスターシャーのブロムスグローブ教区のグラフトンのスタッフォード家など、いくつかのスタッフォード家の祖先である。
バゴット家/スタッフォード家
- ヘンリー/ハーヴェイ2世・ド・スタッフォード(1237年没) - ミリセントの息子で相続人。父方の姓バゴットでなく母方の姓スタッフォードを名乗り、第3代ダービー伯ウィリアム・ド・フェラーズ(1190年没)の娘パーネルと結婚した。「栄華の頂点に上り詰め、どん底の極みに堕ちた、イングランド屈指の名家の一つ」と言われたスタッフォード家の始祖とされている[7]。
- ハーヴェイ3世・ド・スタッフォード(1241年没)- ハーヴェイ2世の息子、嗣子なく死去。
- ロバート4世・ド・スタッフォード(1261年没) - ハーヴェイ3世の弟
- ニコラス2世・ド・スタッフォード(1255年 - 1282年) - ロバート4世の息子
- 初代スタッフォード男爵エドマンド・ド・スタッフォード(1272/3年 - 1308年) - ニコラス2世の息子。1299年2月6日、エドワード1世の勅令により議会に召集され、初代スタッフォード男爵となった。スタッフォードシャーのドレイトン・バセットの初代ドレイトン・バセット卿ラルフ・バセット(1299年没)の娘マーガレット・バセットと結婚した。次男リチャード・スタッフォードは、1371年に勅令により男爵となったクリフトンのスタッフォード家の祖先である。この家は15世紀初頭に断絶した[7]。
- 初代スタッフォード伯ラルフ・ド・スタッフォード(1301年 - 1372年) - 初代男爵の息子。1351年にスタッフォード伯に叙せられ、ガーター騎士団の創設メンバーの一人となった。初代グロスター伯ヒュー・ド・オードリー(1347年没)の娘で相続人であるマーガレット・ド・オードリーと結婚した[3]。スタッフォード城の初代バッキンガム公・第6代スタッフォード伯ハンフリー・スタッフォード(1402年 - 1460年)の祖先。
- 第2代スタッフォード伯ヒュー・ド・スタッフォード(1342年頃 - 1386年) - 初代伯の長男
- 第3代スタッフォード伯トマス・スタッフォード(1368年頃 - 1392年) - 2代伯の次男
- 第4代スタッフォード伯ウィリアム・スタッフォード(1375年 - 1395年) - 2代伯の三男
- 第5代スタッフォード伯エドマンド・スタッフォード(1378年 - 1403年) - 2代伯の五男
- 初代バッキンガム公・第6代スタッフォード伯ハンフリー・スタッフォード(1402年 - 1460年) - 1444年に初代バッキンガム公とされた
- 第2代バッキンガム公ヘンリー・スタッフォード(1455年 - 1483年) - 初代公爵の孫、1483年に反逆罪で有罪となった。
- 第3代バッキンガム公エドワード・スタッフォード(1477年 - 1521年) - 2代公爵の長男、1485年に父の名誉を回復した。1511年にはグロスターシャーのソーンベリー城に新たに大邸宅を建てたが、スタッフォード城は保持した。1521年に反逆罪で処刑され、1523年にヘンリー8世の治世下で私私権剥奪された。一族の領地は王室に没収された。
- 初代スタッフォード男爵ヘンリー・スタッフォード(1501年 - 1563年) - 3代公爵と第4代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーの娘エレノアの間に長男として生まれた。1520年、ヘンリー8世に随伴して金襴の陣に赴いたが[12]、父は翌年反逆罪で処刑され、爵位を剥奪された。1522年に父の領地の一部を取り戻したが、1529年には妻と7人の子供と共に4年間修道院に寄宿していたと主張した[13]。1531年7月15日、依然として「邪悪な血統」とみなされていたものの、ヘンリー8世から父が没収したスタッフォード城と荘園を授与された。これ以降、爵位を持たないにもかかわらず「スタッフォード卿ヘンリー」と呼ばれるようになった[14]。しかし、1547年、幼少のエドワード6世の治世下で、ヘンリーはスタッフォード男爵として貴族に列せられたが、その地位は男爵の中では最下位であった。1554年、ノーサンバーランド公の反乱における功績により、ソーンベリー城その他の父の旧領を与えられた[15]。1558年、ヘンリーの新しい称号は1299年の男爵位に続くものと認められ、タルボット男爵に次ぐ地位となったが、新しい称号は古い称号とは異なり、男系のみで受け継がれた[14]。妹は、第3代ノーフォーク公トマス・ハワード(1473年 - 1554年)と結婚したが、トマス・ハワードはヘンリー8世の妻で斬首刑に処せられたアン・ブーリンとキャサリン・ハワードの伯父にあたり、これらの結婚において主要な役割を果たした。1546年に失脚した後、公爵位を剥奪されロンドン塔に投獄されたが、1547年1月28日にヘンリー8世が亡くなった際に処刑を免れた。
- 第2代スタッフォード男爵ヘンリー・スタッフォード(1534年頃 - 1566年) - 初代男爵の相続人、シュロップシャーの議員を務めた。リンカーンシャーのホルビーチ出身のエリザベス・デイビーと結婚したが、子供はいなかった。1566年にスタッフォード城で亡くなり、スタッフォードのセント・メアリー教会に埋葬された[16]。
