セバスチャン木村

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セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年永禄9年)ごろ - 1622年9月10日元和8年8月5日))はカトリック教会の日本人最初の司祭、また日本人最初の殉教司祭である。イエズス会士。元和の大殉教のときに長崎・西坂で殉教した55人の中の一人であり、教皇ピウス9世により1867年7月7日に列福された。記念日は9月10日。

1566年(永禄9年)ごろ、平戸のキリシタン一家に生まれる[1]。祖父は、フランシスコ・ザビエル1550年秋、鹿児島からミヤコに向かう途中の平戸で宿泊した屋敷の主人で、同地でのザビエルからの最初の受洗者であった[2]1580年天正8年)に開設された有馬のセミナリオに最初の生徒20人の一人として入学した[3]1582年(天正10年)、有馬セミナリオ出身者としてイエズス会に入会を許された最初の5人のうちの一人であった[4]1584年(天正12年)、イルマン(修道士)としての誓願を立て、ミヤコに送られた[4]1587年(天正15年)の豊臣秀吉による伴天連追放令によって平戸に移った後、有馬領、続いて1589年に島原に近い三会に赴任した[4]1590年に再来日した巡察師ヴァリニャーノの日本人司祭養成方針のもと、天草のコレジオラテン語、国語、基礎神学を学んだ後、1595年にマカオのコレジオに送られ、同地にて1598年に山田(飾屋)ジュリアン、にあばらルイスと共に副助祭に叙階、1600年、祖国日本に戻り、同年8月13日、長崎に到着し[4]、9月の四季の斎日にセルケイラ司教により三人は助祭に叙階された[5]。山田ジュリアンは結核のため1601年7月帰天[5]、1601年9月22日(慶長6年8月26日)、長崎の被昇天の聖母教会(聖パウロ教会)でセバスチャン木村とにあばらルイス[6]は日本人として初めて司祭に叙階された[1]

叙階後の十数年間、木村神父は天草、豊後、島原半島の加津佐、不動山等でキリシタンの司牧を担当していた[7]が、1614年の幕府のキリシタン禁教令によりほとんどの宣教師が国外追放となるなか、木村神父は日本に残留、長崎における唯一の日本人司祭となった[8]1620年2月9日、修道者としての最終誓願を許された[8]。しかし、1621年6月29日、密告者によって潜伏先が奉行所に知らされ、捕縛・取り調べの後、大村のキリシタン牢に送られた[9]1622年夏、江戸幕府より牢の中のキリシタンの死刑の指示が届き、9月初め、長崎奉行長谷川権六の指示により、大村から長崎に移送され[10]、9月10日、30人のキリシタンが斬首、木村神父を含む25人が火刑に処せられて殉教を遂げた(元和の大殉教)。

列福

1867年7月7日、教皇ピウス9世は、元和の大殉教での殉教者55人全員を含む、江戸時代初期の日本での殉教者205人を列福した。記念日は元和の大殉教の日付けから9月10日。この記念日は日本では長らく「日本205福者殉教者」とされていたが、2024年12月から「福者セバスチャン木村司祭と204殉教者」と名称変更がなされた[11]

福者セバスチャン木村司祭と204殉教者レリーフ作品

1867年に列福された「日本205福者殉教者」を顕彰するためのブロンズレリーフ作品『福者セバスチャン木村司祭と204殉教者」が2024年に安藤真樹によって製作され、2025年5月8日、東京都練馬区日本カトリック神学院で除幕式が行われた[12]。長崎市内西坂公園敷地内にもさらに一基設置され、2025年10月26日に除幕式が行われている[13]

脚注

参考文献

関連項目

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