- 第3代スタッフォード男爵エドワード・スタッフォード(1536年 - 1603年) - 2代男爵の弟、スタッフォード城で生まれた。スタッフォード自治区の議員(1558年 - 1559年)を務め、後にミドル・テンプルで弁護士になるべく学んだ。第3代ダービー伯エドワード・スタンリーとその妻で第3代ノーフォーク公の娘キャサリン・ハワードの間の娘メアリー・スタンリー(1609年没)と結婚。1603年に亡くなり、スタッフォードのセント・メアリー教会に埋葬された。妻は1609年にに死去しソーンベリーに埋葬され、その墓碑が今も残っている[16]。
- 第4代スタッフォード男爵エドワード・スタッフォード(1572年 - 1625年) - スタッフォードのキャッスル教会に埋葬されている[17]。1643年の内戦初期、スタッフォード城は未亡人であるイザベル(旧姓イザベル・フォースター)によって守られていた。イザベルは熱心なローマ・カトリック教徒で王党派であった。議会派は1643年5月15日に短い包囲戦の後にスタッフォードの町を占領したが、守備隊の一部は脱出し、スタッフォード城を橋頭堡として町を奪還しようと試みた[18]。司令官ウィリアム・ブレアトンは部下数名と共に城に馬で乗り込み、イザベルに降伏を求めたが、イザベルは拒否した。これに対し、「彼らの士気を少しでも下げようと、いくつかの粗末な離れに火が放たれた。しかし、全て無駄だった。城から兵士や馬が射殺され、残りの兵士たちは激怒し、激しい復讐心を抱いた。住居と離れのほとんどが焼け落ちた。」6月5日、ヘイスティングス率いる救援部隊が到着すると、包囲は解かれた。イザベルは最終的に説得されて撤退し、少数の守備隊が新たな包囲から城を守るために残った。
- 第5代スタッフォード男爵ヘンリー・スタッフォード(1621年 - 1637年) - 4代男爵の孫。姉メアリー・スタッフォード(1619年 - 1694年)は、第14代アランデル伯トマス・ハワードの次男ウィリアム・ハワード(1614年 - 1680年)と結婚し、スタッフォード家の男系が断絶した後(1640年の第6代スタッフォード男爵ロジャー・スタッフォードの死後)、二人はともにスタッフォード男爵に叙せられた。
- 第6代スタッフォード男爵ロジャー・スタッフォード(1573年頃 - 1640年) - 5代男爵の遠縁リチャード・スタッフォード(初代スタッフォード男爵ヘンリー・スタッフォードの次男)とその妻メアリー・コーベットの一人息子である。メアリー・コーベットは、シュロップシャーのリー出身で、1539年にシュロップシャーの議員となったジョン・コーベット(1500年頃 - 1555年)の娘である[19]。コーベットは、シュロップシャーのコーズ城の辺境領主で封建男爵でもあった有力なノルマンディー出身のコーベット家の子孫であり[20]、その城の所有権はスタッフォード家に移っていた時期があった。1523年、ジョン・コーベットは私権を剥奪された第3代公爵の土地の管理人を務め、第3代公爵の息子である初代スタッフォード男爵ヘンリー・スタッフォードによってコーズの執事に任命された[19]。ロジャー・スタッフォードは64歳頃に爵位を継承したが、2年後の1639年、チャールズ1世から「スタッフォード卿の遺産を一切相続しておらず、他のいかなる領地や財産も持たない」という貧困を理由に爵位の返上を求められた[1]。国王は名誉あるスタッフォード男爵位をハワード家に授けたいと考えており[21]、当時既に高齢であったロジャーは、結婚して家系を継承するのを防ぐため、ロンドンのアランデル・ハウスでハワード家によって死ぬまで監禁されていたと言われている。ロジャーが未婚のまま子孫を残さずに亡くなったため、男爵位と名家スタッフォード家の男系は断絶した[1]。
領地
1086年のドゥームズデイ・ブックに記載されているように、最初の領主は131の荘園を所有しており、その大部分はスタッフォードシャーにあった[5]。これらにはスタッフォードシャーのバーラストン[22]とブラッドリー[23]、オックスフォードシャーのダンズ・テューの一部が含まれていた。
スタッフォード家の断絶
封建男爵領はスタッフォード城の所有権とともに相続され、やがてスタッフォード家の手を離れることとなった。スタッフォード家の最盛期は、第3代バッキンガム公エドワード・スタッフォード(1477年 - 1521年)の時代であったが、1521年に反逆罪で処刑され、その死後「スタッフォード家は衰退し、二度と立ち上がることはなかった」とされている[7]。クリーブランド公夫人は、エドワードの子孫が人知れず貧困へと転落していった経緯を次のように記している。
- 「領地と爵位を剥奪された彼の一人息子は、その華麗なる財産のごく一部を取り戻し、男爵として議会で議席と発言権を得た。この称号は数世代にわたって受け継がれた。第4代スタッフォード卿エドワードは「母の侍女と卑しい結婚」をし、孫のヘンリーが跡を継いだが、直系は1637年に彼で途絶えた。最後の後継者ロジャーの相続権は、貧困を理由に貴族院によって却下された。最後の公爵の曾孫であるこの不運な男は当時65歳で、自らの名を名乗ることを恥じるほどの悲惨な境遇に陥り、長い間フラッド、あるいはフロイドと呼ばれていた。これは、幼少期に彼を育て、保護してくれた叔父の使用人の父称を名乗ったためだと考えられている。彼は男爵位をチャールズ1世に渡すことを余儀なくされ、1640年に未婚のまま亡くなった。残された唯一の妹ジェーンはプランタジネット家の血筋であったにも関わらず大工と結婚し、息子をもうけたが、この息子は1637年にシュロップシャーのニューポートで靴職人として生計を立て貧しい暮らしであった。」
系図
| トニー家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ロジェ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ラウル2世 | ロバート 初代スタッフォード封建男爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| トニー家 | ニコラス1世 第2代スタッフォード封建男爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ロバート2世 第3代スタッフォード封建男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ロバート3世 第4代スタッフォード封建男爵 | ミリセント | ハーヴェイ1世・バゴット | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ハーヴェイ2世 | ウィリアム フックおよびサウスウィック領主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ハーヴェイ3世 | ロバート4世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ニコラス2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドマンド 初代スタッフォード男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ラルフ 初代スタッフォード伯 | リチャード 初代クリフトンのスタッフォード男爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ヒュー 第2代スタッフォード伯 | エドマンド 第2代クリフトンのスタッフォード男爵 エクセター司教 | トマス 第3代クリフトンのスタッフォード男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ラルフ | トマス 第3代スタッフォード伯 | ウィリアム 第4代スタッフォード伯 | エドマンド 第5代スタッフォード伯 | アン・オブ・グロスター | ラルフ・ネヴィル 初代ウェストモーランド伯 | ジョーン・ボーフォート | トマス 第4代クリフトンのスタッフォード男爵 | ジョン カンタベリー大司教 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ハンフリー 初代バッキンガム公 | アン・ネヴィル | ウィリアム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| マーガレット・ボーフォート (第2代サマセット公エドマンド娘) | ハンフリー スタッフォード伯 | ヘンリー | マーガレット・ボーフォート (初代サマセット公ジョン娘) | エドマンド・テューダー リッチモンド伯 | ジョン ウィルトシャー伯 | ハンフリー 初代デヴォン伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| キャサリン・ウッドヴィル | ヘンリー 第2代バッキンガム公 | ヘンリー7世 イングランド王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドワード 第3代バッキンガム公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ヘンリー 初代スタッフォード男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ヘンリー | エドワード 第3代スタッフォード男爵 | リチャード | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドワード 第4代スタッフォード男爵 | ロジャー 第6代スタッフォード男爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドワード | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ウィリアム・ハワード 初代スタッフォード子爵 | メアリー スタッフォード女伯 | ヘンリー 第5代スタッフォード男爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ハワード家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||